第4話 迎えの者
あの惨劇の夜から七年の月日が流れた。
千景と遥仁はある尼寺に身を潜めていた。
今は境内の別棟の一室を間借りし、千景は寺の使い走りをしたり、寺の一角で訳あって学校へ通えない子どもたちに読み書きやそろばんを教えたりして、日々を過ごしていた。
「先生、また明日!」
そんな声と共に授業が終わった子どもたちはわあっと一斉に帰って行った。この後は家の手伝いでもするのだろう。彼らは遥仁より少し幼いぐらいで、その表情もまだまだあどけないものだった。
二人の素性は寺の門跡の恵信尼だけが知っている。いずれはしかるべき所に伝えなければと思いながらも、誰を信用したらよいのかわからず、また伝手もなかった千景は、遥仁の素性を伝えることを相当悩んだ。当初恵信尼は驚いたものの、そのような事情ならばひとまず二人の心が安らかになるまで、こちらで静かに過ごしてよいことを伝えてくれたのだ。
筆やら和紙を片して遥仁の様子でも見に行こうと廊下を歩いていたところ、千景は背後から声をかけられた。
「千景さん」
よく知ったこの声は千景と同い年の少女で、この寺の養女となる楓(かえで)のものだった。
彼女はいずれ出家をして尼となり、この寺の門跡を継ぐ予定だ。だが、まだ修行の身であるため彼女は真っ直ぐな黒髪を背に流していた。
「お客様が来ておられます」
「客?」
千景が首を傾げると楓はええ、と頷いた。
「この寺で子供たちに読み書きを教えている先生に、お会いしたいと申されました」
「随分と唐突ですね」
千景の正直な一言にふふっと楓は微笑んだ。
「えっと……何か?」
困惑する千景に楓はさらりと答えた。
「千景さんと遥仁様ほど、唐突なお客はいらっしゃいませんでした」
「それは……そうでしょうね」
「丁度、この時期でしたね。千景さんと遥仁様が来られたのも」
あの夜、ほぼ丸一日かけて、山道をさまよっていた千景と遥仁はようやく見えた建物に藁をもすがる思いで門を叩いたのである。いつ追手が来るかもわからぬ恐怖に怯え、神経を限界まで張り詰めていた千景は、寺に入ることを許された直後、高熱を出し、楓を始めこの寺の者に看病されることになったのだ。
「……そのせいで私は出逢った頃から楓様に頭が上がらなくなってしまったのですよね……」
出逢って早々に情けない姿を見られたことを思い出し、ぼそりと千景が呟く。
「何か仰いましたか?」
楓に明るく問い掛けられて千景は慌てて言い繕った。
「いえ、もうそんな時期なら、間もなく桜も咲くだろうと思いまして」
事実、境内に存在する木はいくつもの蕾をつけ、花開くのを待ちわびていた。
「そうですね。また、遥仁様と共に花見をしましょう」
楓の提案に千景は仄かに笑った。
「それは、私もご一緒してよろしいのですか」
「もちろんです。遥仁様は千景さんを本当に信頼していますもの。きっと傍に付いていらっしゃるのが当たり前なのですよ」
もはや二人はただの主従関係以上であると楓は確信していた。千景はあくまで遥仁に仕える者だと言い張るが、二人の絆はそれ以上のものであった。
千景を訪ねてきた客は女性らしい。数人の従者が付いていたのだとか。始めは普段教えている子どもの母親だろうか、と千景は考えていたが、従者が付いていたとなればそれなりの身分の者である。
一体誰だろうか、と難しい顔をしていたところ、楓に笑われた。
「千景さんは物事を深く考えすぎですよ。そのような顔をしていたら、お客様がびっくりされます。遥仁様と接する時のように、どうぞ柔らかく笑って下さい」
「そうですね……」
見ず知らずの人に笑顔で受け答えできるほど千景の愛想はよくないが、楓に言われた通り、極力表情を強張らせないように千景は努めた。
客間に着くと、楓は襖越しに声をかけた。
「お待たせ致しました。千景様をお連れ致しました」
そうして襖を開ける。
部屋の中央には一人の女性が単座していた。
質素な身なりをしているが、その着物は上等であることが一目で伺える。柔らかい目元に線の細い美貌は、どこかおぼろげな印象を与えた。やや癖のある髪を腰よりも長く伸ばし、市女笠を手元に置いていた。
その奥、端には従者だろうか。別の女性が単座していた。
中央に座る女性は千景の姿を認めると、知己の者と出逢った眼差しで微笑んだ。
「久方ぶりですね。千景様」
そう挨拶する女性。千景はしばらく目を瞬かせてその女性を見つめていたが、それが誰なのかわかった瞬間、楓の忠告もむなしく千景の表情が完全に強張った。
「千景さん……?」
急変した千景の様子を不審に思った楓が声をかけたが、返す余裕などなかった。
「あなたは……」
印象が薄くてすぐには思い出せなかったが、間違いない。
この女性は遥仁の叔母にあたる今上帝の妻、皇后藤子(とうこ)だった。
夕刻を示す寺の鐘が鳴り響く。これを鳴らしているのはおそらく遥仁だ。彼をすぐに連れて来なければならない、と。千景は呆然とした頭で思った。
どうして彼女にこの場所がわかったのかわからない。ただ、これだけは間違いない。
彼女の来訪により、七年間の静かな生活は呆気なく終わりを迎えたのであった。
千景は一度客間を退室すると、今度は遥仁を伴って訪れた。
十二歳になった遥仁は幼さを残しながらも精悍な顔立ちで、真っ直ぐに皇后と向かい合っていた。
「お久しぶりです、叔母上。遥仁でございます。長い間、ご心配をおかけしたことをまことに申し訳なく思います」
藤子は目元を和ませた。
「随分と大きくなられましたね。その深い瞳は亡き雪子様を思い出されます」
遥仁は藤子のことを覚えているのか、緊張の中に懐古の念を混じらせていた。
「まず、嘘をついてあなた方を呼び出してしまったことを、心よりお詫び申し上げます」
藤子は品がありながらも無駄のない動作ですっと頭を下げた。
「それ以上にこうしてお二人が生きていらしたことを、本当に嬉しく思います。よくぞご無事でした」
皇后にこのように頭を下げられることに千景は非常に気の詰まる思いだった。
それは身分の違いというだけでなく、千景の中に負い目という言葉で片付けられないほどの罪悪感があったからだ。
「主上もずっとあなた方の行方を案じておられました」
藤子は淡々と説明を始めた。
「七年前、先代の泰平(たいへい)帝及び皇太后様が火事で崩御あそばしたため、周囲の者はお二人のご生存を信じることは難しい状況でした。しかし、主上はお二人が生きているという希望を持ち続けておられました」
千景は顔を上げることが出来なかった。
あの晩、遥仁を連れて千景は逃げた。あの修験者に見付かることを恐れて、誰に知らせることもなかった。
だが、千景のしたことは傍から見れば、親王を誘拐した以外の何ものでもない。
ただ、穏やかに遥仁が過ごしてくれればそれで良かった。だが、彼の出自は皇族の直系の流れを汲む。どのような理由があろうと許されることではない。
「……きっと私は、罰せられるでしょう」
ようやく振り絞ったその声に、藤子は緩やかに首を傾けた。
「何故、そのようなことをお考えになるのですか」
「私は本来ならば保護されるべき遥仁様を連れ出しました。この罪は大変重いと考えております」
「千景、それは違う。私達にはそれ以外、どうしようもなかったのだ」
遥仁は弁解したが、千景は口がうまいわけでもないし皇后相手に言い訳がましい釈明をする気にはなれなかった。
藤子は二人の様子を交互に見やると、軽く息をついた。
「やむにやまれぬ事情があったならば、酌量の余地はあります。そのように考える者もいるでしょうが、それは私の一存ではありません。どうかお二人には都にお戻りいただきたく思います。事の詳細もそこでお話し願います」
口調は丁寧だが、千景や遥仁の意見を挟む余地は一切なかった。二人が都へ行くということは既に彼女の中で決定事項となっているようだった。
遥仁はそれでも食い下がる。
「叔母上、私達はここで静かに過ごしておりました。もしも……千景にそのような疑いがかかっているのならば、どうか、見逃していただけませんでしょうか」
「それは出来ません」
きっぱりと彼女は言った。
「私はお二人を主上のもとへお連れするようにという神勅を受けました」
その言葉に千景と遥仁は思わず言葉を失った。
神勅―それは古(いにしえ)から伝わる神のお告げであり、絶対の勅(みことのり)。
そのさだめに抗える者はなんびとたりともこの世にいない。
それほどまでに神は遥仁を呼び戻そうとしているのか。
「それを拒むことは許されません。どのような理由があろうとも、私はあなた方をお連れ致します」
千景は手の平を握りしめた。
こうなることを予想していなかったわけではない。
あの修験者が来ること以上にずっと皇室の使いが来ることを恐れていた。
この寺は檀家を持たないため、俗世間と関わることは殆どない。また尼寺であるため、まさか二人がこのような所にいるとは思わなかったのか、捜索の手から免れて静かに暮らすことが出来た。
だが、天の眼を誤魔化すことは出来なかったのだ。
台所で皇后に出した茶と菓子器を下げた千景は、うっかり手を滑らせて椀を割ってしまった。
その音に気付いたのか遥仁が台所に顔を現した。台所と賓客を接待する客間は同じ建物内にあるため、何が起こったか一目瞭然であった。
「大丈夫か」
よく聞き慣れた声にも千景はびくり、と身を震わせた。
その拍子に拾った椀の欠片が指の間から滑り落ち、千景の白い肌を傷付けた。
「っ……」
痛みに顔をしかめたが、その傷は瞬く間に治り、怪我した痕跡すら残さなかった。
七年前の夜以降、千景の体は異常な再生力を保ち続けていた。
千景はほとんどの者には気付かれないよう、その能力をひた隠しにしていたが、遥仁にはそれを知られていた。それが遥仁を救うために、千景が奇妙な実を口にしたことが原因だということも。
「申し訳ありません。落としてしまいまして」
「何だ。茶碗が勝手に逃げたのかと思ったのに」
遥仁は軽口を叩いたが、千景は強張ったような笑みを浮かべただけだった。皇后の訪問に千景はかなり動揺しているということが見て取れた。
それを誤魔化すかのように千景は自嘲する。
「失敗はしても仕方がないけれど、粗相はしないように、と恵真尼様に日頃から言われておりますのに」
「今回ばかりは仕方ない。……私も平静ではいられないのだ」
遥仁の言葉に千景は驚いたように目を見張った。
「この静かな暮らしから離れてしまうのは、私も怖くて仕方がない」
でも、と遥仁は続けた。
「いつまでも逃げていては駄目なのだと思う。千景の願いとは相容れないということはわかっているけれど。それでも私は、私の意思で都に行こうと思う」
その強い思いに千景は感じ入ったようにまぶたを伏せた。
ただ千景の手をとられていた七年前から遥仁は成長した。身体的にも、精神的にも。
そして遥仁が他の子よりも聡明だということは、誰よりも千景が理解していたはずではないか。
「だから、千景も一緒に行こう。もし何か罪に問われるようなことがあれば私が助ける。どうしても助けられなかったら、共に逃げよう。あの夜のように」
その思い切った一言に千景は思わず苦笑する。
「そのような戯言はおよし下さい。私も、真実を伝えてしかるべき処分を受けた後、正式にお仕え出来るよう最善を尽くすつもりです。遥仁様のいる場所こそが私の居場所だと思っておりますから」
遥仁は安堵したように見えた。何だかんだ言っても曲がったことが嫌いな性質であるため、千景が納得した上でないと行く気にはなれなかったのだろう。
「では行くと決めたのなら、早速伝えなければならない人がいるな」
遥仁に言われ、千景は一度瞬くとああ、と思い至った。
「そうですね。恵真尼様にきちんとお話せねば……」
「恵真尼様には私から伝えておこう。千景には他に伝えなければならぬ者がおるだろう」
「え……」
いたずらっぽく遥仁は笑った。
「楓様のもとへ、それを片したら早く行って来い」
力ない足取りで法堂(はっとう)に向かうと、仏壇を前に御勤めをする楓の後ろ姿が見えた。
極力足音を殺していたのだが、楓はすぐに千景の存在に気付いたのか、顔を上げて静かに振り向いた。
千景は傍らに腰を下ろすと、悄然とした様子で床に手を付いた。
「楓様……申し訳ありません」
突然の詫びに楓は小首を傾げた。
「昼間にした約束を、破ることになってしまいました」
がっかりした楓の顔を見ると罪悪感にかられるため、千景は俯いた。
だが、こうなることを心のどこかで予期していたのだろうか。楓は穏やかに微笑んだ。
「……お迎えが来たのなら、仕方ありませんね」
彼女がどこまで了解したのかはわからない。だが、別れの時が来たのだということは、薄々感じていたらしい。
楓は数珠をそっと握りしめた。
「お二人がいなくなるのは寂しいです。ずっと一緒に過ごして参りましたもの。あの日……お二人が突然この寺にやって来られた日、今でも覚えています。それまで私は仏に仕え、花を活け、ただ何の感情もなく静かに日々を過ごしておりました。ですが、お二人と接するようになって、それまで知らなかったことを沢山知ることが出来ました」
「それまで知らなかったこと……?」
「ええ」
楓は目を細めた。
「本当に、真摯に誰かに仕えるとはどういうことなのか。千景さんは心の底から遥仁様にお仕え申しておりました。それまでただ漠然と御仏に仕えていた私にとって、そのひた向きさは大変心動かされたのですよ」
千景は慌てて首を振った。
「いえ。私は、自分を守るためだったのです。私は……私は一人で生きていくことの出来ない弱い人間です。遥仁様という盾が無ければ、誰かと向き合うことすら出来ない。そんな存在なのです」
滔々と語る千景に楓は真摯な瞳で見つめ返した。
「そんなことありません。千景さんはきちんと私と向き合って下さっています。こうして、約束を守れなかったことを詫びに来てくださいました。千景さんはけして弱くはありません。ただ、遥仁様のためならば、とても強くなられます」
少し首を動かして、楓は外の木々を見つめた。
「また来る春に桜を見ましょう。夏には蛍を、秋には真っ赤に色づく紅葉を。……いつか訪れる日のことを、楽しみにしております。待つことも、とても楽しゅうございます」
千景は息を吐きだした。その一言で救われた気がした。
同い年ながらも、その物腰や考え方は自分よりもずっと熟成したものだった。
どこか、亡き母に似た雰囲気を持つ彼女には絶対に敵わないと思ってしまうのだ。
それから千景と遥仁は寺の者に別れを告げた。
突然のことに皆は驚きを隠せなかったが、それでも心穏やかに二人を送り出した。
素性は隠していたものの、遥仁はさる高貴な身分であることは説明していたため、もしかしたらこうなることを予想していたのかもしれない。
そして藤子が訪ねてきた翌日の早朝、まだ日が昇りきらぬうちに一行は出発した。
楓は寺の門まで見送りに来て、遠ざかる姿をいつまでも見つめていた。
遥仁は何度か振り返ったが、千景は振り返ることはなかった。その姿を見かねて遥仁は何かを言いたそうな顔をしたが、千景はそれに気付かないふりをしていた。
遥仁の行く場所が千景の居場所だ。それ以外に未練などあるはずもなかったのだから。
上京する道中は、比較的穏やかなものだった。
元々皇后は表向き、ここから少し離れた所にある、一年程前の地震によって被災した地域の見舞いに訪れていた。そうでなければ、彼女が軽々しくあの寺へ足を運ぶことは叶わなかっただろう。
安全のため、用意されている輿も簡素なものだった。道程によっては身代わりの者が乗り、皇后自身も歩くことがあった。本陣で輿を乗り換えるのだと藤子は話した。
皇后や遥仁に合わせた足取りでいくつもの村や町を越えた。
町の景色を遥仁が珍しげに眺めていると、藤子が話しかけてきた。
「御所に戻れば、自由に外に出られることはなくなるやもしれません。今のうちに、たくさんの人々の暮らしや自然の美しさを愛でて下さい」
「大丈夫です」
遥仁は努めて何でもないように装った。
「ずっと隠れ住んでいたので、自由になれないことに慣れております」
本当は、遥仁は千景と共に外に使いに出たり、近くの村人と触れ合ったりすることが好きだった。だが、もうそれが叶わないことを遥仁は知っている。
自分で決めたことであるため、遥仁はそれを受け入れなければならない。
だが、藤子は遥仁の本心までわかってしまっていた。その覚悟はかつて自身も経験したことであったからだ。
藤子の静かな瞳に、さざなみが起こった。
「御所では諦めてしまえば何もかもを失います。自ら動かなければ、何も得ることはありません。どうか規則と伝統で縛られたあの空間に埋もれてしまうことのないように。これは皇室へ嫁いだ私の出来る助言です」
先程より、わずかに強い口調だった。そして彼女は微笑んだ。
「あなたの母である雪子様はそれまでの伝統に背き、乳母を選ばずに自らの手であなたを育てられました。その血を受け継いでいる遥仁様ならば、大丈夫だと私は信じております」
「母上のことをよく知っておられるのですね」
思いがけずに母の名を聞いた遥仁は弾んだ声をあげた。
「ええ」
そんな会話を端の方で千景は聞いていた。遥仁とは対照的なまでに千景はこれまでの道程を黙々と歩いていた。時折随人の者に今はどの地点にいるということを言われたが、それ以外の会話はほとんどしなかった。
話すのが苦手というだけでなく、微かに体のだるさを感じ始めていたからだった。
そしてあと一日で都に着くという宿場町で、慣れない旅と先行きの不安から疲労した千景が遂に体調を崩した。
元々病弱な体質は治ることはなく、季節の変化など些細なことで体を崩すのは当たり前だった。体調が悪いと訴えるわけにもいかず、遥仁の手前平気なふりをしていたが一目で看破され、横になっているよう命じられた。
「一日休んだところで大した支障はありません」
皇后の意向で千景はその日、本陣で養生することとなった。
藤子は一足早く京へ向かい、二人の到着を知らせるため、数人の随人を千景と遥仁のために残して昼頃には本陣を出た。
脇本陣の一室。
茵で寝込む千景の傍らで、遥仁は少し怒ったような顔で端座していた。
「……何か言いたいことがあるのならば、どうぞ」
不満ありありの遥仁の視線に耐えかねて千景はそう促した。こういう顔をしていると、遥仁も年相応の子どもである。
「千景はいつもそうだ。体調が悪いのに私に気を使って黙ってばかりいる。体調が悪い時には悪いと言え」
「……申し訳ありません。遥仁様にはなるべく嘘をつきたくないのですが、余計な心配をかけたくないと思い……」
ちなみにこのやりとりは千景が体調を崩すたびに行われているため、一種の慣習となっていた。毎度同じ内容であるため、寺の者はまあよく飽きもせず、と呆れるやら苦笑するやら各々の反応で二人の様子を見守っていた。
「千景は私のたった一人の身内なのだぞ。お前が倒れたら私が心配するのは当然のことだ」
大概は遥仁のこの一言で締められるのだが、今この時だけは違った。
千景は寂しげに笑う。
「もう私だけではありません。都に着いたら遥仁様には親戚の方が大勢おられます。そして私はあくまでも家臣の一人にすぎません。おそらくもう……今まで通りというわけにはいかないと思います」
過去に何度もあったこのやりとりも、これで最後になる。
遥仁は頷くことはなく、重いため息を吐いた。
「わかってはいるが、……寂しいな」
その一言は千景にとって嬉しくもあり、複雑なものだった。
「遥仁様、一つ約束をしましょう」
腕に力をこめて、千景はわずかに起き上がった。
「何だ?」
「楓様からお別れに匂い袋をもらいましたでしょう。私とおそろいで」
「ああ。これだな」
遥仁は袂から庵簾の柄の匂い袋を取り出した。白檀の香が室内に香る。
「これから先、私は白檀の香りしか使用しません。ですから、遥仁様も出来得る限り、白檀の香りを持っていて下さい。これは私と遥仁様が過ごした日々の絆となります」
確実に遥仁から引き離されることが、千景にはわかっていた。
遥仁を保護したとされるか、さらったと見なされるかで今後の処遇が異なるだろう、と始めの頃は思っていた。しかし、長い間共に居過ぎて忘れてしまっていたが、本来ならば、皇族と直に触れ合うなど畏れ多いことなのだ。
白檀の香りは寺の一番奥の、仏像が存在する室内の香りである。
この香りが必ずそれを思い出すのだから、どれだけ離れていても二人で過ごした日々を忘れないでほしいと千景は切に願うのだ。
それは自分のためでもあった。遥仁という支えがなければ、自分は本当に駄目なのだ。
遥仁が部屋から出て一人になった千景は小さく呟いた。
「母上……私は、私の出来ることを精一杯行ったつもりです」
千景は七年間ずっと自分の出来る限り遥仁を守り続けていたつもりだった。だが、結局は単なる自己満足だったのではないか、と思うことも多々あった。
寝返りをうつと、昔よりも伸びた髪が顔を覆い隠す。そこに隠れた表情は弱々しく、七年経った今も遥仁と違って千景の中の時は止まったままであることを窺わせた。
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