第11話 鬼神の計画
千景と遥仁は御所の御内庭の池から姿を現した。
予想外の場所であったため水を飲みこんでしまい、思わずむせこんだが、なんとか岸部に辿り着く。千景は石を敷き詰めた州浜に遥仁を降ろすと、自身も転がった。
暗い夜空が広がっている。点々と星々が見えた。
そこに暗い影が差した。
突然現れた少年二人のもとに、常世の国から戻った焔が再び現れたのだ。
「千仁……」
七年前よりも大人びた横顔を焔は見下ろす。
その瞳は、焔の心に宿る、一人の人物と重ね合わせていた。
あの事件は全て橘梨子の所業に思わせたものの実のところ、それは事件の一端でしかない。
全ては一人の鬼が動いたことで始まったのだ。
七年前のあの日。
初めて千景の前に姿を現した焔は、その情けない姿に失望し苛立ちを隠しきれなかった。
怯えて一目散に逃げてしまった千景の背中を目で追いながらも、焔は背後にて忍んでいるのか隠れているのかよくわからない中途半端な気配を感じ取っていた。
「……千景に何を吹き込んでいたのですか」
木の影から現れた信仁が、平生とは異なる鋭い口調で詰問した。
焔は信仁と長年顔を合わせていなかったが、和やかな挨拶をするような間柄ではなかったため、焔の方も無礼だった。
「何って」
焔は肩をすくめた。
「貴様は弱い存在だと、事実を言ってやったまでだ。本来ならば、こんな所で腐っているような器じゃねえってのに……」
「焔殿」
それ以上千景の出生を口に乗せないよう、信仁は遮った。
「全ては過ぎたことです。ですからそのお言葉で、千景を惑わすような真似をなさるのはお止め下さい」
「俺が言わなくとも、いつかは誰かの口によって真実を知る時がきっと来る。それが早いか遅いかだけの違いだ。そうだろ、信仁」
信仁はぐっと詰まった。
「貴様は千景を自分と同じような重荷を背負わせたくないという理由から、日陰の身に追いやった。だが、そのあまさがいつか千景を絶望へと叩き落とすだろう」
焔は数年前より遥かにやつれた信仁を見やった。
その表情には死相が浮かんでいる。もはや彼はいつ死んでもおかしくない。神の血筋を引く者も、病には勝てないということだ。
「千景は、貴様の分身ではない」
その言葉と共に焔は颯爽と姿を消した。
残された信仁は俯いたまま、体内を少しずつ蝕む腹部の痛みを押さえつけていた。
その日の夜、信仁は妻、雪子と共に千景の母である梨子を呼び出した。
「千景に真実を話そうと思います」
その言葉に梨子は一瞬大きく目を見開き。
「……何故でございますか……!」
畳をむしるように拳を握りしめ、動揺を隠せない声を彼女は発した。
「千景……千仁が養子に出されたのは内外でも有名な話です。真実を知る時はきっと来る。外部の者から心無い話を聞かされるより、私達から話してやった方がいいと思う……っ……」
不意に信仁は腹部の痛みを覚えて顔を歪めた。
梨子は咄嗟に腰を浮かしかけたが信仁は白湯をあおり、何とか痛みをやり過ごす。
大きく息を吐いた彼の脳裏によぎったのは、自身の幼い頃の記憶だった。
「梨子殿……私はね、幼い頃、ずっと周囲からの期待が怖かったのですよ。特に母親からの期待が酷く辛くて、体調を崩す度に叱られてばかりでしてね……。だから千景には私と同じような思いをさせたくはないと思い、あなたに預けることにしました。千景を大切に育ててくれたことには、本当に感謝しているし、正直な話、私も知らない方が心の負担は少ないと思っています。だが、千景はいつまでも子どもではない。もうすぐ成人もする。真実を話すのが、親としての最後の務めだと私は思ったのですよ。……私の体も、いつまでもつか、わからないのだから」
そう遠くない将来、信仁は確実に血を分けた二人の息子を残して逝く。寂しい思いをさせてしまうのが忍びない。互いを支えにして、少しでも強く生きてほしいと願うのは彼の最後の我儘だろう。
「本当に、私の都合で振り回して……あなたにも千景にも申し訳ないことをしました。今一度ここで詫びます。そして、千景の母になってくれて、ありがとう」
梨子は雪子の方も見た。長年慕っていた、主人を。
雪子も静かに頷いた。
「私も、信仁様に賛成いたしました。梨子、あなたなら、わかってくれるわよね……?」
梨子の心理はその表情から窺い知ることが出来なかった。
だから、後にあのような悲劇が起こるとは、信仁も予期することは出来なかった。
真夜中。
全身を脅かす倦怠感と腹部の痛みから浅い睡眠しかとれていなかった信仁は、微かに息苦しさも覚えて布団から起き上がった。
いつ容体が急変してもおかしくない信仁には、常に薬師がついている。だが、彼も一晩中不眠で様子を見ているわけにもいかないので、侍女が交代で傍にいるはずだった。
だが、部屋の隅にその姿はなく、信仁は異変を感じ取った。
誰が、どのような順番で自分を見ているのか把握しているわけではないが、予感があった。
「梨子殿……?」
最後に見た俯き気味の彼女の姿が蘇る。
信仁は腹部の痛みに耐えかねて布団から起き上がると、ふらふらと壁をつたいながら廊下を進んだ。歩けば歩くほど息苦しさは増すようだった。しばらくして彼は、この息苦しさは己の体調不良が原因ではないということに気が付いた。
奥の方の建物から白い煙がこちらへ流れ込んでいることに信仁は気が付いたのだ。
間違いない。どこかで火の手が上がったに違いない。
簀子に出て夜空を見上げると、直接は何も見えなかったものの炎の明るさが夜の闇を照らしていた。
それは方角からすると推定すると、千景の寝起きする建物だった。
「……っ!」
全身のだるさなど一瞬で吹き飛んで、信仁は咄嗟に動いていた。
ここで彼は致命的な間違いを犯した。この時の彼の役割は人を呼び、彼らに救助に託すことだったのだ。
しかし息子を心配するあまり判断を怠った信仁は己の身を顧みず、火の手の方へと突き進んでいた。
乾いた風が炎を煽り、炎は少しずつ広がっていく。
もはやこの紅桜院全体に火の手が回るのは、時間の問題だった。
渡殿は回り道になるため、広間を一直線に横切ろうと襖を開けた。
そこに──焔がいたのだ。恐ろしく整った容貌の、何を考えているのかわからない、人外の生き物。
信仁は嫌悪感を露わにした。
「この炎はあなたの仕業ですか……」
焔は涼しい顔で受け流した。
「何のことだ」
「…………」
ここで言い争ってもらちが明かない。信仁はこの男を無視することに決めた。
しかし、通り過ぎようとした信仁を焔は遮るように前に出た。
「何の真似です……?」
焔の真意を図りかねて信仁は眉をひそめる。間違ってもこれは、火に包まれつつある建物を突き進む信仁の身を、案じているわけではない。
「以前にもこんなことがあったよな。もっとも立場は逆だったが」
「何のことでしょう。そこを退いて頂きたいのですが」
「先々代、明大帝が暗殺された夜のこと。忘れたとは言わねえよなあ……?」
それまで焦りしか見えなかった信仁の瞳に、戦慄の色が浮かんだ。
「あの日、奴は実の息子……貴様ら兄弟に殺された。計画・実行したのは全て弟である頼仁だったが、貴様も感付いていた。だからこそ、一番邪魔をしそうな俺を足止めしていた」
暗殺。かつて頼仁は帝である父親を殺すという大罪を犯した。
軍国主義へと傾く国を、民を道具のように扱う彼らをまだ十代だった頼仁はどうしても許せなかったのだ。
既に兄の影として生きる覚悟をしていた頼仁は、父親を己の手で殺害した。
頼仁の所業は誰にも知られることはなく、闇へと葬り去られたように見えたが。
やはり焔は知っていたのだ。知っていた上で、ずっと都から遠く離れた所で沈黙をしていたのだ。
「俺が恨んでいたのはな、『奴』を殺した頼仁ではなく、俺を『奴』のもとへ行かせなかった信仁、貴様だ……」
その言葉に、信仁の腹部にじわじわと痛みが走った。持病であるそれは、心労が大きければ大きいほど酷い痛みとして彼を苛む。
信仁は思わずその場に跪いた。
そんな信仁を焔は上から見下ろす。
「貴様らを殺すことに興味などない。だが、貴様が苦しむ顔を堪能することぐらいはさせてもらってもいいだろう? 俺があの場に行っていたら、『奴』が死ぬことはなかった」
輪廻を司る神である焔が、最も死なせたくなかった相手を救うことが出来なかった屈辱。
明大帝の命を奪ったことよりも、己の誇りを傷付けた方が焔にとって許せなかった。
「信仁様……!」
そこに夫を案じて探していたのであろう雪子が、炎に包まれつつある室内に飛び込んで来た。妻の声に信仁は目を見張る。
「……何故逃げなかったのです」
信仁は煙を吸い、動かなくなりつつある体を叱咤して何とか立ち上がろうとした。
が。
「……ごふっ……」
一気に口から溢れた血の塊。それは畳に広がり、信仁の歪んだ顔を映し出していた。
それが――彼の見た最後の景色だった。
信仁は己の血溜まりに倒れ伏す。それきり彼は動かなくなった。
まだ生きてはいるだろうが、確実に死ぬことは焔の目から見て明らかだった。
「信仁様……信仁様……!」
雪子は必死で夫に呼びかける。呼びかけたところで何の意味もないというのに。
焔は二人を捨て置き、広間を出た。廊下も炎に包まれており、この短時間からよくここまで燃え広がったものだと感心する。
恨んでいたと言ったものの、実のところ彼が死ぬことに興味はなかった。むしろ、もっと早くに夭逝すると思っていたため、長生きをした方だと思った。
苦しむ顔を見られたものの、そんなことで『奴』は還って来ない。
ただ、『奴』の代わりになる者ならばいる。
焔はにやり、と笑った。
彼に発破をかけるには絶好の機会かもしれない。準備は既に整っている。予定より前倒しになるかもしれないが、それもまた一興。
彼をこの世を統べる王にさせよう。
まずは人間としての器を完全に壊すこと。
現人神から完全な常世の国の器へと。
焔はこれから始まる壮大な計画へと思いを巡らせ、炎の中を悠然と歩いて行ったのであった。
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