第9話 対峙

「そういう事か……」

 事のあらましを聞いた千景は顔を歪めた。

 元々輪廻を司る神である焔は、死者の魂と触れ合うことが出来た。

 神は穢れを嫌う。そのために『死』と触れることの出来る神である焔が、異端と呼ばれるゆえんもそこにあった。

 だから梨子を殺した彼は、彼女の一生を全て知ることが出来たのだ。

 その悪趣味な能力に嫌悪感をもよおしながらも、千景は耳を閉ざすことなく全てを聞いた。

 常日頃、微笑みを絶やさなかった母の、あまりにも暗い影の一面。

 だが、母が逃げようとした気持ちは千景には痛いほどわかった。

 先程、遥仁に告げないでほしいという思いと酷似していたからだ。


 焔は千景の耳へ酷薄な声で淡々と告げる。

「情に囚われれば人はどこまでだって堕ちる。人は弱い。それ故に堕ちるのだ」

「それでも……」

 絶望と真実の狭間で、千景は心がずたずたになりながらも振り絞る。

「私は母を恨めないし、母を殺したお前を赦すことなど出来ない」

「……まだ、母と呼ぶのか」

 焔は呆れたように舌打ちした。

「親王、いや、皇太子として生きられるはずだったさだめを捻じ曲げた女だ。そして今、実の弟である遥仁をさらった相手だというのに」

「母は私を愛してくれていた。遥仁様をさらったことにも、何か理由があるはずだ……」

 断言している割には自信がないため、千景の歯切れはいまひとつ悪い。

 橘梨子が遥仁をさらった理由。

 大方の予想は出来ているが、焔はそれを胸中に留めて先を急ごうとした。


 地獄は常世の国の一端でしかない。どこまでも広がる荒野は現世でいう異国とも続いており、その広さは果てしなく最果てを知る者はいない。

 おそらくそれほど遠くまでは行っていないであろうが、早く追いつくに越した事はない。

 焔の予想が合っていれば、おそらく彼らは──。


 再び歩き出そうとした焔を千景は止めた。

「まだ母を殺した理由を聞いていない。火を放った母を裁いたのか? 神だから……」

 焔は乾いた笑いを洩らした。自分はそんな上等なことが出来る身分ではない。

 きっと、そうだと答えれば千景も納得はするのだろう。だが、そんな心にもないことを告げるなど虫唾が走った。

「……邪魔だったんだよ」

 吐き捨てるように焔は言った。

「貴様ほどその魂が崇高な者はいなかったってのに、あの女はそれに見合った器として育てなかった。あの女がいたから貴様は何者にもなれなかった。どこまでも貴様は俺の理想から遠ざかっていった。あの女がいる限り、貴様は……俺のもとには来ないと思った」

彼は神としての任を遥かに越えた域で現世に関わっていた。千景や橘梨子を始め、人々の輪廻に必要以上に介入していた。そこには、たった一つの理由があった。

「何の話だ……」

 千景のその声に焔はがりっと奥歯を噛み締めた。くるりと振り向くと千景の正面に立ち、みぞおちに膝蹴りを食らわせた。

「ぐはっ」

 そのまま前のめりになる千景の胸元を掴み、吐息がかかるほど近く顔を近付ける。

 つま先立ちで顔を引きつらせながら千景は、焔の赤い瞳の奥で感情が揺らめいているのを確かに見た。


「よく聞け、千仁。俺は貴様をずっと──」



 ふと地獄にあるまじき奇妙な気配を感じて焔は千景を手放した。

 体の平衡を保てず、千景は勢いよく崩れる。

 その視線の先には、忽然と現れた一つの人影があった。

 衣を被いていて、何者なのかは視覚で確認することは出来ない。だが、その気配で焔は人影の正体を見破った。

「……厄介なのが降りてきたか……」

 焔はそれまで腰に差していた刀を抜いて千景に押し付けた。

 その刀を見て、千景は瞠目する。見覚えのある物だったからだ。

 紅の柄に細身の刀。これは、母が死の間際に携えていた刀だった。

「それを抜け」

 千景は言われた通りに刀を鞘から抜いた。錆一つない、艶やかな光沢のある刃。

「遥仁を手っ取り早く助けるために餓鬼を浄化する。方法は一つだけだ。地獄の業火で焼き尽くす。あれは何もかもを浄化する。それなりの苦痛を伴うがな」

 刀に手をかざす。すると一気に刃が炎に包まれた。

 千景は驚いて一瞬取り落しそうになったが、慌てて握り直した。


「これであの女を焼き尽くせ」


 あの女が誰のことを指しているのかわかった瞬間、千景の瞳がひび割れた。

「弱い貴様には情なんて邪魔なだけだ。強さを求めるならば心を壊せ。それで、完全に堕ちてしまえ」

 焔は呪いのような言葉を残した。

 刃を鞘に収めると、刀は何事も無かったかのようにひっそりと静まり返った。

 茫然としている千景を残し、焔が身を翻した。跳躍し、千景と距離をとると。

それまで二人の様子を傍観していた人影は突然焔に襲いかかった。

 軽やかな身のこなし。その手に持つのは長い矛。

 人影が矛を振り上げると、その切っ先に光の玉が集まった。それは空気が切り裂かれるような音と共に増幅し、焔の方へ光の閃光となって弾け飛んだ。

いかずち……」

 千景はひっそりと呟く。あんなこと、鬼神でない限り出来るわけがない。

 人影は矛からほとばしる雷で焔を貫こうと攻撃を仕掛けるが、焔は直前まで引き付けておいて避けるためにその攻撃は地面に激突する。

 突然勃発した争いは、あまりにも早すぎて千景は彼らの動きを目で追うことすら出来なかった。土埃と際限なく削られる地面がその激しさを物語っている。

 焔も空中に向けて手をかざした。先程放ったものと比べ物にならないくらい、巨大な火の渦が一斉に周囲を凄まじい勢いで駆け巡った。

 そしてそれは千景の方まで容赦なく襲いかかった。

 灼熱が千景の頬を撫でる。避けようにもあまりにも咄嗟のことで動けない。

 千景は反射的に目を閉じた。

「っ!」


 その直前、人影が千景の前に飛び出て矛を渦の中心へと突き刺した。

 狂ったような炎は一瞬で立ち消える。


「え…………?」

 千景を庇うように立つその後ろ姿。

 が、それは一瞬だった。人影は再び躊躇いなく焔の方へ突き進んだ。

「とっとと行かねえと、貴様の方が先に死ぬぞ」

 岩が砕ける轟音が響く中、焔が声を張り上げる。

 巻き込まれたら遥仁を探しに行くことすら出来なくなる。炎に襲われた恐怖で未だに体は震えていたが、千景は二人を置いて、遥仁のもとへあてもなく走り出した。



「千仁め、あれぐらい自分で避けやがれ。──で、天界の死者がこんな所で何をしているんだ。いや、今は死者ではなく使者、か」

 口の端を釣り上げて、焔は己に矛を向ける人影へと尋ねる。

 布を被いていた人影は鼻から下を覆っていた布を外した。

「いくつかの重要な案件を任されまして」

 その声から人影が男性だということの区別がついた。

「それもこれも、あなたが余計な事をしでかしたからですよ。神でありながら人々の輪廻を狂わせたあなたを消すよう、天界から仰せつかりました」

 柔らかい口調だが、気迫は本物だった。

 この突如として現れた男は本気で焔を消そうとしているのだ。

「その割には、さっきから攻撃外れまくっているんじゃねえのか?」

 焔は嘲笑う。彼の持つ矛はおそらく鬼の身すら滅ぼす天界のものだろう。だが、いくら強力な武器でも、攻撃は当たらなければ意味がない。

「鬼であろうと誰かを殺すなど、私の主義に反するのですが」

 男の声音に怒気がはらむ。まるで身の内の炎を焦がしたかのようにゆっくりと、じわじわと、抑えきれない怒りが殺気へと変わる。

「……あなたは千景を殺すよりもむごいことをした。私はそれを……赦さない……!」

 男が右手を振り上げて矛を突き刺すと、雷鳴と共に岩盤が砕けた。

それを合図に焔を中心に凄まじい地割れが起きる。

一斉に音を立てて溢れ出る煙。先程からの容赦ない攻撃に、地盤は既に崩壊寸前だったのだ。

焔は、彼が始めから地獄の最下層に、この身を葬り去ろうとしていたことに気が付いた。



 母から奪われた遥仁を取り返さなければならない。

 だが、母をこの刃で貫くことなど出来るわけがない。

 強さを求めるなら心を壊せ、とあの鬼は言った。

 そうなってしまえば誰も救われない。焔の思うつぼである。

 一体、どうすれば。

 答えの出ない問いに悶々としながらも千景は足を止めなかった。

 走っていたところ、何かが足元に転がっており千景は見事にそれに足をとられて、ひっくり返った。

 むくりと足元にいた何かが起き上がると、地面に転がっていた千景と目が合った。それは口を開く。

「何だ、お前は」

「ひっ」

 千景は思わず、息を呑んだ。

 それは醜い餓鬼だった。痩せこけ、両目だけが爛々と輝いている。

 昔、絵巻物で見た餓鬼そのままの姿だった。

「その姿……新入りか。ようこそ地獄へ」

 千景は無視してもつれる足を動かし、先へと進もうとした。だが、後ろから髪を引っ張られ、痛みと他人に髪を触れられるという嫌悪感に顔をしかめた。

「っ……放せ……っ!」

 千景は振り払おうとしたが、餓鬼を見て全身の皮膚が粟立った。

 餓鬼が千景の髪を掴むと、おぞましいことにその髪を数本引きちぎり淡々と咀嚼していたのだ。

 地獄では草も根も土も、口に入れた瞬間炎となり、消滅する。そのために餓鬼は常に極限の飢餓状態にある。けして死ぬことのない体で。

 彼らにとって、口にしたことのない異物は全て食料である。千景も例外ではなかった。

 そのようなことをしても、満たされることなどありはしないというのに。

「放せっ!」

「その衣も寄越せ……!」

 必死で抵抗していると異常に伸びた餓鬼の爪で、千景の衣が派手に切り裂かれた。

「あっ……!」

その斬り裂かれた箇所から香り袋が飛び出した。

 楓にもらった、庵簾の匂い袋。

 掴もうとしたそれは、呆気なく千景の手をすり抜けた。

 食べ物か何かだと思った餓鬼は目を輝かせてそちらへと駆け寄る。

 微かにする白檀の香り。

 ああ。千景は思い出した。

 これは自分と遥仁を繋ぐ唯一の導。


 約束したのだ。出来得る限りこの香りを身に付けていてほしい、と。共に過ごした日々の絆となるから。

 たとえ現実が二人を引き裂いても、千景の居場所は彼の傍にしかなかった。

 遥仁がいたから自分は生きていけた。

 遥仁がいたから頑張ろうと思うことが出来た。

 遥仁がいたから、弱い自分でも出来ることがあるのだと気付いた。

 だからこそ、──遥仁を守りたいと願ったのだ。


 千景は刀に手を伸ばした。

「こんなところで、お前にかまっている暇はない……!」

 千景は覚悟を決めると、目の前にいた餓鬼を最大限の気迫で叩き斬った。

 常軌を逸した力で刀を振るったため、餓鬼の体は真っ二つになり瞬時に燃えた。

 初めてまともに斬った感覚に体が震えた。

 しかし己の感情すらもかまっていられなかった。

 その感覚にどれだけ嫌悪しても、それでも探さなければならない人がいる。

 千景は乱れた前髪から鋭い瞳を覗かせた。

「……遥仁、様……」

 その瞳は赤く染まっていた。


 地獄に漂う白檀の香り。

 それを辿って千景は地獄の地を走った。

 鬼の足ならば、どこまでも走ることが出来た。筋力も呼吸の強さも桁外れで。

 なのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。

 少しずつ濃くなっていく香りは、千景の鼻腔を伝い、肺に溶けてゆく。

 もうすぐ彼らに辿り着く。たった一つの光を取り返すために。そして、永遠の呵責を背負うために。

 視線を降ろすと崖の下に姿が見えて、千景は滑り降りた。絡む蔦に足をとられて捻り、着地した途端に鋭い痛みが走ったが、ものの数秒でその痛みは消失した。

 改めて、自分は人間ではない、憎むべき相手と同じ鬼なのだと感じる。

 けれど、遥仁を守るためならば鬼でもかまわない。

 一緒の落ちてきた砂埃が舞い上がり、それが目に入りそうになり慌ててまぶたを閉じた。しばらくして顔を上げると同時に目を開いた。赤かった瞳はいつの間にか元の黒に戻っていた。


 千景の目の前に母はいた。骨と皮のように痩せ、身に付けている着物は擦り切れて、髪は一本一本が乾き、無惨に絡まっていたが紛れもなく母だった。

 あまりにも痛々しい姿に千景は声をあげることすら出来なかったが。

「大きくなりましたね……千景さん」

 まるで千景が来ることを予測していたかのような落ち着いた態度で、柔らかい声音は過去の記憶と寸分違わなかった。

 そして。

「千景!」

 母の背後にいた遥仁。怯えた様子は微塵も感じられなかったが、それでも千景の姿が見えたことに安堵したようだった。

 懐古の念を振り払い、千景は必死の思いで懇願した。

「遥仁様を、返して下さい」

 しかし母は首を振り、千景の訴えを拒絶した。

 千景は人を説得する方法を知らない。千景から誰かに働きかけることなどなかったから、これ以上何と言えばよいのかわからなかった。だからこそ焔も、千景に実力行使をさせるために刀を渡したのかもしれない。

「どうして……」

 顔を歪める千景に母は切なく目を細めた。

「神は何故、鬼に堕ちたあなたを帝へ指名したか、わかりますか?」

 唐突に尋ねられたその問いに、千景はゆっくりと首を振った。

「焔というあの鬼は、輪廻を司る神でありながらその道を違え、死ぬはずだった大勢の人の輪廻を狂わせました。あなたもその一人。鬼になるとは、人としての輪廻から外れるということ。そして天の神は人々の狂った輪廻を正すために、あえてあなたを利用しようとしているのです。

 これからあなたが帝の地位に就くことによって、死ぬはずのない人々が大勢死にます。それも限りなく悲惨な死に方で。神は自らの権威を落とすことなく、千景さんに汚れ役をやらせようとしているのです」


 誰かの命の狂いを正すために、誰かの命が犠牲となる。穢れを嫌う神は自らの手ではなく、鬼に堕ちた千景を利用する。

 それが、神勅の真実。

 千景と遥仁の血の気がざっと下がった。聞いてはならないことを聞いてしまった感覚が駆け抜ける。

「具体的に、何が起こるのですか⁉」

 遥仁が堪らずに声を上げた。

 けれど母はそれ以上詳しいことを言おうとはしなかった。

「では何故、遥仁様を連れ去ったのですか」

 千景が尋ねると、母は能面のような奇妙な笑みを浮かべた。

 それを見て千景は違和感を覚えた。生前、母は、こんなふうに笑っていただろうか……?

「遥仁様はあなたの弟宮です。帝の地位を継ぐことが出来るお方です。ですから、遥仁様に、あなたのさだめを全て背負っていただきます。あなたの人生を彼に歩ませ、そして輪廻を正す役割を彼に担っていただくので」

 母はこれ以上ないほど優しい顔で。

「そのために、彼には鬼へと堕ちて頂きます」

 これ以上ないほど残酷なことを口にした。


 鬼だ、と。そう千景は思った。

 息子を想うあまり母の心は鬼になっている。

 千景は血を吐くように呻いた。

「……私は、これ以上母上に罪を背負ってほしくない……!」

 その声も、餓鬼である母には届かない。

「もう、ご存知ですね。私があなたの本当の母親でないことを。けれど私は、あなたを心の底から愛していました。憐れみでも何でもない、私は……あなたの本当の母親になりたかったのです……。それなのに私は、あなたには過酷なさだめを招いてしまった。これは償いです」

 本当の、母親になりたかった。

 その言葉、さっきまではどれだけ欲しかったか。だが今はその優しさが真であればあるほど、これから千景がやろうとすることへの罪悪感が胸に湧く。

「そのために遥仁様のお命を捧げよ、と言うのですか」

 分かり合えない、と思った。

 本当に愛されていたという温もりはまだこの胸の中に残っているし、今でも変わらず母を大切に思っている。

 ただ、この一点に関してはどうしても譲れなかった。

 だから──千景は母と永久に決別することを決めた。


 千景はかたかたと手を震わせながら刀を抜くと、炎の刃を母へと向けた。

 そして自分に言い聞かせる。

 母はもうとっくの昔に死んだのだ、と。そしてこれは、遥仁と共に母を救うためなのだ、と。

 だが、最後の一歩がどうしても踏み出せない。

 こんな覚悟したくなかった。こんなふうに、対峙したくなかった。千景の心が悲鳴を上げる。

 母は千景の迷いを感じ取り、遥仁を引き寄せた。そして彼の喉元に、己の鋭く伸びた爪を押し当てた。

「!」

 互いに相手のことを思いやっているはずなのに、二人の願いは致命的なまでにすれ違っていた。お互い、譲る気持ちは一歩もなかった。

 母の視線の先には、赤い実のなった木があった。がっしりした幹から分かれる細い枝。その先に沢山の赤が点々と色づいている。植物が色を失っている地獄において、それは異様な光景だった。

 あれは、その昔千景が口にしたものと同じ実。人を、鬼へと貶めるための──。

 焔はそれをトキジクノカクの木の実、と呼んだ。

 焦燥が顔に出る。遥仁を傷付けずに母から奪い返すにはどうすればよいのか、千景は必死で手立てを考えた。


「…………」

 そんな彼らの様子を伺いつつ、遥仁は気付かれないようにそっと己の袂に手を入れた。

 そこに仕込んでいたのは、一本の針だった。

 万が一の時に逃げられるように。むざむざと千景の目の前で殺されないために。

 遥仁にとって自分が親王として過ごしていた記憶はほんのわずかしかないが、千景が常に遥仁を親王として敬う気持ちを持ち合わせていたため、その矜持はけして忘れていなかった。他の子どもと違う、己の中に流れる血。それに利用価値があり、いつか命を狙われる可能性があるということを五歳の夜に身を持って思い知った。

 死ぬことを怖いと思ったことはあまりない。だが、千景を悲しませることはしたくなかった。

 優しくて、繊細で、不器用で、臆病な千景。でも、遥仁はそんな千景が大好きだった。一番自分のことを思いやってくれているということが遥仁はわかっていた。

 彼のために生きていなくっちゃいけない、と遥仁はそう感じていた。

 だから、ごめんなさい。

 遥仁は千景と、千景の母に心の中で詫びると、袂に入れていた針を勢いよく梨子の手に突き刺した。


「――――っ…………!」

 遥仁の予想外の行動に、梨子は完璧に不意を突かれた。

 餓鬼は死ぬための体ではなくとも、苦痛を受けるための肉体は存在する。

 肉を貫く痛みが走った一瞬の隙に遥仁は彼女の腕をかいくぐり、千景のもとへと走った。

 そして、千景の手を包み込むようにその柄を握った。

「もういい。もう大丈夫だから。私のために人を傷付けてほしくない」

 千景が人を傷付けられない性格だということを知っている。

 しかし、千景は遥仁の手を離させた。

さっきまでは出来ることなら母を殺したくない、と思っていた。でも、気付いてしまったのだ。今ここで母を見逃しても、彼女は同じ過ちを繰り返す。母は餓鬼に堕ちてしまうほどに、その心の闇は深いのだ。

「これは、私がやらなければならないのです」

 そして真正面に母を見据えた。

「……たとえ血は繋がっていなくとも、母上は母上でございますから……」

 その悲痛な一言に母は、はっと目を見張る。

 何も出来ない自分を、唯一信じてくれた母。

 自分の出来ることを精一杯行えばいいのだ、と。

 そう言ってくれた、夕焼けの記憶。

「息子の、私がその責任をとらなければならないのです。母上の犯した罪を」

 そう言って静かに腕を振り上げた。


「御免!」


「────っ!」

 叫び声をあげる間もなく、母が炎で焼き尽くされる。

 懺悔すら赦されない一息の間に。

 それを見つめる千景の頬には一筋の涙が伝っていた。


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