沼地のはなし
南風野さきは
沼地のはなし
夜色に染まった沼の水面を、霧が這いずりまわっている。沼と陸の境においては、かつて茂っていた草が枯れ、横たわり、そこに根をおろした草が茂っている。その繰り返しによって育まれた足場である水辺を、歩いていた。
この手には、ひとかけの灯りがあった。炭鉱で用いられる、真鍮製のランプを提げていた。石炭の燃えさしがひとつ、夜に灯っていた。
「まだ、燃え尽きてはいないようだ。補充をするには、早かったかな」
頼りなくはあっても、あかあかと灯っている石炭の燃えさしを、指さしてくるものがあった。年若い、男のかたちをしている。影そのものであるような、黒の大外套と黒の短髪。赤とも緑ともつかない目が、霧に覆われた夜に映えている。
それからにじんでいる雰囲気は、親しげであり、悪友のようであり、知人のものであるようだった。
「おれはあんたに会ったことがあるのだろうか」
「どうだろうね」
「おれはいつから水辺をまわっているのだろうか」
「いつからだったかな」
「どうして夜を漂っているのだろう」
「どうしてだろうね」
「あんたはしっているのだろう」
直感を告げる。それの唇が笑みを刻んだ。
「嵐が近いようだ」
もたらされた音に、苛立ちを覚える。はぐらかされているのなら、ゆるしてはならない。こちらというものを、きちんと受けとめさせなければならない。衝動とは熾火のようなものであるから、気づいた頃にはからだが動いている。振り上げた腕の先で揺れるランプを、それの指先が示した。
「石炭が青く燃えている」
つまらなさそうに目を細め、ためいきをつくように、それは指摘した。勢いを削がれた拳は振り下ろす先を失い、もとのように、ランプはからだに沿って提げられる。
「燃え尽きそうな頃合に、また」
その声が夜闇にとけると、残り火のように、霧深い沼地には青の灯だけが浮いていた。
沼地のはなし 南風野さきは @sakihahaeno
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