第6話 真実

 千景は七年ぶりに今上帝と対面していた。


 年を重ねた帝の精悍さは増し、圧倒的な存在感も変わりはない。凛とした瞳は撫子とよく似ている。

 千景は昔から彼が苦手だった。尊敬奉っているし、崇めるに値する存在だと思っている。

 だが、その超人的な魅力というか、人を惹きつける力を兼ね備えたその性質が、どうしても自分と相容れないのであった。

 遥仁もその性質を持っているが、どちらかというとそれは安心感の与えるもので、今上帝とは何かが決定的に違っていた。


 帝の日常の住まいである御常御殿までは遥仁と共に通されたが、その後は別々の部屋へと案内された。

 最も格式の高い上段の間が帝の御座所。

 中段の間には皇后藤子が座っている。

 そして千景が下段の間。

 冷静に考えてみれば、末恐ろしい状況である。相当の高貴なる身分の者でも、一対複数の皇族と対面することはまずないであろう。

 帝の御前ということで用意された衣装だったが、じっとりと汗ばむ。

「久しぶりだな、千景。最後に会った時、竹刀で対峙したのを、昨日のことのように覚えている」

 六畳分の距離があるというのに、帝の声はすぐ傍にいるように千景の耳に響いた。

 その記憶は出来れば思い出してほしくはないのだが、そんなことは言えない。

 平伏していた千景は考えていた挨拶を口にしようとした。

 が、緊張で頭が真っ白になる。

 準備していたものが全て記憶の彼方に飛んでしまい、固まった千景を見かねた藤子は声をかけた。

「面を上げなさい」

 言われた通りに顔を上げると、帝と正面から目が合った。

 気後れして思わず顔が引きつる。

 呼吸を必死で整えようとしたが、かえって速くなるばかりであった。

 だから、千景は気が付かなかった。自分の顔を見た帝が微かに驚愕したことを。

 それを誤魔化すように帝は一つ咳払いをした。


「──七年間、ずっと聞きたいことがあった。先代の帝を始め、幾人もの死者が出た紅桜院の変についてだ。不審な点がいくつもあり、いずれもはっきりしたことがわかっていない。それについて問う。いいな?」

 千景はぎこちなく頷いた。

「まず、極秘とされているが、あの火事は放火というのが宮内省側の見立てだ。詳しく調べた結果、火の手は使用人の部屋のある棟から上がったのではないか、と言われている。それについて何か知っているか」

 使用人の部屋のある棟、ということは千景や母が寝起きしていた所だ。

 だが、実際にどこから出火したのか千景は知らなかった。千景は首を振った。

「次に。あの屋敷の中にはどう考えても他殺と思われる遺体があった。それはお前の母親だった橘梨子」

 母の名を聞いて、千景の体は震えた。

 心臓を貫かれ、殺された母。ずっと自分の中で封印していた母の最期の姿が呼び起された。

「何故彼女は殺されたのか。一体誰に殺されたのか。千景はどこまで知っている」

 千景は答えられなかった。母の殺された瞬間の記憶が千景の胸をひどく締め付け、今までとは違う動悸がして息をすることすら苦しかった。

「これは最大の疑問だ。千景、どうしてあの火事から逃げ延びた後、消息を絶ったのだ? 何故、あれほど長い間隠れ住んでいたんだ。まるで、後ろ暗いことがあるかのように」

「…………それは……」


 あらかじめ考えていた答えを口にしようとした瞬間、今までの質問の内容から、千景は自分にある疑いがかけられていることに気付いた。

 千景が火を放ち、母を殺し、幼い遥仁をさらって逃げたという可能性。

 冗談じゃない、と千景が拳を握りしめた。

 今までの暮らしを壊され、母を殺され、あげくに人間から化け物にされてしまった。

 そして、本来ならば大切に養育されるはずだった遥仁を奪おうとし、籠の外へと追い出したあの男の業を。

 何故被害者である自分が背負わなければならなければならないのだ、と。

「……見つかったら、殺されると思ったからです。あの男に」

 そして喉に力を込めた。

「屋敷に火を放ち、母を目の前で殺し、遥仁様をさらおうとしたあの修験者に」


 沈黙が室内に落ちた。

 日が暮れかかる室内は薄暗く、表情一つ変えない帝と皇后。

 その沈黙が不気味で、千景は漠然とした不安で一杯だった。冤罪という言葉が頭の中に駆け巡る。

「先の帝の玉体は」

 ぽつり、と彼が言った。

「始め、なかなか見付からなかった。何故なら、いるはずの彼の部屋になかったからだ」

 その情報に初耳だった千景は驚いて顔を上げた。

 帝──頼仁の目は千景を見ているようでどこも見ていなかった。彼は淡々と続ける。

「だから、私はどうにかして逃げ延びてくれたと思っていた。お前達、共々。どこかで生きてくれているのならば、それで良かった。他に何もいらなかった。……しかしそれからすぐに、離れた広間で皇太后と亡くなっている御姿を発見して、残されたのは絶望だった。……もし、それが他殺なのならば、私は兄を殺した者を赦さないと思った。たとえ身内でも」

 それまで先の帝と言っていたところを兄、と。思わずそう言ってしまうほどに、彼は激しい感情を胸に秘めていた。しかしそれに気付いたのは妻である藤子だけで、表面上彼は冷静を装っていた。

「だが、私はそれ以上に真実を知りたい。あの日、何が起こったのか。千景と遥仁の身に何があったのか。──話すのだ、ありのままに」

 頭の中に直接響いたような感覚に、千景の背筋はおのずと伸びた。

 それから千景はあの日の記憶を辿った。あまり思い出さないようにしていた出来事を。


 あれほど濃厚な出来事だったというのに、話すのにさほど時間がかからなかった。途中、母が殺された時のことを話す時は声が震え、うまくまとまらなかったが、二人は急かすことはなかった。だが、どうしても得体の知れない実を食べたことを話すことは出来なかった。余計に懐疑的な目で見られそうで。信じがたいことだったのだ。

 二人で尼寺に身を寄せたところで話は終わった。

 帝は脇にいた従者を呼び、今の話を記録した用紙にざっと目を通した。確認が済むと彼らを下がらせた。

 母を殺されたところから、修験者から遥仁を連れて逃げた、というくだりの間が帝は妙に気になった。だが、彼はあえてそれを追及しなかった。今それを問えば、千景は頑なになるということがわかっていたからだ。むしろ帝は千景を懐柔する方を選んだ。

「その修験者について調べ上げたいが、随分と時間が経っているからな……」

 頼仁は藤子に視線を送ると、彼女は口を開いた。

「その者が修験者だとは限りません。こちらの情報を錯綜させるために、わざとそのような格好をしていた可能性もあります。私ならば──何の意図もなしにそのような目立つ格好は致しません」

 藤子の鋭い指摘に帝は頷いた。

「そうだな。このまま迷宮入りするかと思われたが、千景のおかげで大きく進展をした。礼を言う」

「そんな……私は、何も出来ませんでした……今に至るまで真実をお話することも。私が勇気を出して、こちらへと赴いていたら、もっと、有力な情報をお話出来たかもしれませんのに」

 帝の狙い通り、千景の言葉数が少しずつ多くなっていく。

「私としては、遥仁と共に生きていてくれたことの方が嬉しい。私の大切な甥であり……先代の忘れ形見なのだから」

 千景は今上帝と泰平帝の仲はどのようなものだったのか知らない。ただ、お忍びで兄の療養先の屋敷へと訪れるぐらいだったから、良好だったのだろう。

 後ろ盾のない幼い遥仁を帝がどのように扱うのか、彼の本心はわからない。だが、もしかしたら、彼に託した方が遥仁はもっとずっと幸せだったのかもしれない。

 それから数回のやりとりをした千景は、先程よりも気分が落ち着いてきていることに気が付いた。


 それを見計らったように、帝は──の本題の方へと話を移した。


「千景を遥仁よりも先に呼んだのは二つの理由がある。一つは七年前の真実を聞くこと。そして、もう一つは今夜、千景に伝えなければならないことがあったからだ」

 わざわざ帝が臣下にすぎない千景に会うことを所望した理由。

 それは他の誰にも代われない役目があったためである。

「それはお前の一生をさだめるものだ。心して聞いてくれ」

 ただならぬ気配を感じ、千景はしかと頷いた。

「──今から七年前に神勅が下った」

 帝は朗々とした声で言った。

「その内容は、次期帝となる者を告げるというものだった」

 現在、帝の地位に最も近しい者は今上の長子である耀仁親王。

 だが、彼は未だ皇太子に定められていない。

 つまり天が呼んだ者とは。

「次期帝とさだめられたのは」

 心臓の鼓動がやけに煩い。

 千景の脳裏に、今頃同じ御殿の一室で待っているであろう彼の横顔が浮かんだ。


「泰平帝第一が長子。千仁ちひと親王となるはずだった千景……お前だ」


 一瞬何を言われたのか全くわからなかった。けれど彼が見詰めていたのは間違いなくその御前にいる、千景だった。



 かたん、と。

 格子を隔てた簀子から、軽く乾いた音がはっきりと響いた。


 帝が目配せするとすぐに奥に控えていた従者が動き、格子を開け放ち、向こう側へ出た。

「申し訳ありません。お話がいつ頃終わりそうか様子を伺おうと……」

 そこには固い面持ちをした撫子がいた。板敷に彼女が滑り落としたと思われる扇子が、物言わずに転がっていた。

 帝と対面するまで遥仁の相手をしていた撫子は、あまりにも時間が経っているため何かの不手際で報せが遅れているのではないかと思ったのだ。帝を待たすことは許されない。そこで自ら様子を伺おうと忍んでいた。だが、そこで予想だにしなかったことを耳にしてしまい、思わず扇子を握る手が緩み、落としてしまったのだ。

 撫子は口調こそ落ち着き払っていたものの、動揺を隠せない瞳は、真っ直ぐに父へと向けられていた。

 どういうことか、と。次の帝は兄ではなかったのか、と。言外にそう告げられる。

 帝はそれをしかと受け止めた上で、ただ一言こう発した。

「下がっていなさい」

 撫子は唇を一文字に引き締めると扇子を拾い上げ、一礼をしてその場を去って行った。



 書庫で歴代の帝の記録を見た時に、千景は今まで知らなかったことを一つ知った。

 それは泰平帝には御子が二人いたという事実だった。名は記載されておらず、夭逝したのであろうと千景は推測していた。

 だが、それが自身のことなどと、千景は夢にも思わなかった。

「私が親王であるわけがありません。私の母は橘家の者でございます」

 我に返った千景は何とかそれを言ってのけた。

 しかしある疑念が頭をよぎった。千景には何故か生まれつき父親がいなかった。

 母はその理由を話したことは一度もない。

 側室制度は既に撤廃されているが、まさか母は……。

 しかし、帝の次に放った言葉は最悪を想定していた千景を、更に地獄の淵へと追いやった。


「千景が母だと慕っていたのは本当の母親ではない。彼女は元々乳母だったのだ」


 帝は静かに説明した。

 橘梨子は女官として雪子に仕えていたが、結納を機に宮仕えを止めた。その後、再び乳母として仕えていたのだ。

 千景の当時の名は千仁。皇室から望まれた、正式なる信仁と雪子の長子だった。

 皇族の習慣で子どもは一度里子に出されることが決まっていた。そのために千仁は皇室を一旦離れた。

 元来病弱な千仁は大人になれないであろうというのが、当時の医師の見解だった。

 そのために千仁は親王宣下をされず、遥仁という跡継ぎが誕生した際に正式に皇族の身分を離れたのであった。名前もその折に皇族が代々つく『仁』の文字を外され、千景と改名した。

 父である信仁も体が弱く、帝の地位を数年で退位したために同じ苦労をかけたくないという想いもあったのだという。

 雪子が遥仁に乳母をつけなかったのは、千仁が実の母である彼女に懐かなかったから、という理由もあった。

 だが、天は千仁を次代の帝と定めた。

 人の思惑を知ることなく、帝に最もふさわしい者として指名したのだ。

 そして今上帝はそれに従うことにしたのだ。

「本日、七年ぶりに千景に会って驚いた。先代の若かりし頃にそっくりだったのだから。だが、複雑な経緯を辿っていた千景がそう簡単に立太子とすることは難しい。そこで千景、提案があるのだ。私達の養子にならないか」

 それは千景を慮って、というよりはこの国を担う帝としての責務を全うするための提案だった。

「養子となれば千景も正式に皇族へ復帰できる。その後、親王宣下を受ければよい。耀仁と千景は同い年だ。皇位を継承する順位も支障は無い」

「あなたこそが天の定めた正統なる後継者です」

 有無を言わせぬ口調で藤子が断言する。

「突然告げられて、混乱しているでしょう。けれどどうか逃げないで、向き合いなさい」

 千景は動揺しながらも、ある致命的なことに気付いてしまった。

「遥仁様が、弟……?」

 その呟きは誰にも聞こえることなく、ひっそりと吐息にまぎれて消えた。


「少し、一人にさせて頂きたいです。突然のことで、混乱をしておりますから……」

 混乱しているわりには、その口から出て来たのは驚くほど冷静な言葉だった。

 それが良かったのか、帝の許可を得て、同じ建物内の小さな一室に千景は通された。

 千景は崩れ落ちるようにその場に座ると、嫌な鼓動をする心臓を衣の上から押さえた。

 知りたくなかった。知らないままの方が良かった。

 ずっと昔に誰かは言った。お前は本当に弱い子だ、と。

 つまり、自分は弱いから親に棄てられたのだ。

 ぎゅっと目を閉じると、記憶の中の信仁上皇がまぶたの裏に蘇った。彼は、自分のことをどう思っていたのだろうか。

 何か言いたげだった皇太后。あの人は、懐かなかった自分にどんな感情を抱いていたのだろうか。

 思い出すのが怖くて、瞳を閉ざしていた。

 まるで道化だ。そう、千景は思った。

 母が優しかったのは、千景が高貴なる生まれだからだったからだろうか。

 あの優しさは──実は憐れみだったのか。

 自分が遥仁に仕えたい、と思ったあの気持ちも嘘だったのだろうか。あの気持ちは、兄弟という誤魔化すことの出来ない肉親故の感情だったのだろうか。

 それまで信じてきていたものが全て崩れ去った。

 認めたくないことばかりだった。


 ふと嫌な予感がして千景は顔を上げた。

 これを自分に話したということは、当然遥仁にも伝えられる可能性がある。

 千景は立ち上がって踏み出そうとしたところ、思わず裾を踏みよろけた。咄嗟に柱に体重を預け、大きく息をつく。

「落ち着かなければ……落ち着いて、それで……」

 遥仁に黙っていてもらえるよう願い出なければ。

 千景は足を進めた。

 頼むから遥仁には黙っていてほしかった。それは千景の最後の砦だった。

 まだ今ならば、遥仁の前ならば取り繕える。様々なことに蓋をして、今まで通りに接すれば、千景の中の何かが保たれる。

 千景は急いで帝のいる御座所へと赴いた。


 が。

 既に手遅れだった。

 御簾越しに見えた人の影。

 震えながら御簾を持ち上げて中を確認すると、先程自分が居た場所に座っていたのは遥仁だった。耀仁も遥仁に連なるようにその場に同席していた。

 ほんの一瞬漏れ聞いた単語から何を話していたのかは明白だった。

 その事実に気付いた千景は気が遠くなりそうになったが何とか踏みとどまり、代わりに湧いてきたのは怒りだった。

「何故……、何故遥仁様にも告げたのですか……!」

 突然御簾をかいくぐって怒りを露わにした千景に、帝は落ち着き払って答えた。

「遥仁も知らなければならないことだ」

「そんなこと……!」

 千景は誰の許しも得ず、中段の間に踏み入った。

 咄嗟に動こうとした従者の者を帝は手をかざして止めた。

 そしてゆったりと立ち上がる。背丈は帝の方が高く、自然と千景は彼を見上げるかたちとなる。

「勝手なことをしたと思っている。私を罵るなり好きにすればいい。不敬罪は問わない。だが、こうでもしないと千景はいつまで経っても、現実から逃げようとするだろう?」

「────っ!」

 図星を指され、絶句する。

 その言葉に反応するように、千景は拳を握り固めた。

 本当に手をあげようと思ったわけではない。だが、やり場のない怒りが右手を振り上げた。

 だが、その腕は突然背後から掴まり身動きがとれなくなった。


「どのような理由があろうと、主上に危害を加える者はこの私が許しません。たとえ、主上御自身が許されても」

 背後から腕一本で押さえつけて、藤子は鋭い一言を浴びせた。

 押さえる箇所を的確に捉えているからだろうか。女性の細腕だというのにびくともしない。

 その気迫は尋常ではなく、冷や水を浴びせられたかのように千景は一気に冷静に戻った。

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