第5話 御所での再会

 京に都が遷都したのは延暦十三年のこと。時の帝は桓武帝であった。以後、千年以上に渡って日本の中心であり続けている。


 体調が回復したのを待って千景と遥仁は、随人と共に都へ入った。

「はあー、壮大だな」

 遥仁は都の街並みにそう感嘆の声をあげた。幼い頃は遥仁もこの地で過ごしていたが、その記憶はほとんどない。加えて街並みを散策することもまずなかったため、実質都を目にするのは初めての出来事だった。

 道は碁盤の目のように整備されており、建築は歴史と新しさが入り混じった和洋折衷の建物が並んでいる。

「明大帝の治世に、富国強兵のために大きく整備されたと言われています。御所はあちらの方角になります。元弘元年に光厳帝が即位して以降、時の帝が日々を過ごす神聖なる場所です」

「御所に戻れば自由がなくなるそうなので、今のうちに街を散策してもよいか?」

 遥仁の思い付きに付き人の者は唖然としたため、千景は慌てて謝って遥仁に先を急ぐよう促した。


 御所が近付くにつれ、築地塀に囲まれた建物が増えてくる。

 所々に堅固な門があり、目的や身分によって使用する者は異なる。両脇を衛士が固め、何人たりとも許可なしにそこを立ち入ることは許されない。

 その中に朔平門という北に面する門がある。千景や遥仁は知らなかったが、それは皇后御常御殿の正門であった。

 一行の姿に、門番が鐘を鳴らす。独特の調子だった。


 すると朔平門の正面に、門兵と共に一行の行く手を塞ぐように一人の少女が現れた。

 年齢は遥仁よりも上だろうか。凛とした強い意志を宿す瞳。整った顔立ちをしていたがどことなく張り詰めた、険しい面持ちだった。腰まで届く黒髪を両耳もとだけひと房ずつ結わえている。

 何よりも目を引いたのは彼女の着ている衣服だった。紅と黒を基調としたセーラー襟の洋装だった。日本が開国し五十年近く経つ昨今においては、洋装もそれほど珍しくなくなりつつあり、町中を歩いている時に見かけたこともあるが、この皇居の建物の造りを前にすると驚くほど浮いている。

 随人の者は少女の姿に気が付くと明らかにざわめいた。

「何故こちらに……」

「今は学院におられていたはずでは……」

「それが今朝早くにこちらへ帰って来られたそうです……」


 その少女は周りの戸惑いを意にも介さず、一行が門扉の前に到着すると千景と遥仁の前に進み出た。

「長年行方がわからなくなっていた先代の泰平帝の御子、遥仁様とは貴方のことでしょうか」

 遥仁が頷くと、少女は覚悟を決めたかのように一気に言い上げた。

「無礼を承知でお願い申し上げます。貴方が本当に遥仁親王ならば、私の名を告げて下さい。遥仁様が行方不明になられる前に呼んでいた私の名を。そして、もしもそれに答えられなければ、皇位継承権を返上していただきたく存じます」

「何……?」

 突然現れた得体の知れない少女に千景は怒りを感じた。

 遥仁が偽者扱いされたことにも腹が立つが、呼んでおいてそのように疑ってかかられるとは思わなかった。しかも幼い頃の曖昧な記憶から名前を呼べ、さもなくば皇位継承権を返上せよ、とはあまりにも無礼な仕打ちである。

「……どこのどなたか存じませんが、遥仁様と知った上でそのような口を利くならば、こちらもそれなりの態度をとらせて頂きます」

 護身のため腰に下げていた刀を、いつでも抜けるよう手をかける。

 もちろんこれはただの脅しであるが、それを目にした随人の者は真っ青になった。

 しかし彼女は全く怯まなかった。

「それはこの御方が本物の遥仁様であると証明してからにして下さい。皇位継承権を得るために、偽者が来る可能性もあります。ですから私は疑っているのです」

「お止めなさい! この方は……」

 一触即発の状態に随人の者が声をあげた。が、それよりも先に遥仁の声が響き渡る。


「千景、引け。私のために人を傷付けてほしくない」


 けしてきつい口調ではないが、周りにいた随人が思わずはっとするほど、その声に重みが伴っていた。

 千景は言われた通り、押し黙ったが、それでも厳しい視線で少女を凝視していた。

 遥仁は千景の行動を案じながらも、少女の方を向き直った。幼い頃の記憶でも、彼女に関しては確信があった。


「あなたのことは覚えております。――撫子なでしこ姉さま」


 すると、ゆっくりと彼女―撫子は険しかった面持ちを和らげた。

 その名を聞いて千景はようやくこの少女の正体に気付いた。

「……もしや、内親王の……?」

 今上帝の息女、内親王撫子。御年十四で遥仁の従姉にあたる。

「危ないところでしたね。遥仁様がお止めしなかったら、私への不敬罪で罰せられていたかもしれませんよ」

 そうして撫子は門兵に、扉を開けるよう伝えた。

 しかし千景は納得がいかない。臣下たる千景が口には出来ないが、先の行動は内親王に非があるように感じる。

 これがもし、遥仁を陥れようとする輩だった場合、即刻捕らえられても文句は言えない。


 撫子は不審げに千景を見つめた。

「あなたは……」

「娘が失礼を致しました」

 撫子が何か言おうとしていたのを遮り、既に御所へと戻っていた藤子が優美な足取りでこちらへとやって来た。皇后の姿を見て、随人の者は一斉に姿勢を正した。

 藤子は娘の非礼を詫びると、釈明をした。

「神勅があったとはいえ、皇室全体は本当に親王殿下なのか疑問に思っていた者がおりました。娘は白黒はっきりつけて、皆によからぬ噂の種をまかぬよう、自ら率先して問いただすような真似をしたのです。ですが不愉快な思いをさせたことは事実。どうぞお二人には寛大な御心をもってお許し頂きたく願います」

「千景、よいな」

 千景は黙って頷くと数歩下がった。代わりに遥仁が歩み出る。

「こちらこそ、知らなかったとはいえ、失礼な振る舞いを致しました」

 遥仁が本人であるとわかったからには何らわだかまりもないはずである。

 だというのに千景は撫子の視線を否が応でも感じていた。彼女は目を逸らすことなく、じっと千景を睨んでいる。いや、本人は睨んでいる意識はないのだろう。ただ少々きつい目付きがいやに気に障った。

 千景は極力目を合わせないように視線を下げた。


「撫子、着替えてらっしゃい。そのような格好で御所を歩いていると、皆あまりいい顔をしませんよ」

 藤子は撫子の洋装をたしなめた。

「制服の方がずっと動きやすいと思います。皇室もそろそろ古い体制を改めて、西洋の合理的な部分をもっと取り入れるべきです」

 皇女であるにも関わらず、随分と先進的な考えを持つ撫子は平然とそう言ってのけた。

 藤子はどちらかと言えば撫子の考え方に賛成であるため、特に気分を害した風もなく、面白そうに微笑んだ。

 むしろ慌てたのは藤子の後ろに並んでいた女官の方であった。

「撫子様、どうぞこちらへ」

「お召し物は撫子様がお帰りになられた時のために、と御用意しておりますので」

 撫子は最後にもう一度千景を一瞥すると、大儀そうに女官に誘われながら歩いて行った。

「何なんだ……?」

 撫子の態度に千景はそう漏らしたが、藤子は気付いていないのか女官の数人に指示を出すと二人の方を向いた。


「実は遥仁様が見付かったことはまだ公になっておらず、混乱を避けるために一部の者にしか伝えられていません。そこで、正式に発表されるまでお二人は表向き私の親類として扱わせていただきます」

「私も、ですか……?」

 意外な申し出に内心千景は驚いたが、遥仁は黙然と頷いた。

「申し訳ございませんが、しばらくのご辛抱を。いずれは正式に親王のお帰りとして、お迎えする所存でございます」

「いや、私も大騒ぎにならなくてほっとしています」

「それとお二人の主上との謁見なのですが」

 当たり前のようにすらすらと告げられたが、千景は耳を疑った。

「私まで拝謁を賜れるのですか……?」

 あまりの畏れ多さに千景は思わず眩暈がした。

 ええ、と藤子は首肯する。

「通常ならば直接のお目通りが叶わないのですが、今回は主上の強い希望により実現致しました。しかし主上は多忙故、次にお時間を作れるのが明日の夕刻となります。まことに申し訳ございませんが、しばらくの間こちらの御殿の方へと案内させます。部屋を用意させますので、どうぞおくつろぎ下さいませ」



 御所にはいくつかの御殿が分かれている。

 帝が公務を行う御殿、帝の日常の住まいである御常御殿、そして皇后と若宮・姫宮が住む御殿。

 千景と遥仁が案内されたのは、その傍に立つ飛香舎と呼ばれる御殿の一室だった。南向きの開放的な部屋で、面する庭には藤棚が見えた。襖は松の木が描かれており、高貴な客用の部屋なのだということが一目で伺いしれた。

 護身のために持っていた刀は現在、さりげなく取り上げられ床の間に飾られている。


 遥仁と同じ部屋というのは有り難かったが、はっきり言ってこのような破格の扱いは千景にとって完全に想定外だった。先程から恐縮しっぱなしで、くつろげ、という方に無理があった。

「今から緊張していたら、明日まで身がもたぬだろう。千景は真面目すぎるのだ」

 遥仁は千景の緊張をほどこうと声をかけたが、室内の隅の方で正座をしている千景の顔色の悪さはあまり変わらない。

 何しろ帝との対面が待ち構えているのだ。

「無理です。私には耐えられません。この度胸のなさは三回ぐらい生まれ変わっても治らないような気が致します」

 げっそりとやつれた顔で千景が力なく答えると。

「来世ではなく、必要なのは今だろう」

 遥仁は千景に喝を入れるように強い調子で言った。

「そもそも千景はいつもここぞという時に物事を深く考えすぎなのだ。楓様のもとへ向かう時だってそうだ。梅が咲いた、と伝えるだけで私に伝える時の何倍の時間をかけているのだ」

 予想外のところを突かれ、千景は目をそよがせた。

「……あれはまだ出逢ったばかりの頃で、その、作務の最中だとご迷惑ですし、他の方がいらっしゃると邪魔になりますし、絶対に大丈夫だと思う時まで待っていただけです。それに梅ではなく、藤の花です」

 そういえば、数日前にも楓に物事を深く考えすぎだ、と言われた気がする。二人揃って同じことを言われるなど今に始まったことではないが、非常に気の詰まる思いがした。

 遥仁のやや強引な励ましはまだ続く。

「梅でも藤でもどちらでもよい。要は自分がこうであろうと思わなければ、なることは叶わぬ。落ち着こうという気構えがなければ、落ち着くことは出来ぬのだ。落ち着けば万事うまくいく。千景は絶対大丈夫だ。自分を信じられなければ、私の言うことを信じろ!」

 ずい、と遥仁は顔を寄せた。まったくずるい言い方をする。千景が遥仁を信じられぬことなど出来るはずがないとわかっていて言っているのだ。


 だが、ふと千景は気が付いた。もしかしたらそれは遥仁が自身に言い聞かせているのかもしれない、と。いくら自分の叔父であっても、遥仁だって緊張していないわけがないのだ。

「遥仁様……」

「何だ」

 千景の目の前という至近距離で遥仁は首を傾げた。

「高貴なるお方がそのように詰め寄ってはなりません。ましてやここは御所です」

「ああ……、すまぬ。そうだな」

 姿勢を正した遥仁に千景は息をついた。

「わかりました。では、謁見の挨拶や作法を予習致しましょう。どのような会話がなされるのかも想定しておきたいと思います。備えあれば憂いなしです。あらゆる事態に対応出来るように準備していれば、私も少しは心穏やかにいられるでしょう」

「……やっぱり、真面目すぎる」

 そう遥仁はこぼしたが、彼も予習することにやぶさかではなく、むしろ積極的な姿勢を示した。

結局遥仁の迫力に気圧されるようなかたちで頷いた千景だったが、少なくとも遥仁も自分と同じなのだと思うと気が楽になった。

千景は少し考えると口を開いた。

「御所では御所ならではのしきたりがあります。ここは書物の知識よりも、御所の暮らしに慣れた者に正式な方法を伺いたいところなのですが――」


「千景?」


 絶妙な間合いで開いていた襖から、自分の名を呼ぶ声がした。呼ばれた千景は、そちらへ首を巡らせる。

 自分をこのように呼ぶ者など、今までの人生において遥仁しかいなかったはずなのだが。

 廊下にいた者と視線が交錯する。

 長身に小袖という身軽な出で立ち。やや童顔なその顔立ちに、千景は見覚えがないように思えたのだが。

「やっぱり、千景だね。久しぶり。私だ、耀仁てるひとだ」

 そう言ってほがらかに室内に入って来たのは今上帝の長子、遥仁の従兄にあたる耀仁であった。千景の記憶が正しければ、確か千景と同い年のはずである。涼しげな目元に人懐っこい笑みを浮かべる彼は、きっと誰からも好かれる人間であると想像に難くない。

「遥仁、大きくなったなあ。前に会った時はこんなに小さかったのに」

 こんなに、と耀仁は腰近くまで指をそろえた右手を下げた。

「耀仁様は千景のことをご存知なのですか」

「ああ。何度か一緒に遊んだことがあるからね」

「え、ええ? ええと」

 千景は記憶を辿ったが、申し訳ないことに覚えていない。

「あの時は素性を隠していたから。ほら、一緒に手習いをしたことを覚えていないかな」

 そう言われると、ぼんやりとした記憶が浮かび上がった。

「皇族は小さい頃は別の家に里子に出されるんだ。僕も、妹もそう。あの時は別の姓か名を名乗っていたはず……」


 突然はっきり思い出した。確かに六つか七つの頃、一時期だけ家にやって来た同い年の子どもがいた。知らない人が家に居て、子ども心に不愉快な気持ちがあった。

「申し訳ありませんでした。幼き頃のことゆえ、今の今まで思い出しもせず……」

 まさかあの少年が耀仁親王だったとは思いもよらず、失礼な振る舞いをしなかったか、今更ながら冷や汗を流す。

「そんなにしゃちほこ張らなくてもいいよ。千景は相変わらずだなあ」

「千景はどのような子どもだったのですか? 教えて下さい!」

 目を輝かせて、興味津々で尋ねる遥仁に千景は大きく狼狽えた。

「は、遥仁様……!」

「そうだなあ。本人を前にして言うのもはばかられるし、後でこっそり教えてあげるよ」

「……っ、耀仁様!」

 千景の精一杯の抗議に、耀仁は千景の耳を寄せた。

「心配するな。とってもかわいくて聡明な子どもだった、と言っておくよ」

 少なくとも可愛いは褒め言葉ではない。千景はそう思ったが、悲しいぐらい悪気のない彼にそのことを口に出せるはずもなく、二人がその話題を忘れてくれることを祈るばかりだった。



 夜、夕食の支度が出来たから来るように、と女官に言われた千景と遥仁は広間に訪れた。

そこには食事の乗った膳が四人分並べられている。

 既に耀仁はそのうちの一つを前に座っていた。

「…………」

 この状況から察するに、千景も親王らと共に食事を摂るらしい。破格の待遇である。

「私のような者にまでこのような待遇、まことに有り難く存じます」

 改めて平伏すると、耀仁は何でもないことのように穏やかに微笑んだ。

「千景も大切な客人だから、当然のことだよ。そんなに気を使わないでくれ」

 千景と遥仁は耀仁と直角になるようにして座った。当然上座に近い方へ、遥仁を座らせる。


 膳には白米の山盛りは勿論のこと、光沢のある椀に彩りよく盛られた海の幸、山の幸が品よく並んでいる。内陸に位置する京では滅多に食べられないと思われる新鮮な鯛の重ね盛り、これ以上ないほどなめらかで気泡一つない蟹の茶わん蒸し、柔らかそうに蒸された野菜の煮物、とろとろのあんかけがかかっている湯葉巻き、他にも千景が知らない異国から仕入れたと思われる料理が何品もあった。

 皇后の客人扱いとはいえ、あまりの豪勢さに千景は思わずため息が漏れた。

 何しろ寺の食事は質素の極みだったのだ。そのためか、遥仁も千景も体形は同い年の者よりも細身である。

「お寺ではやっぱり精進料理なのかい?」

 耀仁は尋ねた。ちなみに耀仁の認識する精進料理とは皇族が寺に訪れた時に用意される特別仕様の料理で、質素の極みとはほど遠いものである。だがそのことに気が付かない遥仁は頷いた。

「そうですね。野菜が中心で、肉や魚は出ませんでした。それに……」

 ふっと遥仁の面差しに暗い影が差した。

「個人的に肉は苦手なので」

 その一言に千景も苦いものが込み上げてきた。どうも、千景が斬られた現場を目撃したことが原因らしく、あの日以来動物の死骸も見るのを極力避けていた。

「そうか。苦手なら無理して食べることはないよ」

 耀仁の言葉に遥仁は明らかに安堵の表情を浮かべた。


 あと一人分の席が空いている。

 一体誰が来るのだろうか。さっきからひたすら嫌な予感しかしないのだが。

 そんなことを考えていると、廊下から人の気配がした。軽い足音。素早い足の運び。

「お兄様、撫子です」

 予感は的中した。顔には出さなかったものの、千景はげんなりした。

「来たね。入って」

 襖が開くと昼間の格好とは異なり、和装に改めた撫子が手を付くと千景と遥仁にも頭を下げた。

「お待たせして申し訳ございません」

「妹の撫子だ。しっかり者で、とても素直な子だから、どうぞ良しなに。千景と会うのは初めてかな? 遥仁とは久々の再会だな」

「はい」

 まさか二人を待ち伏せして、早々に本物かどうか問いただしたことをつゆとも知らない耀仁は、穏やかな笑顔を妹に向ける。

 そして、撫子も子どものようにひどく嬉しそうに頷いた。

 門の前で出逢った気位の高そうで、強気だったその態度との違いに千景は唖然とする。

「お二人のご無事と、本日お会い出来たこと、とても嬉しく思います。お兄様、お酌でもいたしましょうか」

 彼女のまとう紅色の小袿と相まって、撫子の花のような可憐な振る舞いだった。

 おなごとは恐ろしい、と千景は心の中でこっそりと思った。


 その後、遥仁は耀仁や撫子と共に従兄弟同士の会話を楽しんでいた。もともと人好きの遥仁は誰にでもありのままの姿で触れ合う。耀仁や撫子に対しても、それは変わらない。

 遥仁は人を惚れ込ます天性の才能があるのだろう。

 あの火事が起きた出来事を触れられるかと覚悟していたが、そのような後ろ暗い話題は出ることもなかった。千景はそれほど口を挟まなかったものの、話を振られれば無難に答え、その内容はもっぱら遥仁か寺での生活についてだったためそれほど苦にもならなかった。

 途中で千景と耀仁の幼い頃の話題を出され、遥仁が興味津々になり、千景がその場から逃げ出すという一幕もあった。何故なら千景は幼い頃、迷信のために女の子の格好をさせられていたからだ。

 こうして御所での夜は和気あいあいと更けていったのであった。



 翌日。

 千景は書庫に足を運んでいた。入室の許可を得られたため、しばらくそこで気を紛らわせることにした。目前に迫った帝との謁見を前に、全く落ち着かない。

 動悸がして、昨夜の夕食も今朝の朝食もあまり消化されていない気がする。

「……しっかりせねば、母上にも顔向けが出来ぬ……」

 誰もいない一人きりの書庫で千景は自分に言い聞かせる。

 書庫は若宮御殿から最も近い蔵の中にあった。漆喰の壁に鉄扉という防火・防水を重視した造りとなっている。そこに床から天井まで整理された書物が配列されていた。

 さすがは御所の書庫。寺の書物とは比べ物にならない。

 寺も書物の数はそれなりにあるのだが、内容が偏っている。

 仏法書などは数あれど、政治経済などの俗世間と関わるものは殆ど存在していなかった。

 それでも、月に二、三度近くの学校で教えている教師が寺へ通ってくれたため、ここ七年間の政治や経済の動向などを千景と遥仁と楓は知ることが出来た。

 楓のことを思い出す。

 これからどうなるのかわからないが、もし全てのことに関して結論が出たら手紙でも出せれば、と思う。その時に遥仁の出自についても、きちんと説明しなければならない。

 何年も黙っていて、寺を出て行く時にすら本当のことは言えなかったから、千景の中で罪悪感が残っている。

 今も彼女は御仏の前で勤行に勤しんでいるのだろうか。

 またいつか、楓と遥仁の三人で桜を見る日が訪れるだろうか。

 桜は春になれば必ず蕾をつける。美しく咲いて、儚く散り、また花をつける。

 この世のあらゆる命はそうやって何度も生まれ変わるのだ、と楓は昔教えてくれた。

 花も、人間もそうなのだ、と。輪廻の中で回り続けるさだめにある、と。

 だが、今の千景にはその約束が叶う日が来ると、どうしても思えなかった。


「ん……?」

 ふと書棚の一角に奇妙な違和感を覚え、千景は足を止めた。

 恐ろしいまでに整頓された書物の列。しかし一冊だけ横に寝かせられた状態で置かれている書物があることに気が付いた。

 何故これだけ。一つだけはみ出ているのがひどく気になる。

 千景は他の物と同様に並べようとそれを手に取った。

 頭の中で遥仁が、相変わらず神経質だなあと言う声が聞こえた気がして、頭を振った。

 和綴じの本だった。達筆過ぎてよくわからないが、皇室関係の書物らしい。

 何気なくめくると、歴代の帝の概要が書かれていた。生まれた年、在位年数、皇后の名、御子の有無、崩御した年など客観的な情報をまとめたものだった。

 神武帝から始まり、遥仁の祖父にあたる明大帝、泰平帝と続き今上帝に繋がる。

 これだけ続いた血統は世界的にみても稀なものらしい。時を重ねた歴史はそれだけで宝となり得る。

 泰平帝の覧でふと千景は目を止めた。千景の知らない情報が記載されていたからだ。

 微かに千景は目を見張った。

「──これは……」



「ただいま戻りました」

 千景が客間へ戻ると遥仁は撫子と囲碁を打っていた。それを耀仁が穏やかな眼差しで見守っている。どうやら対局は終盤に差し掛かり、遥仁の方が優勢のようだった。

 遥仁が黒の碁石を持ち、彼女の陣地へと打ち込む。

「…………」

 やがて難しい顔をしていた撫子は頭を下げた。

「参りました」

「ありがとうございました」

 勝っても驕る事なかれ。対戦した相手に敬意を払うこと。寺で徹底的に叩き込まれた作法の一つである。

「撫子が負けるところ、久しぶりにみたよ」

 耀仁の一言に撫子はよほど悔しいのか、唇を噛み締めた。どうやら年下の遥仁に花を持たせたわけではなく、本気で挑んだ結果負けたようである。

「まあまあ。次頑張ればいいのだからね」

 耀仁がぽんぽん、と妹の頭を叩くと、撫子は少し表情を和らげた。

「お二人は今も変わらずに仲がよろしいのですね」

 遥仁は盤から碁石を片しながら言った。

「御所では父とはあまり会えませんからね。私が生まれて間もなく即位をなさりましたし。だから私にとって、お兄様は父の代わりでもあったのです」

「……そうだったのですか」

 遥仁の脳裏には、今亡き信仁上皇が浮かんでいるのだろうと千景は推測した。


 上皇と皇太后が崩御されたと正式に聞いたのは、寺に逃げ込んでからしばらくしての頃だった。

 やはり幼心に悲しんでいた遥仁は、その夜布団の中で、一人で泣いていた。

 元々信仁上皇は持病を抱えていたため、それほど長く生きられないだろうと言われていたのだが、当時五歳だった遥仁が人の死をどこまで理解していたのか定かではない。

 千景もそれを聞いて辛かったし胸が痛んだが、それ以上に自分の母を殺されたことをなかなか受け入れられなかった。

 千景は自分の父の顔を知らない。

 少しでも生まれた自分のことを気にかけてくれてないだろうか、と期待したのは幼少期の頃までだった。父と名乗る人は一度も現れず、居たのは母と、年老いた母の両親と、屋敷に代々仕える数人の下働きの者だけだった。

 千景は母がいればそれでよかったから、わざわざ尋ねたことはなかった。

 父がいないから、より一層母を大事にしたいと思っていた。

 今でも思い出すのは母が生きていた頃の記憶だ。

 どうして母が、あの屋敷にいた者が殺されなければならなかったのか、思い出すのは辛すぎるから考えないようにしていた。

 理由を知ったとして、死んだ者が還ってくるわけではない。

 だから、千景はずっとあの日の記憶から逃げていたのだ。


「千景、私と一局やらないか」

 きれいに片付けた碁盤を提示して遥仁が勝負をもちかけてきた。

「緊張している今の千景ならば、私も勝てるかもしれぬ」

「遥仁様もお人が悪いですね」

 千景はそう言いつつも、碁盤の前に座った。

「……千景様はお強いのですか」

 自分を負かした遥仁の勝負を躊躇いもなく受ける千景に、撫子は今までと質の違う視線を送って来た。

「けして強くは……」

 千景は否定しようとしたが、遥仁がそれを断固とした口調で遮る。

「私よりは強いぞ。確実にな」

 それを受け、撫子の碁盤を見つめるものが真剣なものへと変わる。

「では、始めるか」

 遥仁はそう言って碁石を掴んだ。


 序盤は互角だった。互いに手の内を知り尽くしているため、どのように布石を並べていくのかはある程度の予測がついているのだ。

 耀仁は柔らかい笑みを浮かべたその瞳の奥で、撫子以上に真剣に二人の対局を見ていた。厳密に言えば、一手一手を打つ千景の様子を観察していた。

 千景はそれに気付くことなく、先程までの落ち着きのなさが嘘だったかのように対局に集中していく。

 しばらくの間、碁石を打つ音と、春の風が微かに御簾を揺らす音だけが響いていた。

 中盤に入り、戦局が分かれだした頃。

 女官が一声かけてから、客間の襖を開けた。

「遥仁様、千景様。間もなく刻限となります。どうぞご準備のほどを」

「……これからって時に」

 遥仁は心の底から残念そうな顔をしたが、仕方ない。

 逆に我に返った千景は内臓が縮み上がりそうになり、緊張は一気に高まった。

 ついに、来た。

 生唾を飲むと遥仁は立ち上がり、とん、と背後から千景の肩を叩いた。

「大丈夫だ。千景は……強いのだから」

 その自分からほど遠い一言に千景は戸惑ったように目を伏せると、はいと頷いた。

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