第7話 正体
「突然呼びつけて、あんな話を聞かせて本当にすまないね」
耀仁は申し訳なさそうに謝った。千景の失態を遥仁が目にする前に、気を利かせて遥仁を連れて退室したのだ。
「いえ、驚きましたが……千景が本当の兄だとわかって嬉しかったです」
千景は実の兄である。そう伝えられた遥仁は無言でそれを受け止めた。
驚いた、というのが正直な感想だった。けれど、嫌ではなかった。むしろ、千景と血の繋がりがあるというのが嬉しかった。遥仁は両親を亡くしている。親族がいるのはわかっているが、それは隠れ住んでいた遥仁にとって遠い存在に過ぎなかった。千景のことは誰よりも大事に思っていた。だからこそ、例え偽りの仮面で隠されていたとしても、家族と言える存在がいるのは喜ばしいことだった。
けれど、遥仁は顔を曇らせた。
果たして千景はそれを聞いてどのような思いを抱いているのだろうか。
千景は遥仁に尊敬の念をこめて仕えている。その忠誠心は心からのものだった。
だからこそ、怖い。
両親に可愛がられた自分のことを疎ましく思わないだろうか。
どうか、嫌わないでほしい。切にそう願った。
そんな遥仁を見やって耀仁は目を細めた。
「君は、そうやって何もかも受け止めてしまうんだね」
え? と遥仁は振り返り、首を傾げた。
「ご両親が亡くなったことも。皇族として生きられなくなった時も。京へ呼び戻された時も。君は自分の意思で現実を受け入れて、そのまま進んでしまった。それが悪いことではないよ。とても心が深いという証だから。でも、少し心配だ」
丁寧に耀仁は言葉を選ぶ。
「君がどれだけ辛い現実を受け入れられたとしても、周りの人間の心はそれほど強くもないし、深くもない。だから、いつかその周りとの差が君を苦しめるかもしれない。帝になるのなら、それはとても必要なものだと思うけどね。どうかそれが、君にとって幸いでありますように」
よくわからず怪訝な顔をすると、耀仁はまだわからなくていいよ、と言って微笑んだ。
「僕自身も指摘されるまでそのことに気付きもしなかったし……」
突然耀仁は口を噤んだ。
この季節にはあまり感じない、生ぬるい奇妙な風が通り過ぎたことに気が付いたのだ。
「道が開いた……?」
その言葉が何を意味しているのかわからず、遥仁は眉根を寄せた。
帝は御簾越しに近付いてくる夜の気配を感じ取っていた。
一気に冷静に戻った千景は再び帝に掴みかかろうとはしなかった。ただ、力が抜けてしまったかのように、その場に膝をついていた。
「私は、兄上ほど優しくはなれないから、こんな方法でしか伝えられなかった。本当は実の父親である兄上か育ての母から聞くべきことだったろうに」
帝の言葉に千景は首を振った。育ての母、という言葉が千景の胸に突き刺さった。
違うのだ。母は、あの人は。千景の中では真の母であってほしかった。
あの愛情は、本物だと信じていたかった。
口には出せなかったものの、そう千景は心の中で叫んでいた。
藤子は千景の腕を解放すると、傍にいながらも何も言わずに彼らの様子を見守っていた。
千景を捕らえた先程の気迫が嘘であるかのように、音も無く静かにそこに佇んでいる。
そして彼女は沈黙の下で考えていた。天はどうして彼を帝にさだめたのだろうか。
千景とは幾度となく会話をしたが、決定的な答えが見付からない。体も弱く、精神面の弱さも露呈した。地位に執着の無い藤子であるが、これならばまだ耀仁や遥仁の方が相応しいように感じていたのだ。
不穏に御簾が揺れた。行燈にともされた灯りが室内を煌々と照らす。
それは御簾の向こうに忽然と現れた一つの影をくっきりと映し出した。
「……誰だ」
忽然と現れた奇妙な影に帝は誰何を尋ねた。
問われたその影は、帝の御前にも関わらず無礼に返した。
「久しいな、頼仁」
千景の背に氷塊が滑り落ちた。御簾に映った影を千景は凝視した。
「その声は…………」
忘れはしない。忘れるものか。
七年前に屋敷に火を放ち、千景の母を殺し、遥仁を狙ったあの修験者の声だった。
「
千景が驚いたことに、そう修験者を呼ぶ頼仁の声が憎しみを孕んでいた。
藤子は咄嗟に装束の下に忍ばせていた懐剣を握った。これは本来ならば帝が不慮の事故で命を落とした時に、自らも殉死するという皇后の心がけを表す儀礼用なのだが、今この瞬間は違った役目を担う。
突然一変した室内の空気。
帝は低い声で一つ、命令を下す。
「──捕らえよ」
「はっ」
素早く後ろで控えていた従者が動いた。
記憶がまざまざと蘇る。
あの時の恐怖で全身が冷たくなっていく。
千景は自分が突然七年前の、無力で何も出来ない十歳の頃に戻ってしまったような感覚に陥った。
かの修験者―焔はやすやすと帝の従者を退け、昏倒させると、千景をねめつけた。
倒れた彼らを足元に転がし、御簾をかいくぐって室内へと踏み込んだ。
灯りに照らされた姿は七年前と異なっていた。濃い色の直垂に、目立つ銀の髪を烏帽子に纏めている。この姿ならば多少見られたところで御所内では咎められないだろう思われた。
「貴様は相変わらず弱いな」
びくり、と千景は身を震わせる。自分と遥仁、そして母や先代の帝、幾人もの人生を壊され、狂わされた誰よりも憎い相手であるはずなのに。
怖いのだ。憎しみよりも恐怖の方がずっと強い。
「お前には二度とこの地を踏まぬよう厳命したはずだ。一体何をしに戻って来た」
刃物よりも鋭さを帯びた声音で頼仁が詰問する。傍にいた千景が思わず体が竦むほどの。
だが、焔はそれしきの言動を軽やかにかわす。そもそも彼にとって、この世で最も至高の存在である帝も敬う存在ではないのだ。
「こちらこそ貴様に用はねえよ。向こう側へ呼ばれたはずの遥仁がさらわれたから伝えに来てやったまでだ」
「──さらわれた?」
遥仁の名に反応し、思わず千景はそちらへ足を踏み出した。だが、それを藤子が止める。
「危険です」
藤子に後ろから掴まれ千景はのけ反った。
「千景は下がっていた方が賢明だ」
頼仁は険しさを滲ませたまま告げる。
「また、異界への道が開いたのか」
御所では帝の住まいであり、それ故に神聖な場所とされている。
つまり、現世にありながら俗世とはかけ離れた場所であった。
そしてこの世とは異なる世界と、とても近いと言われていた。
帝が神に呼ばれる時、異界を渡るという。
その異界を『
常世の国は神の世界であり、人間の死後の世界であり、生まれる前の世界でもある。
呼ばれた者は時に神勅を携えて現世へと帰ってくる。いや、還される。
そして今回、再び異界への道が開いた。
選ばれたのは遥仁だった。
しかし、彼はその途中、神の意思と反する別の者に連れ去られたという。
「ならば話は簡単だ。焔、お前ならば呼ばれずともそちらへ行くことが出来るのだろう? 遥仁を連れ帰して来い。ついでにその頭を地獄の釜で煮られてしまってこい」
それまでの堂々とした物言いから、人をくったような口調へと変わる。突然変わった帝の態度に、千景は見てはいけないものを見てしまったような気がした。
「三十五歳になっても貴様は相変わらずクソガキだな。騙されている民が憐れなことこのうえない」
「はっ。年齢不詳の追放者に言われたって痛くも痒くもない」
毒舌三昧の二人の舌戦に目を白黒させる千景に対して、藤子は平然としている。
「こちらが主上の素ですよ。在位前は、顔を合わせれば常にこのような応酬でした」
もっともこれは子供の喧嘩ですがね、という一言は彼女の心の中で留めて置いた。
一方、このような一面があるとは思いもよらなかったため唖然としていた千景だったが、それ以上に重要なことに気付いた。
「この男を……ご存知だったのですか」
藤子は険しい面持ちで頷く。
「知っているも何も……」
頼仁は千景を一瞥した。
「一度ぐらい聞いたことはないか? 明大帝の治世、我らが父の側近として絶大な権力を握って日本を軍事国家へ誘おうとした男だ。数多の民を犠牲にしてな」
今から二十年近く前に死去した明大帝の側近。それがこの男の正体だという。だが、それにしては年齢がおかしい。一見したところ、彼は三十前後と帝と変わらない。
千景の疑問に答えるかのように、頼仁は告げた。
「そして彼は人にあらず。異界の鬼であり、異端の神である」
「鬼であり、神…………!」
あまりにも信じがたいことに千景は絶句した。確かに帝は神の子孫だと言われている。だが、実際にそう言われても信じられなかった。
「驚くなよ、千仁。貴様も同類なんだからな」
千仁、と焔は呼んだ。この者は何もかもを知っていたのか。千景が皇族であることも、橘家に引き取られたということも。
だが、帝と藤子が反応したのは別の箇所だった。
同類。
その一言に帝と藤子の鋭い視線が突き刺さった。
「どういうことだ……」
微かに頼仁の声が震えていた。常に余裕のある面持ちが今、明らかに強張った。
焔は口の端を釣り上げた。
「そう言えば、てめえには昔、教えてやったことがあったな。常世の国に存在する『
「──千景を、鬼にしただと……!」
今度こそ頼仁は驚愕した。
一方の千景は、己の異常な能力の正体をようやく理解した。
筋肉の増強、並外れた治癒能力。もはや千景は本当に人間ではなくなっていたのだ。
「ああ。もう七年も前にな」
「七年前……」
千景は今言わなければならない、と思い、喉に絡まる声を必死に張り上げた。
「この男が、例の修験者です」
それを聞いた頼仁の瞳に、鋭い殺気が宿った。握りしめた手の平に爪が食い込む。
「頼仁様、今は抑えて下さい」
藤子は囁いた。それを受け、頼仁は渾身の精神力で怒りを身の内に抑え込む。
そんな彼らをからかうように軽い口調で焔は告げる。
「さぁて。どれほど成長したのか一度手合せ願いたいが、そうもいかないようだな」
焔は千景を見下ろした。
「遥仁は貴様の心の掛け金であり、楔でもあるのだから。死なれちゃ困る」
「死ぬ?」
その言葉に千景は戦慄した。
「このままでは確実にな。何しろあちらは死者や生まれる前の魂が集う世界だ。現世を生きるために与えられた人間の器は、本来ならば神の庇護なくしてその世界へ足を踏み入れることは叶わねえ。たとえ神の血筋を引く貴様ら皇族でも、神の庇護下を離れれば存在そのものが消滅するだろう。人間は呼ばれない限り、あちらへは行けない」
焔はもう一度繰り返す。
「人間では、な」
そそがれた双眸は千景を真っ直ぐに捉えていた。
千景はその瞬間、言葉に含まれた意味を全て理解した。
「鬼、ならばそこへ行けるんだな」
千景は今だけはこの男に抱いていた恐怖心や憎しみをかなぐり捨てた。
「私をそこへ連れて行け……!」
◇
「お兄様、お兄様。しっかりなさって下さい!」
妹の声に揺すられて、耀仁は何とか意識を覚醒した。
目を開けて真っ先に飛び込んできたのは、蝋燭の光にぼんやりと照らされた撫子の顔だった。
「……撫子?」
「良かった、お兄様……」
耀仁が目覚めたことに安堵した撫子は、大きく息を吐いた。
「ええと……」
耀仁は起き上って現在の状況を確認した。
ここは先程遥仁と共に歩いていた廊下だ。どうやら廊下の中心で倒れていたらしい。
だが、意識が消失する直後に感じたのは異界の風だった。
遥仁と二人そろって神隠しに遇いそうになったところ、自分だけはじき出されたのか。
「遥仁は還って来た?」
「彼ならば、異界にて連れ去られたそうだ。しかも今回は神隠しではなく、別の者に」
撫子の後ろで様子を伺っていた帝が努めて平静に告げる。
だが、その冷めた瞳に耀仁はぞっとした。父がこれほどまでに冷徹な瞳をしたことがあっただろうか。
「……何か、あったのですか」
頼仁は、その問いには答えずに己の手の平をじっと見つめた。
「今、千景が助けに行っている」
その手の平には握りしめすぎて爪が食い込み、血を流した痕が残っていた。帝に血の穢れがあってはならない。見えないように何とか誤魔化さなくてはならない、と頭の片隅でそう思った。
世間から崇め奉られている帝という至高の存在。
だが、この傷跡が示すように彼は神の血を引いているとはいえ人間なのだ。
彼らと、違って。
「……一体何が起こっているんだ」
誰にでもなく頼仁は問い掛ける。
突然動き出したさだめの輪。神に呼ばれたはずの遥仁が連れ去られたなんて、何者かが天意の邪魔をしているとしか考えられない。
帝は身を翻すと、動き出した。
「神々に祈りを捧げ、助力を懇願する。撫子、力を貸してほしい」
指名された撫子は、落ち着いた瞳で独り言のように口にした。
「……お二人がこちらの世へお還りになれば、皇太子の座は千仁様のものとなるのですよね」
「そうだ」
帝は頷く。撫子が何を考えているのか感付いた耀仁は、撫子の手を握りしめた。
「僕からも頼む。あの二人を助けてほしい。僕には、何も出来ないから……」
撫子は握られたその手に目を落とすと、愛おしげにそっと触れた。
「お兄様が案じることはありません」
撫子も耀仁も、千仁という従兄の存在はずっと前から知っていた。幼少期に出逢ったことのある耀仁はともかく、撫子はずっと彼が可哀想な存在だと思っていた。凋落した彼が何を考えて弟に仕えているのか、彼女にはまったく理解出来なかった。
そんな彼が、次期帝になるなど彼女の中で受け入れられない。だが。
「確かに、私はお兄様の方が人の上に立つ者として相応しいと思っていますが、彼らを蔑ろにしたいわけではありません。必ず、彼らを現世へと還していただけるよう、神に誠心誠意お願い申し上げます。それが、私の役目です」
撫子はそうきっぱり告げると、父の後を追った。
撫子は皇女であるがゆえ、巫女の役割を担うことが出来る。
神は男よりも女の方がその身に降ろしやすい。神との意思疎通に彼女の存在は不可欠だった。そして彼女は、それが自分の天から与えられた役目であると信じている。
しかしそれを決断した帝の胸中は複雑だった。
神の意識は人間より大きすぎるために人間の器に無理を生じさせるのだ。それは撫子の寿命を縮めるものとほぼ同義だった。
かつて彼は国家の安寧のためならば、何を犠牲にしてもかまわない、と思ったことがある。己の手を血に染める覚悟すら出来ていた。だがその名目ためであっても娘を利用することは、身を斬られる思いがした。
◇
どこまでも白い霧が立ち込める中、千景と焔はひたすら前へ向かって進んでいた。
御所の廊下を進んでいたはずが、いつのまにか板張りの廊下は乾いた地面に変わり、壁も霧へと変わっていた。枯れかけているような瑞々しさのない木々が生い茂り、行く手を阻むように感じた。
枝に引っかかるため二人とも烏帽子は取り外し、髪は無造作に降ろしていた。
ここは現世でいう地獄にあたる所だという。その情景を見て千景は納得した。確かにこの大地は酷く荒んでいる。心なしか周りの気に熱がこもっていて、息苦しかった。
「わっ!」
地面の一部が突然崩れて小さな穴が出現した。落ちそうになった千景を焔は反射的に掴んだ。
「気を付けろ。地獄の釜に落ちたぐらいじゃ死なねえが……地獄の業火で炙られると、鬼でも死に至る」
最下層はあらゆる罪を浄化する炎が広がっているという。
それを聞いた千景はこの息苦しさの理由を理解した。この白い霧は地下から湧きあがっている煙だ。
炎で焼かれた魂は煙となり天界へ向かう。ならばこの煙は人間の魂なのかもしれない。
記憶の狭間で燃え盛る紅桜院の屋敷を思い出した。
千景は掴まれた腕を思わず捕らえた。
突然の行動に焔は胡乱気に見返す。
千景はそれまで考えないようにしていた、たった一つのことを尋ねた。
「……お前は何故、私達を殺そうとしたんだ」
理由を知ったところで死んだ者が還ってくるわけではない。そう言い訳して考えないようにしていた。だが、過去と向き合ってしまった今、この男を前にして聞かずにはいられなかった。
「ただ、静かに暮らしていただけだったのに。お前に殺される筋合いなんて、どこにもなかったのに……」
責める言葉に微かに嗚咽が混じる。だが絶対に泣くものか、と思った。
千景は最大限の気力を振り絞り、焔を睨み付ける。
「お前が放った炎で皆は……」
「あれは俺じゃねえよ」
「――え?」
焔は繰り返す。
「あれは俺じゃねえ。それに便乗したのは認めるが」
ぐらり、と。
帝に本当の両親を告げられた時よりも世界が大きく揺れた気がした。
「……では、あの火事は」
「火を放ったやつの顔、見せてやろう」
焔は何もないはずの空間に、手をかざし、不意に現れた炎を放った。
ぼう、と揺らめき、そこに一つの景色が映し出された。真っ暗な廊下だった。廊下の造りなどどこもあまり変わらないものだが、それはかつての紅桜院の一角だということがわかった。そこに燭台を持った一人の人物が、しずしずと床を滑るようにやって来た。
その人物は音も無く床に点々と油を垂らし、蝋燭をぽっと落とすと小さな炎が徐々に燃え広がっていく様を眺めていた。
そこに映し出された姿を見て、千景は愕然とする。焔の救いのない言葉が千景をがんじがらめにした。
「炎を放ったのも、今遥仁をさらったのも一人の女の仕業だ」
それは、千景が母と慕った最愛の人。
「母上……どうして……」
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