第8話 母の過去

 突然誰かに呼ばれた気がして。

 ひたすら道を進んでいた。

 これ以上進んだら帰り道が消えてしまう。

 それでも進まなければならない。

 生まれる前から知っていた世界へ。

 だが、突然その手を誰かに引き寄せられた。

 そちらへ行ってはいけない、と言われた気がした。

 その手は明るい方ではなく、どんどん暗い方へと連れて行った。

 徐々に見えてくる後ろ姿。

 遥仁はその人を知っているような気がした。

 けれど、それが誰だかどうしても思い出せない。

 どこに行くの。

 どこへ連れて行くの。

 そう訊ねようとした。

 でも、その手はその問い掛けさえ躊躇わせるほど強い力で遥仁を引っ張っていった。



 橘梨子が女官として働き始めたのはまだ年端もいかぬ子どもの頃だった。

 橘家は平安初期から続く古い家柄だったが、時の流れとともに衰退し富も失われていった。だが、伝統と格式を重んじる皇室は、彼女に居場所を与えてくれた。

 転機があったのは皇太子だった信仁親王が、結納にあたる納采の儀を迎えた時。

 梨子は妻である皇太子妃雪子付の女官となったのだ。

 伝統としきたりで息がつまりそうな御所での暮らしを、雪子と同い年であった梨子は献身的に支えていた。主従関係でありながら、それ以上の信頼関係で成り立っていた。


 泰平元年。明大帝が没し、信仁親王が新たなる帝として日本の統治者となった。

 そして雪子はその格を皇太子妃から皇后へと改めた。

 それから程なくして梨子は名門華族、鷹司家に嫁ぐことが決まり、宮仕えを止めることとなった。梨子は内心悲しんでいたのかもしれないが、幸せになってほしいと精一杯の心遣いをもってこれまで仕えてくれたことを感謝した。


 宮仕え最後の日。

 うららかな梅の香が薫る庭で、梨子は突然に信仁帝に声をかけられた。

「今まで妻に付き添ってくれていて、本当に感謝する」

 穏やかで聡明な帝に声をかけられれば誰でも委縮するというもの。

 鳴り響く鼓動を全身で感じながら、畏れ多いと梨子はその気持ちで一杯だった。


 雪子と同じ時期に懐妊したのは天のさだめだったのかもしれない。

 そう彼女は思った。

 女官時代から細やかな気配りが出来る梨子は、夫に大切にされて穏やかな日々を過ごしていた。

 帝と皇后雪子への忠誠心は変わらず、今は遠くから祈ることしか出来ないけれど、いつか自分の子も彼らに仕える者として国の繁栄に寄与していけると梨子はそう信じていた。


 だが、臨月を迎える直前に破水し子どもは流れ、彼女は子を生むことの出来ない体となった。跡継ぎをつくることの出来ない彼女は当然のように離縁させられ、全てを失った悲しみに暮れていた。

 そんな彼女を救ったのは雪子であった。

 雪子は梨子を乳母に命じたのだ。もちろん雪子の意向だけで乳母は決められるわけではない。だが、女官時代の信頼を勝ち得ていた梨子はそれほどの軋轢もなく、その任に就くことが出来た。

 乳母はただ生まれてきた子のために尽くす。昼も夜の関係なく、自由も女官以上に無い。歴代の乳母の中には神経衰弱を患うほどの者もいたという。

 だが、雪子の子と触れ合うことで、愛する我が子を失った梨子の心は少しずつ満たされた。


 その礼を伝えたいと梨子は帝に謁見の機会を賜った。当時激務に耐えていた帝だったが、定期的に息子のもとへ通っていたためにその機会はほどなくして訪れた。

 そこで交わされた会話は、儀礼的なものだったが。

 その姿を目にした途端、彼女は狂おしいほどの思いに囚われた。

 ようやく彼女は自分の抱いていた感情が、尊敬の念だけではなくなっていることを自覚した。

 千仁は信仁帝に似ているのか、とても病弱だった。だから梨子は誰よりも心を砕き、常に傍で見守っていた。

 千仁は親王宣下を受けることなく、梨子のもとへ里子に出された。


 そして千仁が四つの頃。

 お忍びで突然やって来た信仁の姿に梨子は心底驚いた。

「主上、何故このような所に……」

「千仁の元気な姿を見たいと思いましてね」

 穏やかに微笑む信仁上皇の横顔を見詰めながら、彼女の胸には切なさが込み上げてきた。

 一年前に彼は公務中に突如、血を吐いて倒れた。病名は知らされなかったが、それを機に彼は帝の座を弟に譲り、静養している。

 透き通るような美しさは病弱な体と対になっているのだ。

「……千仁は、私に似ているな」

 その言葉に梨子は頷いた。

 病弱だから、という理由だけではない。

 日に日に似てくる面差しが、愛しさを増して行く。

 ほんの一瞬、二人で並んで千仁を見守る様子は千仁が誰との子なのか忘れそうになった。自分と、信仁の子ではないかと錯覚しそうになった。

 雪子に嫉妬したことは一度もない。むしろ結果的に息子を引き離したようなかたちになってしまって、申し訳ない気持ちで一杯だった。

 だが、ほんの一瞬でもこの状況を幸せだと思ってしまったのだ。


 彼に、第二子が出来たことを知るのは少し先になる。

 そしてそれが男児だとわかり、千仁は皇族を離れて正式に橘家の養子に。つまりは梨子の息子となった。

 嬉しさのあまり感涙した梨子は、愛する人達の子を我が子として育てていく決意をする。

 名を千仁から本来の息子に捧げるはずだった景という名を取り、千景と改めたのはその決意の証だった。

 相変わらず体は弱く、人見知りが激しい引っ込み思案だったが、千景は真面目で優しい子に育った。

 六年後。実家の両親が亡くなり生活が逼迫したため、再び雪子のもとへと奉公に出ることになった。彼らの息子である千景を連れて。

 六年ぶりに謁見した信仁上皇は線が更に細くなり、先が長くないことが一目で伺いしれた。

 在位中は書物を読む際のみにかけていた眼鏡も視力が悪化し、常時身に付けているようになった。ぼろぼろになっていく彼だったが、それでも彼を慕う気持ちは消えなかった。

 千景に対し、つい過保護な面を何度も見せてしまったが、大切に育ててくれてありがとう、という信仁の一言がその胸を何度も熱くさせた。


 ――だから、千景に己の出自を全て話すと告げられた時は世界の軋む音がした気がした。


 彼が皇族の息子、信仁上皇の息子だとは告げてもかまわない。だが、母親は。本当の母親は自分であると信じていてほしかった。

 千景が、母を見る目で雪子を見ることだけはどうしても許せなかった。

 そこでようやく彼女は、本当の母親である雪子に嫉妬しているのだということに気が付いた。

 信仁の妻になりたかったわけではない。ただ、千景の母でありたかった。

 しかし上皇の意向に逆らえるわけがない。

 彼女は逃げるしかなかった。

 梨子は屋敷に火を放った。以前に小火騒ぎがあり、火事の際は門の見張りの者が出払うことを彼女は知っていた。

 だからその隙に息子を連れて逃亡しようとしたのだ。

 だが、いくつか想定外の事が起こった。

 一つは火の手が予想以上に広がってしまったということ。

 そしてもう一つは、千景は遥仁の身をまず案じて駆け出したこと。

 千景はこれ以上ないほど遥仁のことを慕っていた。

 それが兄弟故に湧き出でて来る感情とは知らずに。

 ひどい罪悪感に苛まれながら、梨子は遥仁のもとへと走る千景の後を追っていた。


 そして千景の前に立ちはだかった一人の鬼。

 これが最も想定外の出来事だったかもしれない。

 本能的に梨子は、この男は千景に害を為す者だと感じた。

 梨子は千景を庇って前に出た。

 千景だけは守らなければ。そして、千景を守れるのは自分だけなのだ。

 そんな愚かな考えを彼は見抜いていたのかもしれない。

 それは梨子を嘲笑うと。

 目にも止まらぬ速さで彼女の目の前に立ち、そっと囁いた。

「――お前が千仁のさだめを狂わせた全ての元凶だ」

 その言葉と同時に錫杖が梨子の胸を貫いたのだった。


 気が付いた時には全てが終わっていた。

 信仁上皇と雪子は死に、千景は人を捨て、愛する者達を自らの招いた手で失っていた。

 罪の意識に苦しんだ梨子は地獄にて餓鬼へと堕ちる。

 飢えと足掻きの中、己の罪を償うために。

 しかし彼女は千景の歪められた輪廻が数多の命を犠牲にすることを知る。

 神の血をひきながら鬼に堕ちた千景は何者なのだろうか。

 全ては自分のせいだ。

 彼のさだめが狂ったのも。千景はこれからあがなえないほどの暗く、重い罪を背負う。


 だから、梨子が神の御許に呼ばれた遥仁を地獄へと導いたのは、輪廻を正す最後の賭けだった。

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