第2話 謎の男

「ばあっ!」

「うわああっ」


 突然、文机の下から現れた遥仁の姿に、千景は仰天してそのまま尻もちをついた。

 その反応に遥仁は大笑いした。

「あははは! 千景は面白いなあ」

「遥仁様、何故このような所に……」

「千景に勉強を教えてもらおうと思って。それに他の者は、こんなふうに驚いてくれないから、つまらない」

 千景は辺りを見回した。この室内には今、千景と遥仁しかいない。

 皇族にしては珍しく、遥仁には乳母がいない。遥仁の母が、自らの手で育てたいと希望したからだ。そのため、遥仁には乳兄弟といった存在がなく、あの日以降五つ違いの千景に懐くようになった。

 恐れ多い、とは思いながらも千景は嬉しかった。


「本来ならば私ではなく、もっときちんとした方から教えてもらう方がよいのですが……」

 千景は日当たりの良い所に文机を寄せると、書物を開いた。遥仁は注意する者がいないのを良いことに、千景にもたれるように座った。

「何をお知りになりたいですか?」

「この国のこと!」

「わかりました」

 書き取りに使おうと思っていた紙を、一枚置いた。そして筆を手に取る。

「この国、日本皇国は神の血を引く帝の一族が統治されていました。帝は神に祈りを捧げる存在です。この国は神によって護られてきたのです」

 遥仁は興味深げに頷く。

「今から五十年近く前……孝明帝の治世に、日本は開国。そして遥仁様の祖父にあたる明大帝の治世には、各国と渡り合うため帝の地位はさらに重要なものとなりました」

「父上の時は?」

「泰平の世は戦争もなく、様々な大衆文化が花開いた時代だと聞いております」

「父上はご病気を治すため、叔父上が帝に変わったって」

「はい。それが継平の世でございます。療養に専念するため、皇嗣であった弟宮様に譲位をされたのです。そして今、この地で静養されているのですね」

「早く父上のご病気が良くなるといいなあ」

 遥仁は呟いた。千景も詳しい病状まではわからないため、何と言ったらよいかわからず、口ごもる。


「宮様、こちらにいらしていたのですか」


 女官の声に千景は驚いた。遥仁専属の女官だった。

 彼女は遥仁と千景を交互に見て、微笑んだ。

「あらあら、お相手をして頂いたのですね」

「も、申し訳ありません」

 千景は慌てたが、女官は優美に首を振った。

「とても微笑ましい光景ですわ。やはりお二人は……」

「宮様、皇太后様が探しておいででしたよ」

 女官の声を遮るように、千景の母の声が聞こえ、背後から現れた。

 女官は慌てたように数歩下がる。

 千景の母は、宮仕えの歴が長いため、今もなお他の女官から一目置かれている。

「母上が? わかった!」

 遥仁はこっくり頷いた。そして立ち去る直前、千景にこっそり言った。

「そうだ、今度は剣術の相手をしてくれ」

「え……?」



 よく晴れた春の日の午後、千景は誰の目にも触れないように、こっそりと竹刀を持ち出して、山を少し分け入った所で素振りをしていた。

 せっかく遥仁が稽古の相手をしてほしいと言ったのだ。あの無様なままでは格好が悪かったし、遥仁の期待に応えるぐらいの力量は身に付けたい、と千景は思っていた。

 遥仁は以前に叔父にいとも簡単に負けたのが、よほど悔しかったらしい。あれ以来毎日欠かさず鍛錬を行っている。

 一方の千景は、剣術の才能がないのに加えて、無理をすればすぐに体調を崩すほど体が弱いため、よく稽古を休んでいた。

 昔から体は弱かったが、それは千景に努力して人並になれる可能性すら与えてくれなかったのだ。

「ふう……」

 他の者からしたらまだ準備運動にもならないぐらいの回数であったが、千景は一旦息をついた。

 暖かい風が吹く。

 紅桜院の桜もそろそろ見頃であった。

 休息をとった千景が、練習を再開しようと竹刀を握り直したその時。


 微かに風とは異なる葉擦れがした。千景はほんのわずかな違和感のある音に、鋭敏に反応した。元来神経質のためか、こういった音には敏感なのである。

 誰かが自分の姿を見ていたら嫌だなと思い、千景は竹刀を降ろした。遥仁だったらかまわないが、それ以外の人は嫌だ。陰で自分のことをどう見ているか、わかったものではないからだ。

 警戒しながら音のした方を眺めていたところ。


 ざわりという一際大きな葉擦れと共に、木々の影から巨大な体躯が現れた。けして大柄なわけではないが、背丈は千景の知る限り誰よりも高い。


「!」

 突然現れた見知らぬ人物に、千景は思わず固まった。

 その人物は笠をかぶり、袈裟のような衣服を纏っており、手には錫杖を握っていた。

千景が連想したのは修験者だった。

 屋敷は山の中腹に存在する。言わば周囲は自然の要塞である。最も近くの村の住人も、この屋敷に訪れることはない。

 一体何者なのかもわからず、千景は言葉を発することすら出来なかった。

 修験者は笠をずらし、その下から覗く鋭い瞳で千景を見詰めた。その虹彩は赤みの混じった黒で、血の色を連想させた。笠を動かした拍子にはらり、と髪がひと房零れ落ちた。透き通るような銀色の髪。そして整った容貌。――鬼神のごとき美(おそろ)しさだった。


「貴様は本当に弱い存在だな」


 それが第一声だった。低い声音に侮蔑の色が混じっている。千景の肝を冷やすには十分過ぎる威圧感と恐怖を与えた。

「見ていて反吐が出そうになる。本来ならば、こんな所で腐っているような器じゃねえってのに」

 一歩、修験者は千景に向かって踏み出した。

「……ひっ……」

 悲鳴にもならない声をあげて千景は下がろうとしたが、腰から力が抜けて尻餅をついた。

 その様子を冷めた目で見下ろしていた修験者は、静かに袂に手を入れた。そして指の長さ程度の、和紙に包まれた四面形の物体を取り出した。

 それを無造作に千景の足元へと落とした。

「それを拾え」

「え……?」

 何を言われたのか一瞬理解出来ず、千景は聞き返す。修験者は苛立ちを露わにして、先程よりも声を荒げた。

「いいから拾え!」

 千景は慌てて、戦々恐々ながらもその包みを手に取った。


 包みは軽かった。一見真っ平らに見えたが、よく観察するとその中に小さな粒のようなものが入っているということに気付いた。


「その中の物は並の人間とは比べ物にならねえぐらいの力を、貴様に与える」


 修験者の瞳が不気味に煌めいた。そして千景の耳元でそっと囁く。

「欲しくはねえか、その力。貴様は自分に自信がねえんだろう?」

 修験者の言葉は蜜のように千景の頭を痺れさせた。

 力。力さえあれば、何だって出来る。

 努力などしなくても、人並になれるということだ。

 そうすればもう劣等感に苛まれることも、誰かに呆れられることもない。

 だが、千景の吐息は寒くもないのに微かに震えた。

 千景は自分が思っている以上に臆病だった。

 力を望む以上に未知のものに手を出すほどの度胸を、彼は持っていなかったのだ。

 包みを見つめる千景の脳裏に遥仁の面差しがよぎった。

 自分の弱さを認めてくれた遥仁。

 痛ければ痛いと言っていい、と言ってくれた。

 千景は強さを求めたわけじゃない。

 きっと、彼の言ったことが千景の欲しかった言葉だ。

 それを臆病な自分への言い訳にして。

 千景は声を振り絞った。


「そんなもの……ほしくない」


 千景が死にそうになりながら絞り出したその返答に、修験者は白けた顔をした。

「……それが貴様の答えだというのか」

 そしてゆっくりと千景の顎をつまむと視線を合わせた。憎悪が瞳の奥で揺らめきだす。

「貴様は自分の弱さも認められねえのか。本当に──見ているだけで苛々させられる」

 殺意に近い視線を向けられ、もう限界だった。

 千景は手を払いのけ、本能的に逃げた。わき目も振らず、一目散に。足腰に力が入らず、何度もよろけてしまったが、かろうじてそこから離れるくらいの気力と体力は残っていた。

 何よりも得体のしれない者への恐怖が勝った。

「……ひっ……ひいっ……」

 口から喘ぎにもならない声が零れ落ちた。

 がさがさと木々や草木を掻き分け、必死に走る。幸い、後ろから追いかけて来る姿はなかった。


 屋敷が見えて、千景はようやくその足を止めた。

 どっ、どっ、どっ、と心臓が高鳴っている。

 千景はそれまで握りしめていた包み紙を、袂へと無意識に入れた。

 竹刀を落としてきてしまったが、とても拾いに戻る気にはならなかった。

 一気に体の力が抜けてしまい、千景はへなへなと庭の隅にうずくまった。

 今の出来事を報告した方がよいだろうか。

 だが、あの修験者はたまたま修行らしきことをしている千景を見かけて声をかけ、それに千景が過剰反応をしてしまっただけかもしれない。

 いいや、と千景は首を振った。

 ならば何故、あのような殺伐とした瞳で睨まれたのだろう。そんなに自分は目障りだったのか。

 修験者は日頃から厳しい修行をしていると聞く。あれが普通なのだろうか。

 判断がつかない。

 散漫する思考は当てにならないため千景は、母に相談しようと立ち上がりかけたその時。


「何か、あったのですか?」


 唐突に声をかけられ、千景は文字通り飛び上がった。

「ごめんなさいね、驚かすつもりではなかったのですが」

 振り返った千景は声をかけた者の姿を見て、さらに驚いた。

 渡殿に佇む可憐な女性。小柄で、小袿をまとったその人は、皇太后―信仁上皇の妻もとい、遥仁の母である雪子だった。

 彼女は遥仁とよく似た瞳で、先程から庭にうずくまっていた千景の様子を伺っていたのだ。

 千景は彼女と話したことはほとんどない。母は彼女を心から敬愛しているため、身の回りの世話をしている姿をよく見るが、千景は初めてこの屋敷に来た時に挨拶をしたぐらいでそれ以外の面識はなかった。

 今、雪子の傍にいるのは年配の付き人だけで母の姿はなかった。だから、千景はどうしたらいいかわからず、大いに狼狽えた。

「言い辛いことなら、かまいませぬ。ただ、一人でそのような所にいるので気になったものですから」

 おっとりしているように見えて、皇太后である彼女が聡いのか。それともそれほどまでに今の千景が動揺していたのか。

 千景の異変を一瞬で見破った彼女だったが、千景は頑なに首を振った。

「何でもございません」

 先程の不審人物のことを雪子に言うのは、何か間違っている気がした。

 母に報告して、それから上の者に伝えるのが筋である。

 雪子は物言いたげな瞳だったが、それ以上追及することはなかった。


 だが、その日千景が母の姿を見ることが出来たのは夕食が終わった頃だった。更にその後も何か用があるらしく、いつまで経っても部屋に戻って来なかった。

 他の者に伝えられるほど信頼関係はない。忙しいと適当にあしらわれるのが嫌なので、確実に自分の話を聞いてくれそうな人が母しかいなかった。

 母を探すためにうろうろと屋敷内を歩き回っていたところ、母は炊事場にいた。明日の朝餉の下準備でもしているのだろうか。丁度良いことに、他の者の姿はなかった。


 しかし、千景の足は途中で止まった。

 そこにいた母はひどく暗い面差しをしていた。常日頃温和で優しげな笑みを絶やさないはずの母が。一体何があったというのか。

 千景はぐっと押し黙った。

 何だか声をかけてはいけないような気がした。どうしようか逡巡していたところ、気配に気付いたのか母はゆるゆると力なく顔を上げた。

「千景さん?」

 母が静かに問い掛けた。けれどその表情は明らかに無理をしたものだった。

 千景は慌てて首を振った。

「何でもありません」

 とても言える雰囲気ではなかった。

 また明日、母がいつも通りに振る舞えるようになってから報告すればいい。

 千景は浅はかにもそう考えて、この場を去って行った。

 その心の内に何があったのかなどと互いに知ることはなかった。


 ──後に千景はこの一瞬のすれ違いを、一生悔やむ事となる。

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