楓の季節
「……俺ってさ、昔っからこう、君たちみたいな存在が普通に見える体質でさ」
「そうみたいね。たまにそういう人間はいるけど、割と珍しい方よね」
「うん。普通はまぁいないんだよ。だから俺ってよく『居るわけないものが見えるって言う』って、イジメられたりしてさ」
それでも誰か一人くらいは分かってくれるだろう、と淡い期待を抱いて、寛は自分の目に見えるものの話を続けた。
しかし両親も祖父母も、寛の言うそれは寂しくて構って欲しいからだろうと、まるで信じてくれなかったし、敢えてその話をしないまま仲良くなった友人に打ち明けると、一様に寛を避けるようになってしまった。
さすがにこの歳になれば、それは黙っていた方がいい事なのだと理解できるようになった。
しかし見えるものは見えるのだから、周囲と全くトラブルを起こさずに済ませるのは難しい。
見えるのがリンのような美しい妖精ばかりなら、花でも眺めるつもりで意識して素通りは出来る。
しかし明らかに事故に遭って亡くなった人の霊や、正体は分からないが薄気味悪いものも多いのだ。
彼らはこちらが見えると分かれば追ってきたりするので、どうしても追い払うか逃げるかする必要がある。
そんな寛の行動は、それが見えない人にとっては当然訳が分からない。
「でもさ、そういう俺の事、なんかミステリアスで面白いって、付き合おうって言ってくれた子がいたんだ」
「ふぅん。それで付き合ったの?」
「うん、告白してくれたのは去年でね。それからずっと付き合ってたんだ」
最初は黙っていた方がいいかと思ったが、彼女は寛が奇妙な行動を取る度にその理由を聞きたがった。
それで恐る恐る、実は他人には見えないものが見えていると説明すると、彼女はむしろ面白がった。
「今日はどんなものを見たの?」「危ない事はなかったの?」と、寛の話を信じて、しかも率先して話を聞いてくれる。
寛はやっと心から通じ合える人に出会えたと、安心して何でも話すようになった。
「でも先週、それも終わっちゃった」
「あら。怖いものでも見て逃げたの?」
「いや違うよ! もし怖いものがいたんなら、ちゃんと彼女も連れて逃げるし」
「そうね、ヒロシならそうするわよね」
寛が慌てて否定すると、リンはあっさり頷いた。
分かっているのに訊いて来るのは意地悪のつもりだろうか、と思っていると、リンは彼の肩から降りて寛の真正面、出窓の縁に腰を下ろした。
「要するに、彼女はヒロシの話なんて本気にしてなくて、面白がってただけだったのね」
「……うん。たぶん、そういう事だったんだろうね」
一週間前の夜の事だった。
その日、熱を出して大学を休んだ寛の所へ、彼女は様子を窺いにスーパーの袋を提げてやって来た。
寛がふらつく頭を押さえながら玄関を開けると、彼女の他にもう一人、小さな女の子が立っていた。
時刻はもう8時前、外は真っ暗で、子供が一人で出歩くような状況ではないし、彼女は地元民だと聞いていたので、親戚の子か何かだと寛は思った。
しかし夏用の白い袖なしのワンピースだけ、という格好で、それでは少し寒いだろうにと思って、彼女に訊ねた。
「その子は親戚の子? 上着か何か貸してあげようか、帰りが寒いでしょ?」
そう言って彼女の右後ろを手で示すと、突然彼女の顔色が変わった。
「なに……言ってるの? その子って、そこに何かいるの……?」
恐る恐る、という様子で自分の右後ろを振り返った彼女の様子に、寛はようやく、それが子供の幽霊なのだと気が付いた。
しかし彼女は、見えないものが見えるという自分を信じてくれている人だ。説明すれば分かるだろうし、怖いなら家まで送って行こう。
そう思って声を掛けようとした瞬間、いきなり頬を平手で叩かれた。
「居ないじゃない! なんにも! 何でこんな時にそんな嘘つくの!? そんなにあたしが来るのが嫌だったなら、最初っからそう言えばいいじゃない!」
顔を真っ赤にした彼女は、そう叫ぶとスーパーの袋を投げ捨てるように置いて出て行ってしまった。
そこで追いかけて謝れば、まだチャンスはあったのかも知れない。
しかし、寛には本当に見えているものだ。嘘はついていない。
それを嘘だと決めつけるほどには、彼女は自分の言葉を信じていなかったのだと、それに気が付いたショックで、寛はそのまま呆然と彼女を見送ってしまった。
「幽霊の女の子には、ごめんなさいって謝られたよ。ははっ、あんな小さい子に気を遣わせちゃってさ。お陰で成仏できたみたいだけど」
自分でもどこか不謹慎だと思いながら、寛は笑った。笑う以外に、どんな風に話せばいいのか分からなかった。
「俺のこの髭はね、彼女がちょっと伸びてくるくらいがカッコいいって言うから伸ばしてたんだ。時々は剃ってたんだけどね」
振られたショックで、丸一週間も髭を剃り忘れるとは、妙にセンチメンタルで可笑しいよな、と笑いながら続ける。
その瞬間、寛の目尻からすうっと熱を持った雫が肌を伝った。
自分でそれに驚いた寛が、慌てて目元を押さえると、リンは不意に立ち上がって、寛の前にふわりと浮いた。
「バカね、ヒロシ」
「……うん。俺が馬鹿だったんだ」
「違うわよ、そういう意味じゃないわ」
首を横に振ると、リンはすっと寛の目の前に近寄って来た。
いつの間にかその手には、一枚の楓の葉が握られていた。
視界が金の髪と白いドレスで一杯になるほどリンが近付いて来て、思わず後退りしそうになった寛の額に、今度は優しくリンの手が触れた。
「ヒロシは何も悪くないわ。分からないのに、分かる振りをして、それがどんな結果をもたらすか考えなかった彼女こそバカよ。なのに貴方に責任を押し付けるなんて、それは卑怯と言うものだわ」
真剣な顔でそう言われて、何も言えずにいる寛の額に、リンは手に持っていた楓の葉を押し当てた。
「私達が見えるせいで、そんなに苦しい思いをしてきたのに、ヒロシは今日、困ってた私達を助けてくれたわ。私達も、彼女の事も責めないで、そうやって辛抱するなんて、すごくバカ。でも私は、そんなヒロシが好きよ」
「えっ……」
思わぬ優しい言葉に、寛は思わず顔を上げてリンの目を見た。
その瞬間、額に押し当てられた楓の葉が、弾けて光の粒となって、寛の全身に降り注いだ。
「リンさん、これは一体……?」
「ちょっとしたおまじない。楓はね、美しい変化をもたらす力があるの。その力を少しだけ、ヒロシに分けて貰ったのよ」
ふふっ、と笑うと、リンはその場で森蟲のようにくるくると踊り、降り注ぐ光を寛の体にまんべんなく振り撒いた。
体に触れた光は、まるで寛の体に溶け込むように消えてゆく。最後の一粒を差し出した手の平で受けると、一度大きく瞬いた光は、寛の手の平に吸い込まれるように消えた。
一瞬で消えてしまったその光と、目の前の琥珀色の瞳とに、まるで夢を見ているような心地になって、寛は咄嗟にその姿を確かめるようにリンに手を伸ばした。
するとリンは何を思ったか、寛の人差し指の先を小さな両手できゅっ、と握り、にっこりと笑った。
「春まで大変よ、森蟲のお世話は意外と手が掛かるんだから。よろしくね、ヒロシ」
「え、あ、うん。……あの、ありがとう、リンさん」
握手のつもりなのか、掴んだ指をぶんぶん振るリンに、寛はつい、しどろもどろになって礼を言った。
そんな彼の顔を見て、リンはふと悪戯っぽく微笑んだ。
「リンでいいわ、ヒロシ。それじゃ、森蟲のお世話の仕方、しっかり教えるから良く聞いてね!」
きっぱりとした顔でそう言うと、リンは寛の返事を待つ事も無く、おもむろにレクチャーを始めたのだった。
楓の葉舞う頃 しらす @toki_t
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