第二集 この世の地獄にて
かつて
この前年に
そんな皇帝の膝元で、なぜこのような地獄の光景が繰り広げられているのか。
それはこの二カ月前、権力の頂点に
董卓を暗殺した後、王允は旧董卓派の粛清を断行した。だがそれは明確な証拠などを必要とせず、王允の主観によって全てが裁かれる物であった。
特に董卓と同郷という理由だけで、長安に駐留する将兵の大部分を占める
まさに涼州出身であった
王允は李傕討伐の命令を発するが、その命令を受ける将兵らもまた李傕同様に涼州出身者が大部分である。出馬した彼らはほとんどがそのまま李傕の軍と合流し、膨れ上がった大軍勢は長安へと殺到。逃げ場を失った王允はそのまま惨殺されるに至った。
そんな王允と共に董卓を討った呂布はと言えば、李傕反乱の数日前に王允と仲を違え、手勢の配下と共に長安を去っていた。
意図せずして難を逃れた呂布は、この後に
目的であった王允の殺害を達成した李傕らであったが、元々将帥としての統率力があるわけではない。膨れ上がって統制を失った兵士たちは長安の城内で次々と略奪を始め、都はまさに地獄絵図と化したのである。
そんな凄惨な長安の街角を、馬上から苦々しい表情で眺める一人の少年がいた。
李傕軍の援軍として参陣していた
戦争という物は常に光と闇が付きまとうが、初陣を迎える若者と言うのは大抵の場合は光の面しか想定していない物である。闇の面を徐々に知り、それを自分の中で消化していく事で一人前の戦士となっていく。
しかし彼は初陣の瞬間から、眼前に闇の面のみを見せつけられた。その衝撃は計り知れないものがあるだろう。
まるで狩りでも楽しむかのように逃げ惑う民を笑いながら突き殺していく兵士たち。それを制止しても、誰も彼の声など耳に入らなかった。
そんな多羅克の目に、若い娘を路地裏へ強引に引き込んでいく数人の兵士が映った。我慢の限界を迎えた多羅克は、馬から飛び降りて腰に差した曲刀を抜き、路地に入った兵士たちに向かって叫ぶ。
「やめぬか!」
何事かと一斉に振り返る兵士たち。その目に映った者の服装から援軍に来た匈奴の、それも高貴な立場の者であると察する事が出来たが、刀を持つ事も不慣れと見える小柄な少年一人である。
「何だコイツは……?」
「匈奴の連中が連れてきたガキだろう」
下衆な笑いを消す事もしないままの兵士たちには、目の前の少年が新兵特有の潔癖さと正義感で止めに入ったであろう事も手に取るように分かっていた。
「まず名乗りなよ、坊や」
侮った態度の兵士に
「南匈奴の単于・於夫羅の息子、多羅克だ」
「それで、俺たちが止めないと言ったらどうするんだ? 斬るか?」
ここで斬ると断言できれば良かったのだろうが、言葉が詰まってしまった。初陣である多羅克は人を斬った経験が未だ無かったのだ。自分よりも遥かに大柄な複数の相手に勝てる自信も無かった。曲刀を持つ手が震えている様子も、既に兵士たちに見られている以上、虚勢を張っても効果は無いだろう。
それでも何とか目の前の暴行を止めさせる手は無い物かと思案した末に出た言葉は……。
「その娘は戦利品として私が頂く。好きな娘を選んで来いと父上に言われたのだ。邪魔をするなら父上に報告するが、よろしいか?」
苦労知らずの王子特有の傲慢さ、親の七光り、そうした印象を強く与える言葉であったが、末端の兵士相手には有効な手であった。
舌打ちをして不機嫌そうに立ち去っていく兵士たち。その姿が消えるのを見計らって、路地の土壁にもたれかかっている娘に目をやる多羅克。
歳の頃は十代の中頃で、多羅克よりも幾分か上。
そしてその表情は虚ろで、こうして助けられても尚、どこか諦めのようなものが漂っていた。
「安心しろ。連れて行く気はない。家族のもとへ帰るがよい」
その言葉にゆっくりと顔を上げる娘。その冷え切った視線に気圧される多羅克。娘は感情をほとんど出す事も無く、呟くように言う。
「助けてくれた事には感謝しますが、私は既に家族を亡くしているのです。この地獄のような場所に一人で残されては、遠からず同じ目に合うでしょう。哀れと思うのなら、いっそここで殺してください。さもなくば先ほどの言葉通り、私を連れ出してください」
無論の事ながら、多羅克には娘を斬る事は出来なかった。
当初は方便であったはずの嘘が、
父である於夫羅にも、その本心を告げる事は出来ず、この娘を戦利品として連れ帰ると報告した。「我が息子は、敵の首を取るよりも先に、女を捕まえたか」と笑われたが、それも甘んじて受け止めた。
そんな娘の名は
多羅克の馬に同乗した蔡琰は、未だ随所で火の手が上がる長安の都から、後方の軍営へと向かっていた。少なくともこの地獄をこれ以上見続けるのは、二人ともに耐えられぬ事であった。
長安の城門に差し掛かった時、蔡琰の目にふと飛び込んできた物があった。
「止まって……!」
その言葉に馬を止めた多羅克は、どうしたと問いながら振り返る。蔡琰は城門を見上げていた。その視線の先には、全身を切り刻まれて血に塗れた老人の亡骸が見せしめのように吊るされており、真下の地面に血だまりを作っていた。
それはこの二カ月、長安の権力をその手にした王允の亡骸である。
父と娘の二人きりで暮らしていた蔡琰。そんな彼女の父・蔡邕を殺害した張本人が王允であった。
元より穏やかな性格だった蔡邕は、董卓暗殺の計画を王允から聞かされていなかった。彼がその計画を知ったのは董卓が殺害され、長安の通りにその死体が吊るされた後の事であった。
蔡邕とて董卓をよく思っていなかったが、その出来事は青天の
そして無理矢理の投獄と拷問。それは娘である蔡琰にとっても、全く予期していない出来事であった。面会も許されぬまま、父は間もなく獄死した。
全国の諸侯が反旗を翻したほどの董卓を討った王允は、本来は英雄として讃えられて然るべき立場である。しかし誰もそれを褒め称えなかったのは、正にこの蔡邕獄死の話もほとんど同時に諸侯に伝わった事が大きかったと言える。
蔡邕は学者としても、書家としても、音楽家としても高名であったが、何よりもその高潔な人柄で知れ渡っていたからだ。「王允も駄目だ」、それが諸侯が抱いた心持ちであろう。
そんな蔡邕から、教養、礼儀、更には書道や音楽まで手ほどきを受け、父を慕っていた蔡琰。
彼女から父を奪った仇は、こうして二カ月前に自身が討った董卓と同じ目にあったのだ。
王允の哀れな最期の姿を、冷たい視線で見つめる蔡琰。愛した父も既に亡ければ、仇もいなくなった。もうこの都に未練などない。
「行きましょう……」
静かに言った蔡琰の言葉に、多羅克は再び馬を歩ませるのだった。
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