第2話

 私のだらしなさが全面に出た歯磨き事件から、一ヶ月。

 あれから兄の方には会っていない。超絶気まずい。弟の方は変わらず、週に二回同じ時間に起こしにくる。とても律儀だ。部屋に溜まりに溜まっていたゴミ袋もおかげさまでだいぶ片付いてきた。だんだん申し訳なくなってきて、でももういいよとは言えず、モーニングコールは続行のまま今に至る。


「おねーさんだ!」

 姿が見つかるより先に声が聞こえた。あの元気な声はおそらくケンちゃんだろう。こちらに走り寄ってくる影に目を凝らすもなかなかピントが合わない。視力がここ数ヶ月でかなり落ちた気がする。そろそろ眼鏡の購入を検討するべきか。

 手を振るとケンちゃんも走りながら振り返してきた。黄色い帽子は既に頭から取れていて首にかかった紐だけがかろうじて繋ぎ止めている状態だ。もうすぐ取れそう。

 直前まで全力ダッシュを緩めることなく駆け寄り、ケンちゃんは私の前で急停止した。ズズズッと地面と運動靴との摩擦まさつで、パッと砂埃が辺りに舞う。どうやらこれがやりたかったようだ。ドヤ顔でこちらを見てくるが疲れは隠し切れないのか、ぜぇぜぇと荒く息を吐いて肩が上下している。それでも尚、目の輝きは失っていない。めちゃくちゃ元気だ。全身から生を感じる。最強。無敵。

「学校楽しかった?」

 これまで近所付き合いはめっきりしていなかったのだが、これを機会に改めるのもいいかもしれない。そのスタートが子供であれど、私にとっては大きな一歩だ。ニート、あまりにも世間様との関わりを断ちすぎている。

 なんせここ数ヶ月、必要最低限の会話しかしてこなかったのだから。

「うん!」

 すごい勢いで頷き、文字通り太陽のような笑顔でこちらを見上げた。うおー眩しい。

「おねーさん何してたの?」

 そしてそんな太陽のような笑顔でかなり辛辣しんらつなことを聞かれた。うっ。しかしこの子は悪くない。なんの悪気もないのが一層辛い。

 不審がるのも無理はない。私も小学生の子供だったら聞いていただろう。

「おねーさんはですね、ブランコを漕いでおりました」

 悩んだ末、正直に答えることにした。本当のことを言っていないだけで、何も嘘はついてない。

「ふーん」

 聞いたケンちゃんは不思議そうな顔をしていたがそこから更に聞くようなことはしなかった。小学生相手に気を使わせてしまってるのを肌でひしひしと感じる。辛い。

 ランドセルをおろし、私の隣のブランコに軽やかな身のこなしでケンちゃんも座る。この光景、はたして周りからはどう見られているだろう。親子に見えたりするのだろうか。

「ケンちゃんはお兄さんと二人で暮らしているの?」

 それとなく聞いてみる。今まで気にも留めていなかったが、よく考えるとおかしな点がいくつかあるのだ。兄の方に聞くべきだったかな、とは思ったものの聞いてしまったものは仕方ない。

「そう!」

 ケンちゃん。小学一年生の男の子。漕がれてるブランコの振れ幅がだんだん大きくなっていき、その度ギコギコときしむ音が聞こえる。

「兄ちゃんが、パパとママはもういないんだよって言ってたの」

 こうやってブランコに乗っているのを見ると、特によくわかる。太ももの裏の青いあざ。おそらく、引っ越してくるよりずっと前に出来たもの。

「二度と会えないんだって。でねー、しばらくおばあちゃんの家とか、おばさんの家とかにいたんだけどね、兄ちゃんが急に二人で暮らそうって言ったんだ。学校のこととか、お金のことは心配しなくていい、兄ちゃんがなんとかするって」

 着ている洋服でもわかる。というか、うちのアパートにきた時点でわかってる。この子達は、裕福な暮らしができていないことくらい。

 たかが隣人の私が干渉してはいけないことだとは思っていたのだが。

「パパはたまに怖いけど、でもね、ほんとはやさしい人なんだよってママが言ってた。いつか怖くなくなるから、それまでまっててって。がまんさせてごめんねって言ってた」

「……」

「……ぼくね、本当はママもパパもきらいじゃないんだ。本当はね、すっごく会いたい」

「……そうだよね」

 ブランコが止まる。ケンちゃんはこちらを見てにっこりと笑った。

「これ、兄ちゃんにはナイショだよ」


 遠くの方で小学校高学年の子達数人が鬼ごっこだか隠れんぼだかで遊んでいるのを横目に見ながら私はベンチに座り、ケンちゃんはジャングルジムに登っていた。聞くところによると、最近はジャングルジムをはじめとする公園の遊具の規制が増えてきているらしい。この公園のものもいつか消えてしまうのだろうか。

「ケンちゃんはお友達できた?」

 聞くと、ケンちゃんは器用に片手でするすると登りながらできたよ、と明るく答えた。兄が家に帰ってくるのが遅いことを私は知っている。ケンちゃんは、学校で起きた出来事だったり、最近の発見だったりを話す相手がいるだろうか。

「んーとねー、あっくんとカナちゃんとポンとね、今日はヒーローごっこで遊んだよ。あと、明日も遊ぶんだ。でも、ほんとはナイショにしないといけないんだって。だから、これ、他の人には言わないでね」

 内緒にしないといけないヒーローごっこってなんだ。秘密が多くて少し笑ってしまった。でも子供はそういうものか。私もかつて小学生だった頃は、大人たちに言っていないことはたくさんあった気がする。

 私の笑った様子を見てケンちゃんは絶対だよ!とジャングルジムのてっぺんから少し怒ったように念押しするので、はいはい、と頷いてみせた。といっても私が一ヶ月の間に会話する人間なんて片手に収まる数しかないので、これはおそらく兄に黙っててほしいとかそういうことなのだろう。

 それからもケンちゃんは揚々と友達の話、学校の話を続けた。勉強は楽しくて、友達は面白くて、算数はちょっと難しいけど、先生は優しいし、休み時間はみんなと遊べる。あっくんは真面目で教えるのが上手、カナちゃんは優しくて可愛い、ポンは不思議な子。放課後はいつも遊んでて、今日はたまたまポンがいなかったから早めに帰ることにしたのだとか。

 目まぐるしく話題が切り替わるケンちゃんの話に相槌を打ちながら、小学校にいるケンちゃんに思いを馳せる。きっと学校でも変わらない明るさと元気を持ってるのだろう。棒を持って走り回っているケンちゃんがすぐに脳内に浮かび上がって苦笑してしまった。容易に想像できてしまう。

 なんてことない日常の一欠片。他愛もない話に耳を傾けているだけのその時間は、久しぶりの、何もかもを忘れられるひとときだった。


「けんと」

 誰かを呼ぶ声がした。けんと。ケンちゃんはケントというのか。

 夕日が沈みかかっている。気づけば遊んでいた子供たちも姿を消していた。そんな中、ゆらゆらと近づいてくるその黒い影には見覚えがあった。あれは、一回だけ対面した隣人の兄の方。制服を着ているので学校帰りなのだろう。そういえばまだ名前を聞いていないままだ。

「兄ちゃん!」

 呼ばれたケンちゃんはパッと顔が明るくなって、ランドセルを拾いつつ声の主の方へと駆け寄る。

「……」

 彼は無表情だった。無言で、こちらを黙って睨んでいる。

「あの」

 声がうまく出なくて軽くむせた。

「なんですか」

 彼は咳き込んでいる私を冷ややかに見た。重い前髪から覗く険しい視線は依然変わらないまま。とても高校生には見えない。

「名前を教えてもらっても、いいですか」

 思わず敬語になってしまった。うっかり自分の方が年上であることを忘れてしまいそうになる。

 彼はああ、と薄く反応し、

「優斗。世良優斗です。優しいに北斗七星の斗。健斗も同じ字です」

 思ったよりも丁寧に返してくれた。

「ありがとう、ございます」

「そうだ」

 と、彼はツカツカと私に歩み寄ると、ケンちゃんには聞こえないくらいの声で囁く。ゾッとするくらいに冷たい響きだった。

「朝の目覚まし時計、止めてもらってもいいですか。すごくうるさいので」

「あ、ご、ごめんなさ」

「あと、健斗にはもう構わないでください」

「……」

 彼は私の反応を見ることもなく顔をそむけると、弟の方に向き直り二言三言話し、その細い腕をやや強引に引っ張った。健斗の方はどうやらあまり気にしていないようで、こちらを見ながら先帰ってるねーと変わらずブンブン手を振っている。ランドセルについているキーホルダーが一瞬キラリと光ったが、あれはなんのキーホルダーだろうか、とかまた見当違いな方向に思考が飛んでいく。

 小さくなっていく背中が、二つ。曲がり角ですぐに見えなくなる。

 私は、消えていく二人を黙って見送った。


 それから、ケンちゃんが朝起こしに来ることはなくなった。

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