第三集 青い空の下で
そんな中で
しかし正妻であろうと妾であろうと、蔡琰に対する多羅克の想いや態度が変わるわけでもない。
父から教わった琴を弾けなくなった事を残念に思うという蔡琰の言葉を聞いた多羅克は、琴という物がどういう物か知らなかったが、音楽を奏でる物と聞いて、蔡琰に
「琴という物とは違うかもしれぬが、これで音を奏でる事はできる」
そうした多羅克の心遣いに、蔡琰も次第に心を開いていった。
自分の人生は長安でひとつの終わりを迎えたのだ。ならば拾った命、生まれ変わったつもりで新たな暮らしを送ろう。
どこまでも続く青い空、緑の草原、そして吹き抜ける風。それがこれから自分が生きていく世界なのだ。
蔡琰がそう決意するまでに長くはかからなかった。
蔡琰が匈奴の文化に心を開く一方で、多羅克もまた漢人の文化に強い興味を持った。元より博学多才な蔡琰が今まで学んできた多くの事を聞かせ、その度に目を輝かせる多羅克。
蔡琰にとって、初めは夫と言うより、少し年下の弟が出来たような、そんな愛おしさを感じていた。
そうして仲睦まじい二人の関係は、十数年にも及んだ。
だがそんな当人同士の想いとは別に、外から見た蔡琰の境遇は「戦火の中で誘拐され蛮族の妾にされた哀れな女」でしかなかったのだ。
中原での群雄割拠を制し、河北の雄である
特に曹操は若き頃、都で
戦乱の中で無念の死を遂げた蔡邕。彼のたった一人の愛娘は行方知れず。ずっと気にかかっていた所に、その娘が実は誘拐されており、未開な蛮族の地で生き永らえていたと知れば、何としても連れ戻してやりたいと思うのが人情であろう。ましてや今の曹操にはそれを成すだけの力があるのである。
南匈奴は今や危機に瀕していた。
漢王朝の味方を標榜して傭兵稼業をしていた彼らであったが、中原の群雄割拠に於いて彼らが味方をした
幾度となく敵対した曹操が華北全土を手中に収めた事で、彼らは雇い主を失ったのである。今更に曹操に降った所で部族ごと滅ぼされるのではないか。この時期の彼らにはその恐怖が付きまとっていた。
さらに追い打ちをかけるように、北地一帯で異常気象や災害が多発し、家畜を養う牧草も、狩りの獲物である野生動物たちも激減した。
漢人から穀物を買おうにも、彼らの持っている財宝は減っていくばかり。このままでは遠からず飢えに苦しむ事になる。
いっその事、漢人の村を略奪するしか手は無いのではないか。そう主張する者もいたが、多羅克はそれを必死に止めた。
漢人である蔡琰を悲しませたくない気持ちもあった。そして蔡琰から多くの話を聞かされ漢人に対する愛着も湧いていた。またそんな多羅克の個人的感情だけでなく、何世代も掛けて漢人から認めてもらおうとしてきた先祖の思いそのものを無にする事にもなる。
だがこのままでは、いずれ食糧も底を尽き、守るべき部族の民たちが次々と餓死していくであろう事も現実的な問題として立ち塞がっていた。
堂々巡りの議論の中で、単于である呼廚泉も、左賢王たる多羅克も頭を悩ませていた。
曹操からの使者が北地に訪れたのは、そんな時であった。
「当地に囚われている蔡家の娘、
それが使者が伝えた曹操の言葉であった。そして同時に、何台もの馬車に満載された大量の財宝。更には食糧難を知っているかのように穀物まで大量に用意されていたのである。
呼廚泉を始め部族の長たちは、その申し出を大いに歓迎する風潮であったが、まさに件の昭姫、すなわち蔡琰の夫である多羅克は、すぐに受け入れる事は出来なかった。
この交渉を受け入れたとて、曹操と敵対したままの関係が解消されるわけではない。華北一帯を曹操が制した以上、匈奴は漢の都に入る事などできない。
それはこの十数年、互いに思いを寄せて愛し合った者との、或いは今生の別れを意味していたのだから。
蔡琰は押し黙ってしばらく考えた後、決意を固めたように言う。
「申し出を受けましょう」
心のどこかで或いはと覚悟していた多羅克であったが、本人の口から別れと同等の言葉を聞いて、悲しみが沸きあがる。歯を喰いしばって耐えようとしても、その両の瞳から涙が零れた。
それは蔡琰にとっても、また辛い決断であった。長安で出会ってからこの北地に移り住み、そこで生きると決めた。その期間は、漢地で過ごした時間と同等かそれ以上。
漢地で失った幸せを、この北地で新たに見いだし、この日まで生きてきたのである。それを捨て、知人もいない漢地へと再び戻れという。
曹操とは言わない。あの戦乱の長安で、多羅克と出会う前に、漢人の誰かがこの助けの手を差し伸べてくれていたのなら、お互いにこんな悲しみを負う事も無かったろうに……。
責めたところで仕方がないと理解しつつ、蔡琰は天を呪わずにはいられなかった。
だがそれも、多羅克と蔡琰たった二人の感情でしかない。この交渉に応じれば部族は救われる。その決断は蔡琰が握っていた。他の者には代われぬ役目。部族存亡の危機にあってようやく見えた一縷の望みを、断る事など蔡琰には出来ぬ事だった。
そうして別れの朝、十数年ぶりに見る漢の馬車の前に立った蔡琰は、背後に立つ多羅克を振り返る。
夜を通して互いに涙を流し、覚悟を決めての別れである。
「楽しかったよ……、本当に」
その多羅克の言葉に、十数年に渡る北地での暮らしが走馬灯のようによぎる。初めは慣れない匈奴の文化に戸惑いもしたが、いつでも傍で気にかけてくれた多羅克。思い出のほとんどは、その優しい笑顔と共にあった。
蔡琰は、今にも再び涙を流しそうな多羅克に言う。
「笑ってください、いつものように。私も死にに行くわけでは無いのですよ。もう会えないかも知れませんが、お互いに生きているのですから。この青い空の下で……」
蔡琰が北地を去った別れの日も、見上げれば美しい青い空が広がっていた。
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