第四集 すれ違い
かつての
その後に良識ある朝廷の配下たちが長安から皇帝である
あくまでも後漢皇帝の威光の下に従っていた
その後に曹操が都に戻って間もなく、今度は
蔡琰が長安の地に戻ってきたのは、
実に二十年ぶりに長安に足を踏み入れた蔡琰。
幾度となく戦火に見舞われたかつての都からは、人々はほとんど去り、城内の民家はその多くが空き家となっていた。城壁もひび割れ、復興もなかなか進んでいない。
だがそれゆえに街並みそのものは蔡琰の記憶にあるままであった。
ふと足を止める蔡琰。
その視線の先には、崩れかけた土壁と、その先にある小さな路地。
かつて、義侠心あふれる匈奴の少年と出会った場所。
当時の記憶が、まるで昨日の事のように鮮明に思い出される。血と黒煙の匂い。目の前で繰り広げられる殺戮の中で、何もできない絶望。そこに現れた、どこか頼りなげな、それでいて勇気ある少年。
そしてその後の平穏な暮らし。青い空、緑の草原。いつも傍らで微笑んでくれた彼。
「如何された?」
背後からの声で、ふと我に返る蔡琰。その声の主は長安の街を歩く上で護衛として付いてきてくれた
将軍の立場にある方を護衛になど、と断ったのだが、命じた夏侯淵には細かい事は気にするなと笑って流されてしまった。当の徐晃も護衛役を命じられた事を気にしている様子はなかった。
「いえ、昔を思い出していただけです。お気になさらず」
蔡琰は、いつの間にか滲んでいた涙を拭うと歩き出す。徐晃もそれ以上は詮索しなかった。
その後しばらく歩いて、目的地である蔡家の廃屋へと到着すると、ここもやはり記憶にある通りであったが、土壁はあちこち崩れ、屋根が崩れ落ちている場所もあった。
幸運な事に、蔡琰の目的とする部屋は崩れ落ちてはおらず、果たして目当ての物もそこにあった。
それは父の形見とも言える琴である。二十年分の
蔡琰の後半生の思い出が多羅克との思い出なら、前半生の思い出が父・
そんな古びた琴を抱えると、蔡琰は徐晃に振り返って言う。
「さぁ、戻りましょう」
その言葉に、どこか驚いた徐晃。
「お父上の蔵書を探すのでは……?」
この少し前、蔡琰は曹操からとある依頼を受けていた。学者でもあり、書家でもあり、史書の編纂にも携わっていた蔡邕。その貴重な蔵書の多くが戦乱で散逸して残っていない事を曹操が嘆くと、蔡琰はその蔵書の復元を申し出たのである。
その話を聞いていた徐晃は、てっきり蔡邕の住んでいた家から蔵書を運び出す物とばかり思っていたのだ。
「そんな物が残っているのなら、
そういって自分の頭を指さした蔡琰。
幼い頃より父から学び、父の著作も手伝ってきた蔡琰は、その内容の全てを暗唱できたのである。復元事業が蔡琰以外の者にはできないと曹操が判断したのは、まさにそれが理由であった。
そんな蔡琰の才女ぶりに、徐晃は感嘆の声を漏らすのであった。
蔡琰のそうした功績を曹操も大いに褒めたのであるが、それと前後して、帰国以来ずっと独り身である蔡琰の事を案じ、それとなく再婚を薦めていた。
「
社交辞令的な冗談だと受け取った蔡琰はそう返したのだが、話を続ける曹操が
「
まずは何度か会ってみて、それから考えれば良いという曹操の強い勧めで、蔡琰は董祀と何度か会食を共にした。
初めて会った董祀は、緊張で固くなりつつも甲斐甲斐しく気遣いを見せ、夫になりたいという話のはずが、まるで
何とかまともに会話をする雰囲気を作りながら、ようやく対等の会話が出来るようになったのは三度目の会食の時である。
話してみれば董祀と言う男、穏やかで義理堅い、好感が持てる男であった。同郷の同世代である事もあって、幼き頃の故郷の思い出話に花を咲かせている内に、再婚するのもいいかも知れないと蔡琰は思うに至る。
決して多羅克の事を忘れたわけでは無い。しかし元々は異民族であり、こうして離れてしまった今、今後の人生で再会する事はないだろう。
かつて父を失って長安を離れ北地へと赴いた時、生まれ変わったつもりで二度目の人生を始めた。だがそれは決して父と過ごした日々を忘れる事では無かった。
だから今度も、多羅克の事を思い出に秘めて、三度目の人生を始めよう。
それが蔡琰の出した答えだった。こうして蔡琰は、董祀との婚儀を受け入れたのであった。
その後、蔡琰の婚儀を祝福した曹操は、冗談交じりにこう言った事がある。
「我らはこれより
「おやめください!!」
咄嗟に叫んでしまった蔡琰と、突然の事に静まり返る周囲の者たち。ハッとして取り繕う蔡琰。
「いえ、匈奴は精強なのです。かの地にて暮らした私はよく知っています。こちらに攻めてこない以上、下手に手出しをすると、却って余計な犠牲を被りますよ」
その言葉に、最もだと納得する周囲の者たちであったが、元より人の感情の機微には敏感な曹操である。蔡琰のその反応を見て、初めて自分が大きな思い違いをしていたのではないかと思い至った。
かつて蔡琰を帰還させる交渉に、匈奴が食糧難で困窮している時期を狙ったのは、交渉を成功させる最も適した時期だと判断したからである。
だがもしも、蔡琰が匈奴の左賢王と心を通わせていたのなら……。蔡琰ほどの自制心のある才女なら、周囲の民を救うために、あえてその交渉に乗ったのではないか。
そんな相思相愛の二人を裂いておきながら、更に再婚を薦めるなど、良かれと思って行った事が、全て蔡琰を傷つけてしまっていたのではないのか。だが蔡琰は、逆に自分を気遣ってそれを受け入れた。
曹操は、先ほどの蔡琰の反応で全てを悟った。
何という取り返しのつかぬ事をしてしまったのかと。
「
そう声を掛けた曹操に、蔡琰は笑顔を向け、まるで質問をされる事を拒むように言う。
「父の蔵書復元の件でしたら、
「そうか、それはよい」
曹操はそれ以上、何も言えなかった。
今までの曹操の行いは、全て善意によって薦められたという事を、蔡琰もよく理解していた。もし真実を知れば、曹操に罪悪感を抱かせてしまうであろう。
何よりも、曹操の交渉によって南匈奴の食糧難が救われた事は事実であり、蔡邕の蔵書復元事業も、董祀との再婚の事も、全て己の意思で決めた事なのだ。だから全ては、自分自身で背負えばいい。
それが蔡琰の、三度目の人生を歩み始めた女の決意だった。
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