第五集 永遠の命は羨まず
その日も蔵書復元に精を出していた
もう会う事はないと思っていた
筆を落とし震えている妻を見て、
心配そうに見つめる夫の顔を見て我に返った蔡琰。そうだ、自分はもう三度目の人生を歩んでいる。目の前にいる董祀にも良くしてもらっている。今更あの頃に戻る事などできない。そんな不義は働けない。
かつて北地に曹操からの使者がやってきた時、なぜ多羅克と出会う前の長安で、この助けが来なかったのかと天を呪ったものだったが、今度もまた同じであった。なぜ今になって、と。
そんな蔡琰の動揺も、南匈奴の入朝と言う話を聞いた途端の事である。匈奴の地で暮らしていた蔡琰には何か思う所があるのかと、目の前の夫でなくとも、誰でも思い至る事である。
それゆえに、蔡琰は叫んだ。
「北地は恐ろしい所なのです! 匈奴は野蛮で、来る日も来る日も漢に帰る事を願い、夢にまで見ていたのです! あの時の事は、もう思い出したくないのです!!」
蔡琰は涙を流して叫んだ。
そう自分に言い聞かせないと、当時の事を思い出してしまうから。青い空、緑の草原、そしてあの笑顔を……。
両の目からボロボロと涙を流して震える蔡琰。董祀はそんな妻を見たのは初めての事であった。北地で蛮族の
董祀は妻を抱きしめて言う。
「心配ない。何があっても守る。もしまた蛮族どもが来たとしても、絶対に手は出させんからな!」
そう言って抱き寄せてきた董祀を、蔡琰は抱き返す。そんな彼女は、心の中で謝り続けていた。ごめんなさい、ごめんなさい、と。それは決して口に出す事が許されぬ謝罪。
目の前にいる愛する夫と、かつて愛し合った草原の王子への……。
曹操から蔡琰との再会を拒絶された多羅克は、独り呆然と鄴の宮城から庭を眺めていた。
かつて蔡琰から聞かされていた漢の都の風景。想像していた物より、ずっと美しい。
そんな多羅克に歩み寄った曹操が声をかける。
「全ては……、わしのせいよ。済まぬ事をしたな……」
多羅克は首を振って微笑んだ。
「良いのです……。今の彼女が幸せならば、それで……」
それが多羅克の精一杯の強がりであると曹操も理解していたが、二人の仲を裂いてしまった張本人である自分自身からは、かける言葉が見当たらなかった。
「あ……」
多羅克が小さく声を上げ、曹操もその視線の先に目をやる。庭の木の枝に、二羽の小鳥が寄り添っていた。
「ただ
多羅克がポツリと、詩を詠むように呟いた。曹操がそれに合わせて続ける。
「
しばらく後、多羅克は曹操に頼み事があるとして、再び正式に謁見を申し込んだ。大勢の文官や武官が立ち並ぶ中、曹操に対して膝を折って包拳する多羅克。
「今日はどうしたのだ。先日の願いなら、どうあっても聞き入れられぬぞ」
曹操に釘を刺された多羅克であるが、どこか晴れやかな顔で言う。
「いえ、本日は
「名とな?」
「漢朝に降ったのです。私に、漢人としての名を」
それは匈奴としての、多羅克という名を捨て、漢人の名に改名するという事であった。周囲の高官たちが騒めく中、曹操は笑みを浮かべて言う。
「そうだな……、騎馬民族として育ってきた、そのしなやかな体だ。
多羅克は包拳して礼を述べた。
「ありがとうございます。して、姓の方は……」
それが重要であった。個人を示す
曹操はニヤリと不敵に笑って言った。
「
周囲の高官たちが、先ほどとは比べ物にならぬほどに騒めいた。それは当然だ。劉は漢王朝の皇族の姓なのだから。
だが曹操は笑みを崩さずに周囲の者を制止する。
「何を驚く。考えてもみよ。匈奴は前漢の頃より皇族の姫を幾度か娶っているのだ。この者にも遠縁とは言え漢の皇族の血が流れている以上、劉を名乗っても不思議はなかろう」
匈奴の王位継承者に、漢の皇族の姓を名乗らせた曹操。これにどんな意図があったのか、後世に至るまで謎に包まれている。
いずれにしても南匈奴の左賢王・多羅克は、この時よりその名を捨てて
曹操はそれから数年の後に死去した。当代の覇者となりながら、天下は
「我は周の文王たればよい」
曹操自身の言葉である。それは遥か昔、暴虐な
そんな周は文王亡き後、彼の子である武王が殷を滅ぼしたわけだが、曹操の息子である
あの言葉は予言であったのか、曹操の遠回しな指示のようなものであったのか。恐らくはどちらでも無かろう。自分の後を継いだ者が決めれば良い。それが当代の覇者の選択であった。
蔡琰は、父・
また蔡琰は書家としても父の筆法を受け継いでおり、
更に晩年には、幼くして親を失った甥を引き取って養育し、文武に精通する秀才に育て上げた。その子の名は
このように蔡琰は、数多くの事績を歴史に刻んだ才女として語られる事になる。
そして劉豹は、晩年になって親子以上に年の離れた若い娘を娶って子を成した。単于である
そうして生まれた曾孫ほど年の離れた子にもまた漢風の名を与え、漢人と同じように教育を受けさせた。その中でも文武両道を備え特に優秀だった
しかしそんな劉淵は後年、魏を事実上
晋王朝はその成立から三十年以上の間、
晋に対して挙兵した時、既に老齢であった劉淵は叫ぶ。
「我こそ漢王朝の正統後継者なり!」
そして建国された匈奴の国。その国号は「漢」であった。
漢人文化を愛した劉豹の魂は、その息子・劉淵へと確かに受け継がれていた。後に
それはかつて、戦乱の長安で若き男女が出会ったその日に、始まっていたのかも知れない……。
ただ鴛鴦を羨みて 水城洋臣 @yankun1984
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます