第10話 現世へ

 月のない、静かな夜だった。

 山奥に位置するこの寺は、夜にもなれば狸や狐が徘徊する。彼らが食物を荒らすことのないよう、寺の者は毎晩お供えものとして寺の各所に油揚げを置く。

 その日もお供えをした楓は膨らみ始めた蕾を眺めた後、法堂へ籠った。

 御仏の御前で静かに手を合わせる。

 千景がここを去ることを告げて法堂を出て行く姿を見送った後も、楓は一人静かにこの場に座っていた。

 微かに震える肢体を必死に抑えて。

 そのような姿、誰かに見られるわけにはいかなかったからだ。

 ずっと長い間、彼女はその想いを周囲に悟らせないようにして生きていたのだ。

 いずれは尼となる身。この想いはけして許されないということを、彼女は十分に自覚していた。


 幼い頃から寺で過ごしてきた彼女の一日は厳しい戒律を順守した、規則正しい一日だった。朝は日が昇らぬうちに目を覚まし、勤行、掃除、お供えをし、ようやく朝餉をいただく。食事は粥と漬物という質素なもの。その後は勉学、御仏へのお勤め、花を活けるという作務を行っていた。

 俗世と隔絶した、変わり映えの無い日々。

 彼女がそれを疑問に思うこともなく、ただ淡々とした日々を仏の御許静かに暮らしていた。

 あの日まで。あの二人が訪れる、夢幻のようなあの夜まで。


 月夜の美しい晩だった。

 満開の桜が月光に照らされ、あまりにも幻想的だったから楓は寺の庭を一人で眺めていたのだ。門の傍に立つ巨大な桜の木。外に出ているところを見付かったら怒られるというのに、まるで桜に呼ばれたかのように楓はそこから動けなかった。

 その門を必死で叩く音がした。

 楓はびっくりしたが、門の向こう側から聞こえるか細い声に気が付いた。


「……助けて、下さい」


 助けを求める声。

 楓は思わず閂を開け、戸を開いた。

 戸の向こう側には、かなりの距離の山道を歩いていたと思われる少年と子どもがいた。

 少年はぐったりした子どもを背負い、息も絶え絶えだった。

 その横顔は儚くて、まるで月光のように透き通っていた。

 彼の身に付けていた衣は所々どす黒く染まり、何かに斬り裂かれたかのように破れていた。だが、奇妙なことに彼は怪我一つしていなかった。

 突然現れた二人に、楓は慌てて寺の中へと知らせに行った。

 いくら戒律の厳しい尼寺とはいえ、ぼろぼろの子どもを追い出すわけもなく、寺の者は二人を招き入れた。


 少年は室内に着いて背負っていた子どもを降ろすと、忽然と意識を失った。

 驚いた楓が額を触ると高熱が出ていた。そのため、すぐさま布団を敷き、手拭いを濡らし、寺で作られた薬湯を用意した。

 幸い子どもの方は疲れて少年の背中で眠っていただけのようで、すぐに目を覚ました。食事を差し出すとしっかりと食べ、体調も問題はないようだった。

 だから楓はその後、少年の看護に徹した。

 荒い呼吸を繰り返す少年を見守っていた楓は、ふと思った。

 その儚い印象を与える彼はまるで桜のようだ、と。

 楓は彼がもしかしたら死んでしまうかもしれない、と思った。

 次の日になれば夢のように、その姿が消えているかもしれない、と。

 どうか彼が死ぬことがありませんように。

 この寺で御仏の救いにより、その命を長らえますように。

 その願いが届き、彼らと共に暮らすようになることを、その時の彼女はまだ知る由もなかった。


 七年という長くて短い歳月。彼らがここに来て、彼女の世界は鮮やかな色をつけた。

 たくさんの想いを育み、それまで知らなかった感情を愛でた。

 本当に、本当に幸せな日々だった。

 そんな優しい未来が続くと信じていたからこそ、桜を見ようと約束した。

 別れはあまりにも無情に、突然にやって来たけれど。

 もしかしたら、もう二度と会えなくなるかもしれないけれど。

 あの約束をしたことを後悔はしていない。


 夜風がもの悲しく法堂へと吹き込み、楓の胸の内を凪いだ。

 告げることの出来ない想いを抱くことしか出来ないのならば。

 せめて二人のために祈ろう。どうか無事でありますように。どうか健やかでいられますように。

 そして、どうか遥仁様の為にという彼の願いを貫けますように。

 その祈りだけが彼への愛の証だった。



 千景は泣いていた。声を押し殺して。

 ようやく見付けることの出来た真実は、あまりにも残酷な現実を千景に突き付けた。

 心が裂けそうなぐらい苦しくて。いっそのこと心が死んでしまえばいいとすら思った。

 嗚咽を洩らして、感情を零すことしか出来ない彼に遥仁は何か声をかけたくて、だが何も見つからないままだった。

 今、千景の中で母はようやく死んだのだ。

 母の罪、という背負わなくてよいものまで背負い込んで。

 遥仁は不意に耀仁の言葉を思い出した。


『君がどれだけ辛い現実を受け入れられたとしても、周りの人間の心はそれほど強くもないし、深くもない。だから、いつかその周りとの差が君を苦しめるかもしれない』


 本当にその通りだと思った。遥仁は、誰よりも近くにいる千景の気持ちをわかってあげられていなかった。千景がずっと母の死を受け入れていなかったということを、遥仁は知っていたはずなのに。

「すまない、千景……」

 母の罪を背負ってもなお、その心が壊れてしまわぬように。

 遥仁はその背中にそっと額を寄せた。

 自分は、たった一人の兄のために一体何が出来るのだろうか。


 千景が我に返ったのは背中に突然重みを感じたからだった。

「……遥仁様…………?」

 弱々しい声をかけて千景は振り向こうとする。だが、その重みは意識なく千景の背をずり落ちた。

「遥仁様⁉」

 異変に気が付いた千景は、寄り掛かるように意識を無くした遥仁の体を受け止めた。そしてその体の線が薄く、消えかかっていることに気付き、愕然とした。

「……どうすれば……」

 本来ならば、人間の肉体は入り込めない世界。千景は鬼だから入れたものの、遥仁は早く帰らなければ、還ってこられなくなる。

 千景はうろたえた。体が、消失してしまう。

「早く、帰らなければ……」

 遥仁をおぶったが、思わず足が挫けた。動こうとする意思はあるのに、夢の中のように体が一歩も動かない。

 ここにきて、心の疲労が一気に現れたのだ。肉体の疲労はすぐに回復するが、心労はそうはいかなかった。

 どうして自分は大事な時に踏ん張りがきかないのか。千景は己の体を叱咤して必死に立ち上がろうとした。

 そう言えば。ずっと前にもこんなことがあった気がする。

 山の中を走って。必死に逃げて。幼い遥仁を背負っていた。でも、どうしても心が折れてしまいそうになった。

 月光を受けた夜桜がはらはらと舞い散り、二人の行く末を照らしていた。

 もう動けない、と何度も思った。

 けれどそれ以上に失いたくない。

 心からそう思った。

 だから、誰か。誰でもいいから遥仁を。自分の身はどうなってもいいから彼を助けてほしい、とそう願った瞬間──二人の前に門が現れたのだ。

 そこで初めて彼女と邂逅したのだ。

 楓という名の、同い年の、母に似た雰囲気をもつ少女と。


 今、この場には先を照らす月光も桜の花びらもない。

 白い霧とこもった熱が、あたりを覆い尽くしている。

「遥仁様……桜を、見ましょう……」

 千景は意識のない遥仁に必死に呼びかけた。

「楓様と、三人で……」

 柔らかい笑顔で満たされた、平穏な最後の日々が蘇る。

『いつか訪れる日のことを、楽しみにしております』

 たとえ輪廻から外れた身であっても、皇族として籠の中に閉じ込められていようとも。生きていればいつか会えることが出来る。

『待つことも、とても楽しゅうございます』

 そうだ。そんな日々が来ることが今は、心から愛おしい。

「だから、私と共に帰りましょう……!」


 そんな千景の思いを聞き届けたかのように。

「大丈夫。まだ間に合うのだから」

 穏やかな声が耳についた。

 千景が顔を上げると、先程焔を襲った者が佇んでいた。

 警戒心剥き出しにして千景が思わず後ずさると、その男は困ったように笑った。

「私の狙いはあの鬼だけです。君には危害を加えない」

「焔は……」

「逃がしてしまいました。私の務めは君たちを無事に現世へと送り届けるためです」

 千景は突如として現れたその男を信じてよいのか、わからなかった。

 彼は焔を狙い、攻撃を加えていたその男。だが、一瞬でも焔の炎から千景を助けたように見えた。彼は一体、誰なのだ。

 全身を覆うように布を被き、辛うじて口元だけ見える。

「そして、彼に伝えられなかった神勅を授けます。心して聞くように」

 千景ははっと身構えた。すっかり忘れていたが、元はと言えば、遥仁はそのために神に呼ばれたのだ。

 男は、ぐったりと千景の肩に重さを預けている遥仁の頭部に手をやった。


「遥仁は千仁を帝の座へと進める重要な役割を果たすこととなる。

 ──だから、その日が来るまでけして千仁の傍を離れるな」


「──っ !」

 千景は目を大きく見開き、顔を上げた。

 意識のないはずの遥仁の体が一瞬大きくひくり、と震えた。意識の深層にまでその神勅が届いたのだ。

 血に濡れるであろう帝の玉座。

 神意は遥仁までもを巻き込もうとしている。

 現世に帰り、全てを背負う覚悟が千景にはあるのか。

 それでも千景の中には遥仁を連れて還るという選択肢しかないし、それ以外を選ぶことはない。

 もう後戻りの道はどこにも残されていないのだ。

「遥仁様に代わって、しかと承りました」

 千景の了承の意に、男は静かに微笑むと頷いた。

 すると彼らを包み込むように、ふわり、と優しい風が吹いた。

 それは白い霧を打ち払い、こもった熱を打ち消した。周りの気が軽くなり、急に辺りが明るくなった。

「おや……」

 男が意外そうな声をあげて天を見る。千景も上を向くと。


 静かに光沢のある細い糸が目の前に垂れてきた。

 それは天界から降りてきた蜘蛛の糸だった。


 千景はその糸の先を見た。

 立ち込めていた霧が晴れて、雲の奥へと繋がっていた。

「どうやら天が道を開いてくれたようですね。この糸を信じていればいい。これで、還ることが出来る」

「ありがとうございます」

 千景は糸を掴もうと手を伸ばした。

 直前にその者の声がひどく誰かに似ていることに気付く。

 千景はもう一度振り返った。

 千景より僅かに高い背。布の隙間から見える長髪に穏やかな口元。

「現世に戻っても色々大変かもしれませんが」

 彼は穏やかに紡ぐ。


「無理しない程度に頑張りなさい」


 その言葉に千景の琴線が触れた。

「あ……」

 思わず、声がもれた。誰だかわかってしまった。

 昔、全く同じ言葉をかけられた時、千景は返事が出来なかった。

 あの時とは違う緊張が千景の心臓を早鐘のように打った。

 思わず体が震える。

 言葉では言い表せないほどの複雑な思いがある。

 自分の中でうまくまとめられないから、それを伝えることなど今の千景には不可能なことだった。

 ただ。これだけは言っておこうと思い、あの時言えなかったお礼を千景は口に乗せた。

「……ありがとうございます」

 彼は静かに微笑んだ。

 千景は最後一礼をすると遥仁を背負ったままその細い糸を握った。そして彼らの身体は光に包まれた。


 釈迦は罪人を救う時、蜘蛛の糸を天界から垂らしたという。

 どうやら現世の世界の祈りが釈迦にまで通じたらしい。

 こんなにもひた向きに彼らを想ってくれている人物がいるのならば、大丈夫かもしれない、とその男は思った。

 それに引き替え。

 娘を媒介にして神々にまで助力を懇願する、破天荒な人物には困ったものだ。

 その見返りに死んでいたはずの自分は輪廻から一時的に外され、いくつかの使命を引き受けるはめになってしまったというのに。

「まったく、手のかかる弟と息子たちだ……」

 口元に苦い笑いを残しながら彼は、頭部や目元を覆っていた布を外すと、袂にしまっていた眼鏡をかけた。

 そうして、ほんの一瞬泣きそうに笑う。

「……もう二度と会うことはないと思っていたのに……」


 七年前にその魂は天へと還ったはずの泰平帝こと信仁。

 その面差しは、千景に驚くほどよく似ていた。


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