第一章 それは天がさだめし者
@murasaki-yoka
第1話 夕暮れの誓い
継平(けいへい)七年。
とある山間にひっそりと佇む屋敷の中庭に、小気味の良い剣撃の音が響いていた。
石一つ落ちていない柔らかい砂地が広がる庭の中心にいるのは二十代半ばの青年と、およそ五歳の幼子。互いに道着姿で竹刀を構え、真剣に相手を見据えている。
周囲には屋敷の者が集まって、二人の稽古を微笑ましく見守っていた。
すっと子どもが息を吸うと、竹刀を振りかざして駆け出した。
「やあああああ!」
青年は口の端で笑うと、振り下ろされた竹刀を華麗に受け止めた。
子どもは奥歯を噛み締めると、更に一歩踏み込む。斜めに交差した竹刀は力の均衡でみしり、と鳴る。
しかし片や大の大人。子どもが全力でぶつかっていっても勝てるわけがない。
やがて。
「はっ!」
子どもの竹刀を握る力が弱まった頃、青年が腕に力を込めた。
「あっ!」
子どもが声をあげると同時に竹刀は宙を飛び、その勢いのまま子どもは尻餅をついた。
ひゅっ、と風をきる音がして子どもの目の前を青年の竹刀が突き付ける。
それを認識した子どもは悔しげな表情を浮かべると、口を開いた。
「……まいりました」
それを合図に周りの者は、一斉に歓声をあげ、口々に二人を誉めそやした。
青年は手を差し出して子どもを立たせると、ねぎらいに頭に手を置いてわしゃわしゃと掻いた。しばらくは悔しげな顔をしていた子どもも次第に笑顔になっていく。
そんな中、この場に似つかわしくない表情で、じっと二人を黙って見つめる者がいた。
皆から隠れるように柱の影から眺めているのは十歳の少年。
名を千景(ちかげ)という。
年の割には華奢で色も白く、少年というよりは少女の方が似合う風貌だった。
強張った表情で、どこか羨ましげに彼らを、特に子どもの方を見ていた。誰からも慕われ、愛されるその子を。
先代の帝の長子、遥仁(はるひと)親王。
彼は、いずれはこの国を背負う存在となる。臣下にすぎない千景が憧れることすらおこがましい存在だった。
そして遥仁を相手にしていた青年こそ、日本皇国一の至高の存在、今上の帝である。本来ならば滅多にお目通りが叶わないほど遠い、それこそ雲の上の人なのだが、千景の母がこの屋敷で奉公をしているため、このように遠くからそっと眺めることだけならば許されるのであった。
「剣術を見ていらしたのですか」
振り返ると、すぐ傍に千景の母が立っていた。
千景の母は元々遥仁の母である雪子専属の女官であった。子を産み、一度御所から退いたが、今年から再び屋敷に仕えることになった。
千景の母は早くに夫と離縁しているため、千景は母方の姓を継いでいる。唯一の跡取りである千景は母を心配させたくないと共にこの屋敷にやって来たのだ。
「……私は剣術は苦手です」
千景は目線を逸らすと、母にだけ聞こえるようそっと言った。
「そうですか」
母は静かに頷いた。
「けれど、見ていたかったのですね」
「…………」
本音を言い当てられ、千景は黙りこんだ。母は、千景のことならば何もかもお見通しなのだ。
「立派に戦ったな。偉いぞ、遥仁」
二人の稽古を観戦していた者のうち、上座にいた屋敷の主である男性が遥仁に声をかけた。長髪に眼鏡をかけた穏やかな風貌で、その声音は見た目通りどこまでも優しい。現在は上皇として政治の一線から退いているが、彼は先代の帝として泰平という年号を築き、その名の通り国家の和平に尽力した人物である。
遥仁の父で本名は信仁(のぶひと)といった。
「頼仁(よりひと)もこんな山奥までお忍びで来てくれたというのに、遥仁の相手をしてくれて、感謝するよ。どうも年がいってから出来た子どもは、甘やかしてしまうからいけない」
「いえ、日頃は公務ばかりなので良い息抜きになります。兄上も、息子のこのような溌剌とした姿を見ると、気持ちも晴れやかになるでしょう」
「そうだな」
信仁は帝であると同時に弟である頼仁の心遣いに、穏やかに微笑んだ。泰然自若とした兄と明朗闊達な弟、性格は異なるが仲睦まじい様子が窺えた。
頼仁はふと、隠れるようにしてこちらを伺う千景の存在に気が付いた。
「千景」
頼仁が声をかけると、千景は身を強張らせた。
「もしよかったらお前もどうだ」
帝に声をかけられた千景は完全に萎縮した。そんな千景の様子を慮り、母は頭を垂れた。
「誠に申し訳ございません。千景は大変体が弱く、主上の期待にお応えするだけの技量も力もございません」
臣下の息子に過ぎない彼にとって、その誘いは本来ならば身に余る光栄である。だが、母の言う通り千景はそれを受けられるほどの力量と、そして何より度胸がなかった。
千景は居たたまれなくなり視線をそよがせると、ふと遥仁と目が合った。
この屋敷に滞在してからしばらく経つが、遥仁と直接話したこともなければ、こうして彼の瞳に己の姿を映したこともなかった。
だが、今こうして視線がかち合った瞬間、何ともいえない感覚が千景を占めた。
言うなれば興味のような。期待をこめられた瞳だった。
千景は慌てて目を逸らした。だが、遥仁はまだこちらを見つめている。
何かしなければならなくなった千景は、おずおずと手を上げた。
「あの……」
蚊の鳴くような小さな声。だが、その声に一同は一斉にそちらを振り向いた。
皆の注目を受け、千景の心臓は縮まったが、母に促されて何とか口を開いた。
「せっかくのお誘い、拝受したいと思います……」
その言葉に母は案じるような視線を送ったが、頼仁は嬉しそうに声を弾ませた。
「よし。では竹刀はこれでいいかな。どこからでもいい。打ち込んで来なさい」
手渡された竹刀を恐る恐る握り、凛と構える帝を見上げた。
千景の表情はどこまでも弱々しく、覇気は全くない。これが試合ならば気迫の面で既に勝負はついている。
「千景」
突然信仁から声をかけられ、千景は身を震わせる。
「無理しない程度に頑張りなさい」
温かい心遣いに返事をしなければならないと思うのだが、緊張でそんな余裕はなかった。
千景も一応は剣術を習ってはいるのだが、体調不良を理由にあまり熱心に取り組まなかったため、基礎からして出来ていない。
切っ先を当て、真っ直ぐに構えたつもりだが、体の重心が偏り、腰が引けていて見るからに頼りなかった。
千景は細腕で竹刀を振り上げると、そのまま重さに身を委ねて上段に打ち込んだ。
頼仁はその動きを見切り、鮮やかにそれを捌いた。竹刀が一瞬たわむ。
「っわあああ!」
反動で千景は地面を滑るように転倒し、土埃が舞った。
始まってものの数秒の出来事だった。
予想以上に千景が派手に転がったことに、頼仁は驚いて声をあげた。
「大丈夫か!?」
「ぅ……」
地面に倒れた千景は情けない声をあげた。手にしていた竹刀は手から離れて飛んでいってしまった。ひりひりする頬を手で押さえようと触ったところ擦りむいて、血が滲んでいた。
「千景さん!」
血相を変えたのは、母の方だった。彼女は千景に駆け寄り傷の具合を見ると、直ぐ様平伏してこの場から下がることを申し出た。
「申し訳ございません、母上」
室内に下がると千景は母に謝った。そして唇を噛み締める。
帝と上皇の御前で母に恥をかかせてしまった。
周りの者も、顔にこそ出さなかったものの明らかに呆れていたことを、千景ははっきりと感じ取っていた。
「子が親の心配をする必要はありませんよ。千景さんは主上の思いに応えようとしました。それだけで、母は大変嬉しく思います」
母は息子の失態など気にした素振りを一つも見せず、千景の手当をしていた。手拭いを絞り、汚れた頬や腕を清めると、擦りむいた傷に軟膏を塗り込んだ。
千景は以前、傷口が炎症し高熱を出して命を落としかけたことがある。そのためか母は千景の怪我に異常に敏感だった。
その事を思い出し、千景はますます落ち込んだ。
「申し訳ありませんが母上、少し……一人になりたいです」
その言葉通り一人になった千景は簀子の高欄にもたれかかるように座って、ひたすら重いため息をついていた。
いつも自分はこうだ。しなくていいところで失敗をしてしまう。
その結果、母に余計な心配をさせてしまう。今日はよりにもよって帝の御前。やっぱりあんな所にいるべきではなかったのだ。
千景は腕の中に顔を埋めた。先程の事を思い出すと、ひどく胸の奥が重たかった。
陽射しがあるから温かさを感じられるものの、澄み切った空は庭のまだ蕾をつけない木と相まって、寒々しい景色を見せていた。
この屋敷の庭には桜の木が随所に植わっている。元々ここは山を切り開いた地だった。その時になるべく桜の木を切らないように建てたため、屋敷そのものは曲がりくねった造りで、屋敷のあらゆる所から桜が見えた。そのためこの屋敷は紅桜院と呼ばれている。
「ええと、千景?」
突然桜の木の背後から聞こえてきた幼い声に、千景は驚いて立ち上がろうとした。
だが勢いあまって高欄に膝を強打して、あまりの痛さに千景は涙目になった。
「っ…………」
そうこうしているうちに、高欄の傍にある階に足をかけてこちらへ上がってくる遥仁の姿が視界に飛び込んできた。
「遥仁様……どうしてこちらに……」
「さっき怪我をしただろう? 心配でな……千景、泣いているではないか! そんなに痛むのか!?」
遥仁は目を丸くして千景の傍に来るや、その顔を覗き込んだ。
「いえ……その、平気なのです」
この涙は先程の怪我とは全く関係ないということを言いたかったが、それはそれで情けない気もしたので、それ以上は何も言えなかった。
遥仁は千景の頬にそっと手を伸ばした。
触れるか触れないかの位置で遥仁は手を止め、真剣な目をして言った。
「痛い時のおまじないをかけてやろう。かしこみかしこみ物申す、痛みよ天へと出(い)でましたまえ!」
千景は驚いて目を見開いた。遥仁の年齢を考えてみれば当たり前の行動かもしれないが、それまで小さい子どもと触れ合ったことがほとんどない千景にとって、それは予想外の行動だった。
だが遥仁は真面目な顔で問う。
「もう、痛いのは飛んでいったか? 痛かったら、痛いと言っていいぞ。私だって――痛いのは嫌だ」
千景は幼い頃から我慢強い性格とはいえなかった。
我慢できずに泣いていたら、周りの大人から男は泣いてはいけない、と叱られた。そしてこの子は本当に弱い子だ、と言われた。
痛い時は痛い、と言っていいのだろうか。弱さを口に出してもいいのだろうか。
この時、千景は遥仁に何と言ったのか覚えていない。
だが遥仁は千景の言葉を真剣に聞いていた。憐れむでもなく、同情するでもなく、そのままを受け入れようとしていた。
自分の弱さを当たり前みたいな顔をして受け入れてくれた遥仁が、千景には本当に眩しかった。
遥仁が立ち去った後、そこに不器用に折りたたまれた懐紙が置かれていた。
不思議に思って手に取ると、そこには小さく切って蒸した餅を砂糖で味付けした御菓子が二つ並んで包まれていた。これは遥仁が大好物の御菓子で。
千景を元気づけるために、と置いていってくれたのは明白だった。何故なら、その懐紙をよく見ると扇子をかたどった折り方で、贈呈の意がこもっていたからだ。
じんわりと、心が温かくなっていく。
「ありがとうございます……遥仁様」
自分にはもったいなさすぎるその心遣いに、千景は嬉しさのあまり打ち震えた。
母が再び姿を現した頃にはもう日が暮れかけていた。
千景は先程の沈んだ表情とは打って変わって、簀子で一人夕日を眺めていた。
この季節は日のあるうちは暖かいものの、夕刻になれば気温は一気に下がり寒くなる。
母は奥に下がるよう促そうと口を開きかけたが、千景がその直前にまるで独り言のように呟いた。
「私は、剣術は苦手です」
不意に発せられた言葉に母はゆっくり瞬いた。
それは先程言ったことと相違ないものだった。だが。
千景は懐紙を胸の前でそっと包み込むように、けれど絶対に手放さないように両手で握りしめていた。
「それでも、あのお方の、遥仁様の役に立ちたいと思いました。今は無理でも、いつか」
そこに込められたものは先程と全く違っていた。
千景は夕日から目を離して、母の方を向いた。
弱々しさの中に隠れた強い決意に、母は瞠目した。
「その心がけは、大変立派です」
幼い頃から体が弱くて、自分に自信がない千景を母である彼女は常に案じていた。
だから、彼女は本当に嬉しそうに口元をほころばせた。
「そうです。千景さんは、千景さんの出来る事を精一杯行えばいいのです」
それは千景のことを期待しているのか、甘やかしているのか。どちらともとれる言葉だったが、あなたはやれば出来るのだ、と言われている気がして千景は嬉しかった。
今はまだ母にしか言えない願いだったが。
山の向こうへ少しずつ暮れゆく黄金色の太陽。赤く染める空。
明日はきっと、今日よりも綺麗な美空が広がっているだろう。
千景はそう信じて疑っていなかった。
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