第3話

 その日から、ケンちゃんが朝来ることはなくなった。



 なくなったのだが。



 代わりに昼に来るようになった。



「おねーさんただいま!」

 今日もドアが壊れんばかりの勢いで開け放たれ、中から元気な男の子が飛び出してきたのです。これ桃太郎の文章だっけ。絵本なんて二十年くらい読んでないのに、意外とちゃんと覚えているものだ。

 とか、そんなことはどうでもよくて。

 今日もケンちゃんはやってきた。服は泥だらけ、体は傷だらけで、目だけはいつまでも眩くキラキラと輝いている。兄ちゃんにバレないように服を洗わせてほしいというお願いから二ヶ月。つまり、また一つ世良優斗への隠し事が増えてしまったのだった。私は私でモーニングコールの負い目があったのでケンちゃんのお願いそれくらいなら叶えたる、とか最初こそ意気込んてたものの、よく考えればこれは、優斗に怒られやしないだろうか。高校生に怒られることを恐れる成人女性の構図も客観的に見れば滑稽かもしれないが、実際私は公園でのあの一件から彼とはまともに話せていないのだ。

 チラリとケンちゃんを盗み見る。明らかに汚れの数が二ヶ月前と比べて増えていた。

 二ヶ月。この二ヶ月で、いろいろなことが変わった。まず、よく遊んでいると言っていたカナちゃんとあっくんとポンの話をあまり聞かなくなった。学校はどう、と聞くと楽しいと帰ってくるのだが、前ほど具体的なエピソードを聞かなくなったのだ。時折ふっと子供らしい笑顔が消えて何か考え込むような仕草をするようになったのも気になる。ランドセルにあったキーホルダーも気付けば消えていた。

 それぞれは些細な事柄で、気に留めるようなことでもないのかもしれないが。私がもっと日々の生活に追われていればすぐに忘れてしまうようなことだったのかもしれないが。生憎あいにくと忙しくない私は全てに引っかかってしまい、それで、なんとなく、気になってしまう。

 まぁ、気になるといっても実際何もできていないのが現状ではあるものの。

 あくまでも私は隣人で、この二ヶ月で近況報告できるような出来事も何もない引きこもりの二十五歳で、だからこうやって頼まれでもしない限り私から何かしてあげられるようなこともないのだ。

 ケンちゃんは何も言わない。何も教えてくれない。私からも何も聞いてない。

 元々二人にはなんの興味もないところから始まった。子供二人での暮らしというのは大変そうだが、きっと大きく関わることもないのだろう、と。

 そういう意味では、私も変わりつつあるのかもしれない。


「おねーさんはずっと家で何をしているの?」

 その言葉で一瞬手が止まる。

「んー……」

 ちなみにケンちゃんの服は全部手洗いしている。ケンちゃんはすでに自分の家から持ってきた服に着替えており、帰ってきた兄は気づくんじゃないかとは思ったものの様子を見る限りでは未だに問い詰められたりしていないようだ。

 割と新しそうなズボンは、すでにひざの部分が破れかかっていた。これはそのうち糸と針も用意する必要がありそうだ。

 というか、私はこの子のなんなんだ。

「おねーさん?」

 その声で我に返った。

「私は、」

 息を深く吸って、吐く。それだけで、だいぶ気持ちが楽になる。

「今、人生お休み中なの」

「おやすみ?」

 言葉を選びながら、心の動揺を悟られないようにしながら、目の前の作業にだけ集中する。なかなか裾の汚れが取れなくて困った。泥だらけにも程がある。

「うん、仕事とか勉強とかも全部お休み。元気になったらまた仕事するのかもしれないけどね」

「元気じゃないってこと?」

「あんまりね」

 よし、ズボンは完了。手洗いもここ二ヶ月でだいぶ慣れてきたものである。

「綺麗になったんじゃない?」

 と、水を絞ってケンちゃんに見せてみるも、ケンちゃんの表情は晴れないままだ。

「ケンちゃん?」

 呼びかけると、ケンちゃんはぽつりと独り言のように呟いた。

「おねーさん、どうしたら元気になるかな」

「……」

 こうして手が濡れていなかったら、ケンちゃんの頭を撫でてしまいたくなっていただろう。この子は、優しい。おばさんじゃなくおねーさんと呼び続けるところ、日々の挨拶を欠かさないところ、そして何よりも、兄に心配をかけさせないように振る舞っているところ。

 きっと世良優斗も優しい人間なのだろう。素性のしれない、働いている様子もない隣人に弟を近づけたくない気持ちは今ならわからなくもない。

「ありがとうね」

 努めて明るい声を出す。うまく笑えているだろうか。小学生は大人が思っている以上に大人の顔色を気にしているものだ。かつて私も小学生だったから、よくわかる。

「おねーさんは大丈夫だよ。ケンちゃんは優しいね」

 笑ってみせる。そうすると、ケンちゃんもこちらを見てにっこりと笑った。よかった。素直だ。

「シャツは、ぼくがやる!」

 と、ケンちゃんは元気よく手を伸ばして服を掴む。伸ばしたその袖の下にも傷が見えた。真新しい擦り傷が。

 やはり、明らかに傷が多いのだ。

「うーん……」

 次、次だ。次に来たときに聞こう。今決めた。



 家に誰かがいる感覚は随分久しぶりのもので、私はこうやって普通に会話できていて、ちゃんと笑えていて、だから大丈夫になったのだと、一瞬、ほんの一瞬だけ、勘違いをしてしまった。

 もう、忘れられたのだと。



 天井から吊り下がる電気を眺めること一時間。見つめていても視界情報は何一つ変わることもなく、かといって体を動かす気にもなれず、時間だけが無情にも過ぎていく。眠気はないのに気力がないから起き上がれない。体内時計がまともに機能していないので、窓がなければ今がどれくらいの時間帯なのかすらわからないままだっただろう。

 私は布団の上にいた。卓袱台ちゃぶだいの上の洗面器は片付けずに放置したまま、シンクに放置している食器も洗わないまま。やるべきことは相変わらず沢山ある。

 手を動かしている間は何も考えなくてよかった。こうやって部屋で一人になって考える時間ができると、私はまた駄目になる。性懲りも無く、昔のことを思い出してしまう。

 ケンちゃんの今日の訪問のように、人からの頼まれごとは速攻でこなせるものだった。昔からそうだった。人のためなら頑張れるのに、なぜ、私は私のためには動けないのだろう。なぜ、こうして私は今寝そべっているのだろう。

 要するに、暮らしの中に他者が介在しないと生活ができない。それはここに来る前からわかっていたことだった。

 長い休みをもらった。何も聞かれたくなかった。きっかけは些細なことだった。玄関から一歩も踏み出せなかった。優しいねと言われた。電話の音が怖くなった。仕事が早いと褒められた。テレビを壊した。何も聞きたくなかった。初めて好きだと思った。時間が解決するよと言われた。幸福な一日だった。大丈夫かと聞かれた。うまく笑い返せなかった。全部捨てた。浮かれていた。私は一人になった。手が温かいと思った。涙は出なかった。ご飯が喉を通らなくなった。結婚しようと彼は言った。幸せになろう、と手を握って笑っていた。



 チャイムが鳴る。その音で、思考が現実世界に引き戻される。横になってから何時間が経過しただろう。何時間無駄にしたのだろう。いや今はそんなことはどうでもよくて。

 体を起こしてのろのろと玄関に向かう。体裁を整える元気はなかった。こんな夜遅くに誰だろうか。一瞬ケンちゃんが忘れ物でも取りに来たのかと思ったがケンちゃんはチャイムではなくドアを叩きまくるスタイルだ。でもそれは身長が届かないから仕方ない。いやいや、そんなことも本当はどうでもよくて。

 まずい。さっきから思考が逸れ過ぎている。昔のことを思い出すといつもこうだ。

「はーい」

 ケンちゃんじゃないなら大家さんかな、家賃は滞納してないはずだけどな、とか思考を巡らせながらゆっくり扉を開ければ、そこに立っていたのは。

 世良優斗。隣に住む、ケンちゃんの兄だった。

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隣の部屋の男の子が世界平和のために戦ってることを私は知らない @envyyou

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