第1話 母の出自

 金貨5枚のお陰で、グロリアは命拾いした。正体不明の男は、彼女を馬車に乗せると表通りに向かって走り出し、やがて町で一番上等な宿の前に停まった。ぐったりとしているグロリアを抱え、男は宿に踏み入ると、受付の女に何やら言い付けて三階の部屋に入った。彼が扉を開けるのと同時に、誰かが歩み寄る音が聞こえた。衣擦れと、足の運びから女であることがわかった。話す声からすると、年齢は若くはない。

「おかえりなさい……まあ、なんてこと……頬がこんなに腫れて……泥だらけではないの」

「湯浴みの手配はしています。グロスター夫人はその手伝いと手当てをしてやって下さい、私は旦那様に報告に行って参ります」

「ええ、わかりました。バーンズも少し休んでから出立なさって。お茶を淹れます」

「お気遣い、痛み入ります。夫人」

そのようなやり取りを聞きながら、グロリアは朦朧としている意識の中、頭を巡らせた。

(……グロスター……バーンズ)

どこかで聞いた名だ。でも、一体どこで?

考えるうちに、グロリアは自分の意識が遠退いていくのを感じた。


 再びグロリアが目を覚ました時、時刻は朝だった。窓から差し込む光が温かく、そして眩しく感じられた。

ベッドからは起き上がれず、彼女は首を巡らせて辺りを見回した。見覚えのない部屋だ。

「おはよう、気分はどうかしら」

不意に声をかけられ、グロリアは警戒しながら声の方を向いた。声の主は、優しげな雰囲気を纏った女性だった。彼女はシンプルながら高価そうな布地の深いグリーンのドレスを身に纏い、ロザリオを首にかけていた。年の頃はわからないが、おそらく、貴族だろう。グロリアは貴族が嫌いだ。しかし、苛立ちはわかなかった。不思議とグロリアは彼女を懐かしいと思った。なぜ、そう思うのか少し考え、すぐに思い至った。記憶の中にあるグロリアの母と、目の前の女性が似ていたのだ。もっとも、グロリアの母は彼女が幼い頃になくなったために、その年頃の女性よりも若かったし、貧民街で暮らしていた母は目の前の女性のように身綺麗に着飾るようなことはなかった。

「……お母様?」

グロリアがそう呟くと、目の前の女性は、目を見開き、深い海のような目を潤ませて、グロリアに囁くように問い掛けた。

「……わたくしは、貴女のお母様に、セレステに似ていますか?」

そう問われ、グロリアはこくんと頷いた。すると、目の前の女性は涙を流して、それを見せまいと顔を背けた。貴族の女性は、感情を大仰に見せることを無礼としている。彼女は、本物の貴婦人だ。

 貴婦人が部屋に入ってから少しすると、グロリアを訪ねてきた男もやって来た。男もまた、身綺麗な整った服を身に付けていた。彼は彼女に深々と頭を垂れ、問いかける。

「ご機嫌如何でしょう、レディ」

妙に畏まったその態度が不気味で、グロリアは少し嫌悪感を抱いた。

「……良くはありません」

「左様で。何が宜しくないか伺っても?」

「どうぞ」

「何が宜しくないのでしょうか?」

「身体が重たくて動きません」

そう答えると、貴婦人はグロリアの額に手を当てた。

「少し、熱がありますね。バーンズ、この宿のメイドに粥を用意するよう伝えてちょうだい。それから、医者の手配も頼みます」

「恐れながら申し上げます、ミス。この辺りの医師は皆、王城の許可を得ずに運営を行っている者たちです。信頼のおける医師を呼ぶとなると、時間を要することとなります。お許しくださいませ」

「わかりました。では私の掛かり付けの医師を呼んでください」

「承知しました」

そんなやり取りを終えて、バーンズと呼ばれた男は立ち去った。貴婦人はグロリアに柔らかい微笑みを向け、彼女の頭をそっと撫でた。

「苦しいでしょう、けれど少し待っていてくださいね。すぐにお医者様がいらっしゃいますから」

馴れ馴れしいその手が不愉快で、グロリアは腹の底で苛立った。大体、この女は自分のなんだというのだ。

「……あなたは、誰なのですか」

「……わたくしは、貴女のお母様の妹のリリー。貴女の叔母に当たりますわ。初めまして、可愛いグロリア、お姉さまの子」

自分に叔母がいたという事実より、母に妹があったという過去より、先に問いたださねばならないことがあった。

「お母様は……貴族だったのですか」

「……ええ、お姉さまと私はグロスター公爵家の娘でした」

「なぜ、お母様は貧民街にいらっしゃったのですか?」

リリーは涙を浮かべ、そして酷く冷たい声音で囁いた。

「貴女の父親が、お姉さまをかどわかしたのです。当時、使用人であったあの男を、貴族界の何者かが買収して、貶めた……っ!」

語りながら、その手がわなわなと震えていた。怒りを押さえ込むように、その手のひらに爪が食い込むほどに強く、手を握りしめていた。


 グロリアは、幼い頃に母と語らった夜を思い出した。

父が酒で暴れ、母もグロリアも家もめちゃくちゃにした夜の、ベッドの中での語らいだ。

『グロリア、わたくしはね、貴女のお父様に出会えて、こうして暮らせている日々が幸せなのよ。大切な方と暮らして、大切な方を支えて、そして、愛しい愛しい貴女を授かった。それが、とてもとても嬉しいの。だからね、グロリア、そんな風に泣かないで』

そう言われたけれど、グロリアはそれを受け入れられなかった。だって、聞きたいことが山ほどあったから。

おかあさま、おかあさまはそういうけれど、それならどうして、おかあさまの頬の傷はなおらないの?

どうして、おかあさまは日に日に痩せていくの?

どうして、おかあさまは髪を売らなければいけなかったの?

どうして、おかあさまはそんなに苦しそうなの?

どうして、おかあさまは片目が見えないの?


どうして、お母様は、あんなに惨めに死ななければならなかった?


 母が得るはずだった幸福を、栄光を彼女は奪い去られたのだ。悪人きぞくによって。

許せなかった。

なぜ、母がそんな目に遭わねばならなかったのだ。一体、誰が何を求めて。

そして、グロリアは一つ、たった一つ自分の中に生きるための目標を得た。


『必ず、母を貶めた貴族をこの手で仕留める』

生まれてはじめて彼女が得た希望であった。

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グロリア─女王の呪い─ 弌原ノりこ @mistr_1923

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