献呈(星野源に捧ぐ)

長尾たぐい

2010-2018

ばかのうた

 世界はいつまで経ってもばらばらだから、わたしひとりが正しくあろうがなかろうが当分はどうでもいい。ひねもすグーグー寝ていたあと、私が一人分の食事しか作らないキッチンのシンクに干からびた米粒付きの茶碗が転がっていてもいい。

 これは何? デイジーお味噌汁! 泥に塗れたプラスチックのお椀には水道水がなみなみ注がれ、白いデイジーがぷかぷか浮いていた。漆塗りの吸い物の椀と菊花大根の酢漬けを見てそのことを思い出したとき、あなたはすっかりそれを忘れていて、あなたの伴侶になる人がその様子を見て噛みしめるように笑いをこらえていたのが、少し頼もしくて少し寂しかった。

 眠れないあなたのために夜中唄を唄うのはわたしだけの役目だった。手をつないで散歩するような老夫婦の妻になれなかったわたしは、あなたのくせのうたを作ってあなたと川原を歩いた。私たちを追い越し駆けていく兄妹に、明るい声で注意する二人連れを見つめるあなたの眼差しは子供のものに見えなかったことを覚えている。

 これはさようならのうみになるの。穴を掘る、それだけのことに夢中だったあなた。あなたがいなくなったアパートの庭に今は泥団子が並んでいる。誰かのただいまの外から届く。そっと目を閉じる。あなたのたくさんのひらめきはもうここにはない。お母さん、ばかのうた唄ってよ。いいよ、バカボンの歌ね。


エピソード

 エピソード記憶ってやつ。湯気って言葉に季節はないはずなのに、俺は冬のことしか思い出せない。お前はどう? ――ああ、そうなんだ。お前はずっと変わらないままだな。俺があいつの痴話喧嘩話を真面目に聞いてる横で、くだらないのなかに愛がある、なんて茶々を入れて物凄く怒られたお前の姿、忘れてないぜ。そうだ、愛といえばお前の彼女から「毎朝起きれなくて布団の中でいってらっしゃいって言ってくれるの」ってのろけられたことあったよ。確か、俺がバイトをクビにされて、同棲してた彼女に振られた後だった。

 今の仕事? そう、営業。困ったことに向いてるんだ。残業も苦にならない。このままだとステップアップしてったらその先は天国とかいうオチかも。――冗談だよ。そんなことで死んだら、冥土のあいつに怒られるだろ。もう少し未来のことを考えろ、いい大人なんだからって。……これ、喧嘩のたびに言われたな。ストーブくらい切ってから寝てよ、火事になったらどうすんの、とか。あーあ。これからも日常は続くんだよな。人生予想もつかないことだらけだ。でも今日は来てくれてありがとう。こんな時だけどそれでも会えて嬉しいよ。


Stranger

 奴は化物だ。「俺のワークソングは『勇気のしるし』、24時間戦えますよ」と標榜して、夢の中のものを丸ごと夢の外へ持ち出した。でも、だからといって全てが順風満帆だったわけじゃない。私の脳内には20年分の奴の喜怒哀楽が未編集のフィルムとして残っていて、所々個人的な恨みつらみで変色している。ツアーの合間にどうしても海が見たいと駄々をこねたので、車を飛ばしてやったこととか、奴の狙ってた女の子の機嫌を取るため高級ブランドのショップに駆け込んでスカートを買ったこととか。

 人に生まれ変わりがあるなら、世の中こんなに創作物で溢れてないだろうね。芸術はみんな人生のパロディだよ。たくさんの忘れたくない季節や人を原動力にしているくせにそんな風に嘯き、一方であんなに愛おし気にレコードノイズへ耳を傾ける人間を私はほかに知らない。「どこかの鉄道のとある車掌のように、この世に不慣れな誰かに現在地を教えられていたらいいな」とこぼす横顔を覚えている。この世に不慣れ、とオウム返ししたらStranger、とやたらいい発音で返してきたのがむかついたので、私はケリを入れた。尻をさするその情けない顔だって捨てる気はない。永久保存だ。


YELLOW DANCER

 時よ、無情に過ぎゆくあなたは美しい。春の盛りの週末が終わる。沈みゆく太陽が赤いのは、今日との別れを惜しんで泣いたからに違いない。さっきまで会っていた相手に「あい・みす・ゆー」とメッセージを送り、ストリーミングアプリのジャンル一覧から「ソウル」を選んで流す。口に放り込んだ飴玉は「花の口づけ」の名前の通り、甘くせつない味がした。

 生きることはいつも辛い。それでも、この世は地獄だ地獄でなぜ悪い、と冴えない自分を鼓舞して、都会の人混みを精いっぱい気取って歩いた。道の途中にあった神社の桜の森は、もうずいぶん花を散らしていた。こんな感傷はどうかしている。冬どころか、桜にすら置いていかれる雪だるまの気分だった。夜が近づいてくる。

 ぴろりんと間抜けな通知音がポケットからした。手のひらの中で「みー・とぅー」の文字が光る。こうやって、ちっぽけでも渡される友愛のしるしがあるから、私は苦しくても明日に向かって一歩踏み出す。


POP VIRUS

 ウィルスって、生物の遺伝子からポンと飛び出たDNAの欠片から生まれたって説があるんだって。これってさ、ふふ、そうだよね。――みたいだよね。あらゆるものに対して生じる恋、名前を付けられない気持ちの正体を掴んだときの高揚、誰かの肌の温もり、ダンスのペアみたいに寄り添って生きる二人、どこにも行けない今、廃れた言の葉で誓われる愛、子供のままではいられないから上手くなった大人の振り、終わらないゲームみたいに思える人生、変化の足音を恐れたり目を輝かせて待ち受けたりするホモ・サピエンス、人生に落ちる影を払って先に行くためのアイデア、かけがえのないつながりとしての家族……。ぼくらの人生に何もないなんてことはありえない。ハロー、と高らかに挨拶を済ませたら、歌おう、綴ろう、踊ろう、描こう、伝えよう。ぼくらから飛び出だしたウィルスが、世界を変えるんだ。

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