第12話 それは天がさだめし者

 庭の桜がはらはらと散り、幾枚かの花弁が簀子へと風に乗って流された。

 簀子には耀仁がいた。そしてその膝の上に、意識を失った撫子の頭を乗せていた。彼女は神を降臨させ意思疎通の媒介となったため、己の力を使い果たしてしまったのだ。

 帝である父も、皇后である母も、一度も耀仁に皇太子になれと言ったことはなかった。

 おそらく、千景が生きていることを知っていたのであろう。

 撫子の髪を手で丁寧に梳きながら、耀仁は思った。

 果たして彼に、帝足り得る器はあるのだろうか。

 それはけして羨みや妬みではなく、心の底から従兄を心配するものだった。

 自分と同い年で生まれながら、過酷なさだめを抱えてしまった彼を。

 耀仁は手を止めてそっと瞑目する。

 世間からは光の面しか見せていない皇室。

 しかしその裏ではどれだけ多くの悲惨な事件が、歴史の闇へと葬られてきたのか。

 幼い頃から過ごしていた耀仁はその闇を肌で感じていた。

「けれど、生きている限りは僕たちのうち誰かが背負わなければいけない。背負うにも、背負わせるにも、それ相応の覚悟が必要なんだよ……?」



 風に乗って飛んで来た花びらを焔はそっと掴んだ。

 咲いてすぐ散る様を人の命の儚さに例えたのは誰だっただろうか。

 本当にその通りだ、と思ったのは焔の感覚ではつい最近だ。

 咲いて散る花。舞って散るさだめ。

 何故人は死に急ぐのであろう。

 神は死を穢れとして嫌う。だが、その死が焔には愛しかった。


「千仁。俺は貴様をずっと待っていた」

 ぐっしょりと濡れ、冷えきった千景の頬を焔はそっとなぞった。

 この世の絶望を知って、鬼として目覚める千景を彼はずっと待っていた。

 千景は微かにまぶたを震わせた。

「貴様は祖父、明大帝の生まれ変わりだ。同一の魂を持っている。もう一度、俺と共にこの国を造り直そう。それが奴の望みだった。志半ばにして死んだ、奴のな」

「生まれ変わり……」

 千景はぐったりとした体で、自分を待っていたという男を見た。

 闇の中、焔の銀色の髪がぼうっと浮かび上がり、その姿は千景の目にもはっきり見えた。

 不意に楓の言葉が思い返された。

 この世のあらゆる命は何度も生まれ変わり、輪廻の中で回り続けるさだめにある、と。

「貴様は血筋も、その魂も、帝となるために生まれてきたのだ。不死身の肉体と強靭な精神があれば誰よりも強くなれる。その力で俺達の夢を成し遂げよう。鬼の軍勢を率いて、どこにも負けない、強国を──」


 くくっと暗闇から笑いを堪えたような声が聞こえた。

 それを受けて焔はぴくりと眉を動かす。

「意外とロマンチストなんだな。なるほど。お前の狙いがようやくわかった」

 闇の中から今上帝の声が響いた。

「焔、お前は全ての罪を千景の育ての母に押し付けたようにしていたが、あれはお前の壮大な計画の一部に過ぎない。千景に出生の秘密を明かすように兄上をそそのかし、千景の心の弱さに付け込んで鬼へと追い堕とした。天は、撫子の器を通してそのように私に語られた」

 焔は呆れたように振り返った。

「昔から貴様は俺の邪魔ばかりするな。三つ子の魂百まで、とはよく言ったもんだ」

「あいにく、私がいる限りお前の好き勝手にさせはしない。退位する予定は更々ないし、残念だったな」

 頼仁自身、生半可な覚悟でこの地位にいるわけではない。歴代の者と異なり、自分はけして真綿で包まれたような清らかな心を持つことが出来なかった。父に反発し、汚してしまった両手。帝に相応しくない、と自分でもわかっている。だからこそ、絶対にこれ以上穢すわけにはいかないのだ。

 せめて、千仁が帝としての自覚を持ってくれるまでは。


「う…………」

 千景は動いた。濡れた髪や衣装からぽたっ、ぽたっ、と水が垂れる。

 千景の角度からは焔がどのような顔をしているのかわからない。千景に寄せる期待が、どんな思いもと育まれたのかも知らない。

 だが、自分は明大帝ではない。千仁でもない。千景という名の、生を受けた者だ。

 千景は倒れていた身を起こして焔の背に己の思いをぶつけた。

「私は、そのために生まれてきたのではない」

 その声に反応したのか、傍に倒れていた遥仁もゆっくりと目を覚ました。

 千景は遥仁の目覚めに気付いて安堵すると、今度は帝の方を真っ直ぐ向いてこう言い切った。


「私は、皇位継承権を永久放棄致します」


「何……⁉」

 焔は千景の一言に瞠目したが、同時にその吹っ切れた迷いのない瞳に目を奪われた。

「私が帝の位に就くと、否が応でも大勢の人を死なせてしまうと聞きました。でもそれが神の御意志ならば……神の御意志が覆るその日まで、私は待ちます」

「もしもその日が来なければ?」

 容赦なく帝は尋ねる。

 答えに詰まる千景に遥仁の声が被さった。

「……その時は私が全てを引き受けます」

 千景は目を見開いたが、遥仁は揺るがなかった。

「神は神の血筋をひいている我々を穢したくないのだから、私が帝の位に就けば悲劇はきっと起こらない。誰一人、犠牲にさせやしない」

 遥仁はこれ以上、千景に傷付いてほしくなかった。ただの我儘かもしれないが、それならば、自分が出来ることを背負う覚悟をしたのだ。

「…………」

 帝はその申し出にすぐに応じることは出来なかった。

 神に助力を求めてまで助けた彼らの命を、天の采配と反するような決定をしてよいものか。それと同時に数多の民を犠牲にする、という千景の一言が気にかかった。

「はっ。どこまでそれが貫けるか、見ものだな」

 焔は彼らを一瞥すると、再び千景を見下ろした。

「貴様の意思も天の意思も関係ねえ。千仁、いずれ迎えに行く。それが、貴様がこの国を統べる至高の者となる時だ」

 袂をさばき、立ち去ろうとする焔を帝の声が遮った。

「ここから逃げられると思うなよ。お前には明大帝に取り入り、政治を混乱させた罪で国外追放が決まっていた。だが、この場においてそれを撤回する」

 焔は胡乱げな眼差しで帝を見た。

「勅命を下す。先代である泰平帝を殺したことへの反逆罪として、お前を死刑に処す」

 冷酷無慈悲な瞳で彼をねめつける。

「成る程。兄上の仇ってわけか」

 くつくつと面白そうに彼は嗤う。そして、残虐な瞳を煌めかせた。

「俺を殺すことが出来ると?」

 帝は目を細めた。

「神であろうが、鬼であろうが──お前だけは殺してみせる」

 帝がひとつ、扇子を鳴らすと。

 ぼうっと闇から松明が浮かび上がり、焔の周りを幾人もの衛士が囲んだ。

「二人は下がれ」

「下がれって言われても……」

 千景は思わず呟いた。

 目の前には焔と彼を包囲する衛士。背後にあるのは池。

 どこに下がればよいというのだ。

 そして、衛士が構えたその武器に千景はぎょっとした。

 鉄砲や銃よりも一回りも二回りも大きな筒状のそれは。

「覚えているか? 軍で色々と開発していたお前が作っていたものの一つ。火炎放射器だ」

 火炎放射器。初めて目にするものだが、構造からどのように扱うかは千景も想像がついた。僅かな火の粉から何百倍もの火力を生み出すのだ。

 唐突に千景は先程の地獄での光景を思い出した。焔の炎は凄まじく、千景まで巻き込みかけた。あれと同じことが起こらないとどうして言えよう。

 千景は遥仁の腕を取り、ためらいもなく再び池の中に飛び込んだ。

 地獄の業火で焼かれれば鬼も死ぬ。

 ならば、清めの炎ならばある程度の殺傷能力があると頼仁帝は踏んだのだ。

 帝の合図に彼らは一斉に点火し。

 そして爆出した炎を容赦なく焔へ浴びせた。


「俺が殺されてもいい、と思えた人間は、今までの生においてただ一人だけだ」


 炎が届く直前、焔はそう叫んで手をかざし自らが出した炎で攻撃を相殺する。

 人工的に増大した炎と地獄の業火、性質の異なる炎が混じり合い、凄まじい爆破が起こった。

 御所中に盛大な爆発音が響き渡り、内庭の植木が突風に煽られた。池の水面は大きく揺れ、それほど深くない池だというのにその中心にいた千景は疲労と相まって、危うく溺れそうになった。

 水中では天と地がひっくり返り、がばりと口から息がもれた水が喉や気管にまで入り込む。頭の奥がひどく揺れ、無我夢中でもがいた。

「っ…………うっ、ごほっ」

 突如として誰かに引っ張られ、水面から顔が出る。千景は大きく息を吸うと水を吐きだした。


 まともに息が出来るようになると、千景は周囲の様子に気が付いた。見ると内庭の灯籠に灯りがつけられ、周囲の様子がわかるようになっており、衛士が忙しく動いていた。

 焔の姿は見当たらず、どうやら爆破に乗じて逃げ出したようだった。

「落ち着いたか」

 遥仁の顔が千景を覗き込んでいた。千景を引っ張り上げた張本人である。その一言に千景は我に返った。

「遥仁様、お怪我はありませんか?」

 どう考えても心配なのは満身創痍である千景の方なのだが、それを指摘することはやめた方がいいだろうと遥仁は思った。

「大丈夫だが、水面で顔面を強打した。暗くてわからぬだろうが、おそらく頬が赤くなっている。飛び込む時は一言言うてほしいものだ」

「も、申し訳ありません!」

 千景は土下座せんが勢いでその場に座り直し、咄嗟に手を差し伸ばしたが、何か出来るわけでもなく中途半端に手をさまよわせた。その様子に遥仁は微笑んだ。

「さっきまでは痛かったが、今はもう平気だ。千景が傍にいてくれるからな」

 よく意味がわからず千景が瞬くと、遥仁はくいと首を傾げた。

「初めて千景と会った時、そのような会話をしなかったか?」

「え……」

 悲しいかな、千景の記憶に残っているのは剣術で無様な姿を見せた後、遥仁がおまじないとお菓子をくれたこと、そして痛い時は痛いと言え、と言われたことだけなのだ。

 遥仁は星が散りばめられた天を仰いだ。

「さっき意識を失った時に、千景と初めて話した時の夢を見た」

「夢……?」

 ああ、と遥仁は優しく目を細める。

『…痛かったです。さっきまでは……。ですが……遥仁様のおまじないが効いたようです。もう、痛くありません。遥仁様が傍にいるから、痛くありません』

 そう、夢の中で十歳の千景は言っていたのだ。

「私はその時から千景のことを本当の兄だと思って接していた。その思いは今でも変わらない。だから、千景と兄弟だと言われて嬉しかった」

 普段は真正面から物事を言う遥仁もこの時ばかりは照れくさく、夜空を見上げてそう告げた。

 千景は視線をさまよわせると、自分の思いを正直に口にした。

「私は、どうしたらよいのかわからないのです。遥仁様は私を照らしてくれた唯一の存在だったのですから。どう接していけばいいのか……」

「何だ、それなら何の問題もないではないか」

 さらり、と遥仁は答える。

「私は兄だと思って接している。千景は皇位継承権を放棄する。そして天は私に千景の傍にいろと告げた。つまりは、何も変わらなくていいということだ。今まで通り、私の傍にいてくれ」

 そうして、遥仁は夜の闇を照らすように明るく笑った。


 この笑顔に何度救われただろう。

 あれほど不安で仕方が無かったのに、こんな簡単に世界は変わる。

 千景は濡れてぼろぼろになってしまった匂い袋を袂から取り出した。

 あの異界で彼を守りたい、と思った気持ちは嘘でも偽りでもない。そしてそれは、幼い頃に口にした彼の役に立ちたいという願いと同等のものだった。

 千景は匂い袋を握りしめると、万感の思いで遥仁の正面に跪いた。

「どんなことがあろうとも、私は遥仁様のお傍にありたいと思います」

 実の弟であろうと、守るべきものは変わらない。

 そして惨劇を招いた母の罪を一生かけて償おう。

 それが、千景の亡き実の父母に出来る最大の罪滅ぼしだった。



 桜の花が散った頃、千景は楓に手紙を書いた。

 己や遥仁の出自のこと、母が犯した罪、そして遥仁に仕えるために遠く離れた学院に通うということ。

 今後も遥仁のもとで仕えたい、と訴えたところ、宮に仕える従者はそれ相応の学歴がないと無理だと告げ、遥仁共々学院に編入するための手配をしてくれたのだ。

 耀仁と撫子もそこの学院に通っている。二人は遥仁と千景の来訪を受けて御所へと呼び戻されていたのだが、春季休暇が終わる前にまた学院に戻った。

 御所を去る時に撫子は千景に言った。皇族の直系に生まれながらにして家臣としての扱いを受けて悔しくないのか、と。

 耀仁が次期帝になると信じて疑っていない撫子は、千仁の皇族復帰に危機感を抱いていたものの、いざそれらを放棄すると聞くと千景の境遇や扱いに納得がいかないらしい。本来ならば帝にもなれる生まれだというのに。

 この時千景はうっかり自分よりも遥仁の方が相応しいと思う、と返してしまった。しまったと思ったがあとの祭りで、兄を蔑ろにされたと怒り心頭の撫子には生涯の敵、と認識されてしまった。

 焔は帝の捜索の手から逃れている。橘梨子の罪は証明出来ないということで、全ては焔を捕らえてからということになった。


 楓から返書が来たのはそれからひと月後のことだった。

 そこには真実を話してくれたことへの礼と、彼女らしい仏法の逸話が書かれていた。

 釈迦の弟子は地獄に堕ちた母のために行った供養が、現在に伝わる盂蘭盆という行事に繋がっているという内容だった。

 最後にどうかお二人が健やかでありますように、という言葉で締めくくられていた。

 あとひと月半もすれば盆に入る。これを機に、母と紅桜院で亡くなった人々のために心から供養をしようと誓う千景であった。


 千景が手紙を袂にしまうと軽い足音が響いた。

「千景、菓子をもらったのだ。一緒に食べよう」

 遥仁が包みを持って千景の座る簀子へとやって来た。

 それは、遥仁の好物である小さく切って蒸した餅を砂糖で味付けした御菓子だった。これが皇室御用達の御菓子だと知ったのはつい最近だ。

「懐かしいですね。遥仁様から初めて頂いた菓子でございますから」

 懐紙に取り分けた御菓子を手に、千景が感慨にふける。

「そうだったかな」

 遥仁は照れくさそうに言った。

「そんな小さな頃の話忘れてしまったなあ」

「遥仁様が忘れても、私が覚えておきます。一生忘れません」

 千景は丁寧に菓子をつまみ、口に入れた。じんわりとした甘さが口の中に広がる。

 あとどれぐらいの期間、こうして他愛もなく傍にいられるかわからないが、この時間がもう少し続いてくれることを千景は願った。

 だが、千景は失念していた。



 御所の敷地内には巨大な池が存在する御池庭がある。回遊式の庭園で、四季折々の景色を映し出し見る者を楽しませる。

その池にかかる石橋の中心に今上帝頼仁、その隣に皇后藤子が佇んでいた。静かな水面に二人の姿が浮かび、池に住む鯉が橋の下を通るたびに、その姿は揺らめいていた。

 頼仁は公務時にはつけている烏帽子を外し、衣装も簡素なものを身に付けていた。

 しばしの休息。帝という重りを外して、この時ばかりは彼も一人の人間となる。

 離れた所に随人はいるものの、声の届く範囲には藤子しかいなかった。

「頼仁様は何故、千景様の皇位継承権の放棄を認められたのですか」

 藤子が尋ねた。実質、皇位継承権の放棄出来るという規定はないため、この場合千景が養子に入ることを辞退した、という体裁をとっているのだが。

 それは果たして正しい判断だったのだろうか。

 千景から常世の国で起こった出来事を全て聞いた頼仁は、その上で了承したのである。

「神の決定は絶対だ。外れることはない」

 だが、と頼仁は付け足した。

 天の導く未来は、彼が望む国家と正反対の世界を描いていた。

 だからこそ頼仁は、千景の願いを聞き入れた。

「私はその決定を覆してやりたい、と願ってしまったんだ」

 藤子は目を和ませた。

「随分と、お優しくなられましたね」

 それは妻のいたわりというよりは、幼い頃から知っている子の成長を見た時の声掛けだった。体面的によくないという宮内省の意向であまり知られていないが、実は藤子の方が年上であるため、その表現もあながち間違ってはいない。

 妻の言葉に頼仁は天を仰いだ。

「優しいのではない。神を畏れぬほど傲慢なのだ、私は」

 もしも千仁が帝になることを了承しなければどうなるのか。

 千景が皇位継承権を放棄すると告げた日から問い掛けているというのに、神は一向に返さない。

 池の鯉が一匹すいっと通り、映った水面の影がゆらゆらと揺らいだ。

 きっと答えは一つしかない。

 頼仁は顔を引き締めると、こう断言した。


「天のさだめし次の帝は、千仁だ」



 千景は知らない。

 全ては天の筋書き通りに世界は、輪廻は回っていく。

 天は輪廻の崩れを正すため、千景を帝と定めた。

 彼がどれだけの犠牲を払うのか。

 その未来を、まだ誰も知らない。



 天がさだめし者の神話は静かに幕を開けたのであった。

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第一章 それは天がさだめし者 @murasaki-yoka

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