隣の部屋の男の子が世界平和のために戦ってることを私は知らない
京
第1話
「だっる……」
思っきし欠伸をしてついでに手を伸ばす。たったそれだけの動作なのにボキボキと小気味よい音が鳴る。気持ちいい。そういえば長いこと体をまともに動かしてないような気がする。運動は意識しないと忘れがちだ。
また昔の夢を見た。最近こんなのばっかだ。代わり映えのない日常生活の上に同じ夢を連続して見ているせいで、カレンダーがなければうっかり同じ日を毎日繰り返している感覚に
朝ごはんを作ろう。ゴミ出しをしよう。顔も洗わねばならない。朝はとにかくやるべきことがたくさんあるのに、一番初めのタスク、まず起き上がることがいつまでもできないでいる。頭はこんなにも正常に働いているのに、思考はどこか別のところにふわふわ飛んでいってしまう。しかし、これはなにも今日だけの話ではない。昨日も一昨日も一週間前も、思考はあの日から止まったまま。
私はまだ、一歩も前に進めていないのだ。
「……」
とりあえず体を起こして鏡の前に立つことには成功した。それだけで自分を褒め称えたいものだ。
鏡の前の自分を見てぶっさーと笑ってみる。人は、人というものはこうも簡単に変わってしまうものなのかと一周回って面白くなってきた。もちろん、女性の場合は特に化粧の有無で印象は変わるものではあるが、それにしたって半年前から随分人相が変わっている。我ながら同一人物とは思えなかった。
光を失った瞳、いつまでも消えない目の下の
半年。
もうそんなに経ったのか。
小さくつぶやいたその声は、誰の耳にも届かない。
「おねーさんおねーさん朝だよ!」
ドンドン、と壊さんばかりに扉を叩く音が聞こえてきたのは歯を磨いているときだった。やかましいことこの上ない。
あの声はおそらく最近隣に引っ越してきた小学生の男の子だろう。
そうだ。火曜日と金曜日は燃えるゴミの日だから起こしてほしいとか、少し前家の前で遭遇したときにそんな会話をした気がする。今考えるとかなり無茶苦茶なお願いである。隣人をなんだと思ってるんだ。てか騒音の原因私じゃん。
「あーはいはい」
諦めて、口の中に歯磨きを突っ込んだまま軋む扉を開ける。そもそも私が起こしてほしいと言ったのだから本来感謝しなければならないのだが、はたらかない頭ではそこまで気が回らない。
扉の向こうに立っていたのはまごうことなきその男の子だった。半袖半ズボン、いかにも小学一年生のわんぱく小僧って感じの子。ランドセルを背負ってるところを見るにこれから学校に行くのだろう。名前はケントだかケンだか、確かそんな感じ。あんまり覚えていない。
「ケンちゃんおはよう」
最初に会話したときにケンちゃんと呼んでほしいと言われて、それからはずっとケンちゃん。高校生の兄のことはお兄さんと呼んでいる。正確に言えばまだ呼んだことはない。ちゃんと挨拶したことはないがしっかりしてそうな子、とかそんな薄い印象。
最近引っ越してきたお隣さん。高校生の兄と小学生の弟の二人暮らし。ご両親は見たことがないが、少なくとも一緒には住んでいない。大家さんからは特に何も言われていないものの、どうもなんらかの事情はあるようだ。
ま、正直そんなに興味がない。こちらはこちらの生活で手一杯なのだ。
「おねえさんおはよう!」
ランドセルの中身が落ちるんじゃないかってくらいの勢いでお辞儀される。朝から元気そうで羨ましいことこの上ない。この子のキラキラした目を見ていると、自分にもこんな時期があったのだろうかとか、そんな野暮なことを考えてしまう。若くて眩しい。決して、小学生を見て抱く感想として正しくないが。
そうだ、ゴミ出しだ。こうやって越したばかりの隣人に、それも小学生に無茶なお願いをするほどにゴミ出し事情は切羽詰まっているのだ。猪だか熊だかが出るとかいう理由で夜間のゴミ出しが禁止されており、布団に連戦連敗している私はそのせいでただでさえ狭い部屋がいよいよゴミ袋に侵食され始めているのだ。非常にまずい。これでも人間として最低限の生活は守りたいという気概は一応あるのだから。
「ありがとうね」
とりあえずお礼を言うものの、滑舌が
「あ」
と、隣のドアがガチャっと開く音がして、こちらが何かする間もなく、隣のもう一人の住人が姿を現した。高校生のお兄さん。重い前髪の、生真面目そうな青年。まだちゃんと挨拶したことがない。
目が合った。
「……」
制服を着ているからに、彼もこれから学校だろう。右手には学生鞄、左手にはしっかりゴミ袋を持っている。
現在の私はといえば、髪はボサボサ、すっぴん、よれたTシャツに短パンというだらしなさ全開の格好、そしてハミガキを口に突っ込んだまま小学生の弟くんと玄関前で挨拶しているところである。
これが、初めての正式な対面である。
「……」
「あ、おはようございます」
「……どーも……」
「……」
彼は無言で私から視線を外し、早く学校行きなよと軽く弟を促し、扉を閉め、鍵をかけ、その場を去った。去った。行ってしまった。
もう弁解の余地はない。そしてよく考えれば弁解することなんて何もない。
「はーい!」
ケンちゃんも兄に促されるまま、じゃーね、とぶんぶん手を振りながら元気よく学校に向かっていった。この場に残されたのは私一人である。今から学校にも仕事にも行かない、二十五歳、ハミガキを咥えた無職の女が一人である。
「……」
天を仰いだ。空が綺麗だ。雲ひとつない青い空。死にてー。
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