第3話 惨劇の夜
その夜。千景は母の心配をしつつ、静かに床に就いた。それほど人の多くない屋敷は夜にもなれば静寂に包まれ、物音一つ立たない。風がわずかに格子を揺らす音だけが鳴り、その音だけを耳にしつつ千景は眠りに落ちていった。
次に千景が目を覚ましたのは真夜中だった。
眠っていたところ、突如として母に呼ばれたのだ。それも、いつもの穏やかな声ではなく、緊迫した声だった。
「母上……?」
「千景さん、すぐにお逃げなさい。火事でございます」
「火事……」
日常からかけ離れた言葉に、千景は反芻する。
起き上がった瞬間、煙の匂いを感じた。どこかで炎の爆ぜる音がする。
母は千景の口元に布を当て、煙を吸い込まないように指示した。そして自分も布を口の高さで巻き付けた。
千景は母に手を取られて着の身着のまま、転ぶように走り出した。
奥の廊下はすでに炎に迫っており、予想以上の熱に千景は息苦しさを覚えた。実際に燃え盛る炎を見て、千景はようやく現実に大変なことが起こったのだと認識した。
渡殿から使用人の棟を出て、庭を走りながら千景はふとある事に気付いた。
「母上。遥仁様や、他の方々は……?」
千景の発した問いに母は何故か黙り込んだ。その態度に千景は不吉な予感がした。
「遥仁様は、ご無事ですよね?」
震える声で、もう一度尋ねる。すると母は顔を寄せ、千景を安心させるように言った。
「ええ。千景さんが、案ずることはありません」
母の答えに一瞬でも安堵したその時。
「放せ────っ!」
遠くから遥仁の叫びが響き渡った。
「遥仁様⁉」
千景は咄嗟に母の手を振りほどいて、遥仁や上皇が過ごしている奥の宮の方へと走り出した。
途中、建物の一角が崩れる音がしたが、千景は無我夢中だった。
廊下を抜け、遥仁の寝所がある建物の渡殿に近付くと、そこに人影があった。
「ようやく来たな」
昼間に邂逅した修験者がこちらを振り向く。その声を聞いた瞬間、千景は冷水を浴びたような感覚に襲われた。足が地に縫い付けられたかのように動かなくなった。
修験者の足元には、千景の母と同様屋敷に仕える女性が意識を失って倒れていた。
そして修験者の肩に担がれていたのは。
「遥仁様!」
寝間着姿の遥仁は気を失っており、千景の呼びかけに応じようとはしなかった。だが、先程の声の主は間違いなく遥仁だ。気絶をするよう何かをされたのは明白だった。
「そなたは何者だ……!」
追いついた千景の母は不審者に対し、息子を庇うようにして前に出た。
腰に差していた護身刀を引き抜く。紅の柄に細身の刀だった。そういえば。千景の記憶の片隅で一瞬だけ思い出した。母は女性でありながらも幼い頃に何度か剣を習ったことがあるのだ、と。
しかし常人ならぬ迫力を纏う修験者と対峙するには、あまりにも彼女は無力だった。
人を斬ったことのない彼女を修験者は鼻で笑うと。
文字通り目にも止まらぬ速さで修験者は彼女の前に立っていた。
千景から修験者の姿は母の影になっていてよく見えなかったが。
次の瞬間、修験者の持つ錫杖が母の胸を貫いた。
「………………え…………?」
千景が認識したのは母の背から突き出た錫杖。
感覚が麻痺してまともな反応が出来なかった。
貫通した錫杖を伝ってびしゃり、と滴り落ちる血液が千景の頬を濡らした。
母の血液が千景の身を染める。
「母上……?」
目の前で起きた惨劇に千景の時間が止まったような錯覚を覚えた。
再び時が動き出したのは、修験者が母の死体を無造作に庭に投げ捨てた瞬間だった。
「う……わああああああああ!」
母の亡骸に縋ろうとする千景を、修験者は嘲笑った。
「貴様は何のために生まれてきたんだ。鈍いし何をやっても無様で弱い。そんな人間で生まれ、一体何の意味がある」
「うるさい! 私だって、私だって……」
「私だって、何だ? 貴様が弱いから周りの者の期待を裏切り、不幸へと追いやるんだろ。そんなに弱いのならば、──誰よりも強くなれ。そうすれば貴様の母も、死なずに済んだかもしれねえのになあ!」
修験者の言う一言一言が千景の心を切り裂いていき、ついに臨界に達した。
「黙れ────っ!」
千景が袂から取り出したのは、昼間に渡されたあの包み紙だった。
千景は破るように包み紙を開くと、中から現れたのは小粒の真っ赤な実だった。光沢のある、透き通った、こんな状況でなければ見る者を虜にさせるような、真珠を彷彿させる実。
考える余裕など無かった。ただ、目の前の男が憎かった。母を殺した男が。
千景が口に含むと、それはさっと砂糖菓子のように跡形もなく溶けた。
修験者の目がきらり、と光る。獲物が罠にかかった瞬間の悦にひたる瞳だった。
だが、千景がそれに気付くことはなかった。
何故なら内側から何かが溶けていくような熱い衝撃が走ったからだ。
「────っ!」
全身の血が体内を駆け巡って沸騰しそうだった。心臓の鼓動は異常なほど速まり、千景の視界は真っ赤に染まっていた。
だが、その衝動は一瞬のことで、耐え切れなくなった千景ががくりと地面に手と膝を付くと、突如として収まった。
意識を戻した千景が再び目にしたのは、庭の桜の木の下にもたれかかるように寝かされた遥仁の姿だった。頭に上がっていた血が、遥仁の姿を見た途端すっと下がった。激情が静かに凪いでいく。
そのすぐ傍に、千景の目覚めを待っていた修験者が佇んでいた。
「遥仁様……」
「おっと、まだ渡してやらねえよ」
修験者は愉快気に笑うと、錫杖を振った。それは一瞬にして刀へと形を変えた。
背後で燃え盛る屋敷がゆらゆらとその影を照らす。
舞い上がる火の粉と、舞い散る花びら。
その境目があまりにも曖昧で、妙に現実感が無かった。
「せっかくだ。どの程度のものになったのか試させてもらう。刀を抜け、千景。もし俺に勝てたら遥仁を返してやろう」
千景は地面に転がっていた母の刀を拾い上げた。倒れている母を見ないようにしながら、その刀を両手で握る。
真剣を触ったのは初めてだった。
不思議なことにその刀は全く重くなかった。握っていても、思うように動かせる。
千景は真っ直ぐに刀を構えた。その切っ先を修験者に向ける。
握りがあまい、とよく言われた。必死で握っているのにもっと性根を入れて持て、と何度も叱られた。今ならばその意味がわかる。敵を相手に隙は絶対に見せられない。
全身から這い上がってくる震えを、奥歯で必死に噛み殺した。
一陣の風が薙ぐ。
微かにはためいた互いの髪が静かに垂れた瞬間。
「うわああああっ!」
千景が駆け出した。問答無用で刀を振りかざす。空気さえも切り裂く白刃の斬撃だった。
それは今までの千景の力からは有り得ないほどの圧倒的な速さと力だった。並みの人間を軽く凌駕する力だった。
しかし修験者は易々とその力を全て受け止めた。
「ほう……筋力は随分増強したようだな」
面白そうに笑う。
「だが、まだ弱い」
そうして修験者は拮抗していた刀を押し返すと、千景の肩から脇腹にかけて真っ直ぐに袈裟がけに斬った。
「ぎゃああっ!」
真っ赤な血が吹き出し、白い衣と地面に散った桜の花びらを斑に染めた。その痛みに耐えきれず、千景は叫び声を上げる。
だが。
その傷は見る間に塞がっていった。傷が塞がると痛みも瞬時に消えた。
「何故……」
千景は愕然として異変の起きた箇所に手を当てた。そこは斬られる前と変わらない、滑らかな肌が剥き出しになっていた。
「それはお前の手にした力の一端だ。まだまだこんなもんじゃねえ」
炎が放つ光に反射する刀を煌めかせて、修験者は傲然と笑った。
「千景……千景!」
先程の千景の悲鳴で目が覚めた遥仁は、千景の血に染まった衣を見て愕然とした。
屋敷はさっきより炎の勢いを増して燃えている。
そしてその明かりに照らされ、一方的に嬲られている千景を見て、遥仁は叫んだ。
「止めろ!」
遥仁は立ち上がり、一歩踏み出す。無謀だとはわかっていたが、体が勝手に動いていた。
その姿を視界の端で捉え、千景は血の気が引く思いがした。
ここで遥仁を巻き込むわけにはいかない。そんなことになれば、きっと自分は耐えきれない。
全ては遥仁様の御為に。
千景は叫び声をあげると、捨て身で修験者のもとへ突っ込んで行く。
そして。
わざとその左肩に刃物を受けた。
すぐに塞がる傷は、修験者の刀を巻き込んで千景の身体を再生していく。
それを確認した千景は左手で刀が抜けないようしっかり刃を掴んだ。斬れた箇所はやはり、刃を食い込ませながら再生した。
「何……?」
瞠目する修験者を余所に。
「……お逃げ下さい、遥仁様……!」
千景は力の限り声を振り絞った。
「私は……遥仁様の優しいお人柄に触れて、あなたと過ごすことが出来て本当に幸せでした……。それまで母の後ろに隠れてばかりいた私を、連れ出してくれたから……。遥仁様、あなただけは生きてほしい。だからどうか……お逃げ下さい!」
遥仁は酷く顔を歪めて首を振った。優しい彼は、自分を見捨てることが出来ないのだろう、と千景は推測した。この優しさが、今だけは憎らしい。遥仁の身を危うくするのだから。
「それほどまでにそいつが大事か、千景」
修験者は刀を持つその手を離した。
支えを失った千景は地面に倒れ込む。だが、その目を逸らしはしなかった。
「私の、命よりも」
千景は力任せに刺さった刀を引き抜いた。再生していたはずの肉が引き攣れ、痺れるような痛みで一瞬意識が混濁したが、己の舌を噛んで別の痛みを引き起こし、気を紛らわせる。
そして焔をきっと睨む。
そのまま立ち上がった千景は遥仁の手を掴むと、門へと走り出した。
炎に包まれた屋敷を抜け、闇よりも濃い暗闇の中へと突き進む。
修験者は追っては来なかった。ただ。
「随分といい面構えをしてくれた。千景、遥仁。貴様らは利用価値がある。また時が来たら、迎えに来てやるから楽しみにしてな……」
その悪鬼のような声を背中で聞きながら、千景と遥仁はただひたすら山の中を走り抜けて行った。
どれだけ走り続けただろうか。正常な感覚がとっくに狂ってしまった二人にはどこまで逃げれば良いのか、皆目見当がつかなかった。ただ、捕まったら終わりだ、と。千景と遥仁は互いに互いが殺される、という強迫観念のもと必死で逃げていた。
体力は限界を超え、もはや走っているのかよろけているのかもわからず、何度も木の根や草に足をとられて転び、泥だらけになっていた。
辺りを覆う闇が薄くなり、空が白み始めた頃。
視界がはっきりし始めたことで、何者も追って来ないと気付いた千景は倒れ込むように木々にもたれ、遥仁を抱きしめた。そうして、遥仁が無事であることを確認する。
遥仁も疲労のせいかしばらくの間は口がきけなかった。だが、握った手はずっと離さずにいた。
「遥仁様、申し訳ありません」
千景は顔を埋めたまま謝罪した。
もはや何について謝ったらいいのか、千景には心当たりが有り過ぎてわからなかったが、ただあのような恐ろしい目に合わせてしまったことが辛かった。
昼間、勇気を出して誰でもいいからあの修験者のことを報告していれば、こんなことにならなかった。夜、母としっかり話をしていれば、誰も死ぬことはなかった。
あの一瞬のすれ違いが。取り返しのつかない未来を引き寄せてしまったのだ。
しばらくの沈黙の後。
「もう、父上も母上もこの世にいらっしゃらないのだな」
ぽつり、と遥仁はそう漏らした。
千景は項垂れたままかける言葉がなかった。
確証はないが、おそらくは。あの燃え盛る炎から逃げた者は見られなかったし、修験者に殺された者もいるだろう。……千景の母のように。
だが、そうだと断言して絶望を遥仁に突き付けるのもはばかられて、何も言えなかった。
ふっと握っていた手に力がこもった気がして千景は身を起こし、ゆっくりと遥仁を見た。
遥仁の顔に涙や絶望は無かった。
「お辛くはないのですか……?」
千景は尋ねる。
痛ければ痛い、と言ってかまわない。
そう言ったのは遥仁だ。だから、どんな痛みも受け止めようと千景はそう思っていた。
だが、遥仁の口から出て来たのは予想外の言葉だった。
「……千景がいるから、大丈夫」
そうして、遥仁は泣きそうに微笑んだ。
それは決して強がりや我慢などではなく。
残酷な現実も、果てない悲しみも、全てを受け入れた顔をしていた。
齢五歳で誰よりも悲しいはずなのに、誰よりも深い心を持っているからこそ、遥仁はその全て受け止めてしまったのだ。
あなたこそ泣いてもいいのだ。辛いって叫んでもいいのだ。
そう千景は言いたかった。
けれど彼はいつか国の頂点に立つ身。帝は、簡単に人前で情を見せてはならない。上に立つ者の言動は、下々に大きな影響を及ぼしてしまうからだ。
だから今の千景は、遥仁に伝えられない。
千景自身が救われたのに、千景は遥仁を救ってやることが出来ない。
ならばせめて。千景は遥仁に跪き、頭を垂れた。
「私に出来ることは、遥仁様の命をお守りすることです。そのためには」
「いいや」
遥仁は首を振る。
「何としても二人で生き延びよう」
その言葉に千景ははっと顔を上げる。
その瞬間、静かに朝日が差し込んできて辺りの木々を照らしていた。
千景はその光を受けながら、ゆっくりと頷く。
ひどく残酷で美しい朝の光だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます