第30話 神の戯れ [はなむけ]

 何度春を迎えただろう。


 康平は病院のベッドで目を覚ました。

 ぼんやりとした視界が次第に像を結び、心配そうに覗き込む娘と目が合う。


 妻には、先立たれてしまった。

 和斗と、茜にも。


 妻は七年前、肺に癌が見付かった。

 既に病状は進行していて、しばらく健康診断に行っていなかったことが悔やまれた。

 子供にも孫にも恵まれ、だから延命治療は望まないと妻が言った。

 康平は言う通りにしてやった。

 娘には反対されたし、康平も本当のところは受け入れ難かったが、ずっと康平の意見を尊重してきてくれた妻に、最期まで無理をさせたくはなかった。

 最期くらいは、妻の思う通りに過ごしてほしかった。


 入院しなければならないような体調になるまで、康平は妻と色々な場所に出掛けた。

 北海道に暮らす祖母が亡くなってからは、年に数回の家族旅行くらいでしか町から出なかった康平にとっても新鮮だった。

 たくさんの場所に行き、思い出を作った。

 娘たちや孫も、予定が合えば一緒に楽しんだ。

 

 入院生活が始まってからは、その時の写真を見ながら話をした。

 その頃、茜も体調を崩して入院していて、同室の隣のベッドにしてもらって会話をしたりもした。


 和斗と茜は五十を越えた頃、ようやく結婚した。

 それまでも五年ほど一緒に暮らしていて、てっきりそのまま同居人という関係のままでいるのだと思っていたから、籍を入れると聞いて逆に驚いてしまったくらいだった。


 子供を作るつもりはなかったようだが、結婚してしばらくすると二人は養子を迎える相談をし始めた。

 町にある施設に、気味の悪い子がいると聞いたからだった。

 その子は何もいない空間に向かって話しかけたり、怯えたりすると聞いて、確実に見えているのだろうと。

 施設の職員は、精神病の疑いがあるがどんな検査をしても問題がないのだと言った。


 それでも引き取りたいと考えている旨を話し、始めて面会した時、その少年は和斗の左腕を見て驚いた顔をした。

 そして、「団地の水神さまの気配がする」と言ったのだ。


 和斗と茜は自分たちの話をし、そして少年にも同じような、もしかしたらそれ以上の力があるのだと言った。

 少年は施設に来て始めて大声を上げて泣き、茜の腕の中で泣き疲れて眠ってしまうのだった。


 少年を引き取ってから、和斗は水神と話し、契約内容を変更した。

 和斗よりも力のある少年に、水神は一も二もなく快諾し、和斗の左腕から鱗のシルシは消えた。

 茜は力の使い方や、見えてしまっているものに対する心構えなどを教えた。

 生きている人間と死んでいる人間の区別もできないことがあった少年は、半年もしないうちに日常生活が送れるようになった。

 学校にも通えるようになり、笑顔が増えた。


 地下室の地図も役に立った。

 悪影響も受けやすかった少年にとって、気配を感じるより先に回避できることは何よりも重要なことだった。


 自分たちよりも力の強い少年に、神様が見えないか聞いたことがあった。

 少年はかなりの幽霊を見ることができるようだったが、神様には会ったことがないと言った。

 やはり怜二は特別だったのだと、和斗たちは思った。


 和斗も茜も、少年の大学進学も面倒を見るつもりであったが、少年は大学へ行かずに茜の仕事を受け継いだ。

 中学生の頃から茜の仕事を手伝っていた少年は、それ以外を職業にするなど考えられなかったようだった。


 少年は茜が懇意にしていた霊媒師たちとほとんど同じくらいの力を持っていた。

 しかし、少年が霊的な依頼に深入りすることを、茜は許さなかった。

 引き際を見極められないなら、自分の仕事を受け継がせるわけにはいかないと。


 いくつかの依頼を茜と共にこなし、少年が成人した日、茜は少年に全てを託して引退した。


 仕事は引退しても、和斗と茜は地図への書き込みを止めなかった。

 何かを見つける度に地図に書き込む。


 少年が三十歳を越えて彼女を連れてきた時、二人は我がことのように喜んだ。

 自分たちが色々と面倒くさい性格をしていたことは自覚しているので、それを見て育った彼までも捻くれてしまうのではないかと心配していたのだ。

 そんな心配をよそに、彼はしっかりした、しかもそれなりに見える女性を連れてきたのだった。


「確かに、全然違いますね、オーラが」


 始めて家に連れてきた彼女は、三人をそれぞれ見つめてそう言った。

 彼女には魂の色が見えていて、血の繋がりもその色に反映されるのだという。

 おかげで母の不貞を見抜いてしまい、悲惨な幼少期を送ったのだとか。

 他人事とは思えなかった茜は彼女の話に大いに共感し、すぐに仲良くなった。


 そうしてあっという間に時が経ち、康平の妻と茜は同じ病院に入院した。

 二人とも数ヶ月の闘病生活の後、ほとんど同時に息を引き取った。


 「女の方が長生きすると思っていたのに」と、康平と和斗は地下室で泣いた。

 子供たちに情けない姿を見せるわけにはいかないと耐えていたが、お互いの妻の葬式の後に二人で地下室に降り、声を上げて泣いたのだった。


 自分たちの両親も、妻や茜の親も看取った。

 その時ももちろん悲しかったし、ハンカチを濡らした。

 けれど、妻を、茜を亡くした悲しみはどれよりも大きかった。


 二人の魂は、もう消えてしまったのだろうか。

 それとも怜二のように、幽霊として近くにいるのだろうか。

 近くにいるのだとしたら、こんなにも大人気なく泣く自分たちを見て、笑っているだろうか、悲しんでいるだろうか。


 二人には見えなかったし感じられなかったため、気の済むまで泣くことにしたのだった。


 茜を追い掛けるように病気になったのは和斗だった。

 茜の死を乗り越えたと言いながらも、細くなった食が元に戻らず、風邪をこじらせて肺炎になったのだった。


 康平は和斗の病室に何度も見舞いに行った。

 昔の写真を見たり、思い出話をする度に、怜二や茜に思いを馳せる和斗の瞳が、あまりに遠くを見ていて泣きそうになった。


 置いていかないでほしい。


 そう何度思っただろう。

 何度口に出しそうになっただろう。


 康平には家族がいて、和斗以外にも身近な人間はたくさんいて、それでも。

 それでも和斗は特別だった。

 怜二と和斗、そして茜は特別だった。


 あの頃。

 怖いもの知らずで、毎日が楽しくて、後悔という言葉も理解せずに生きていたあの頃。

 怜二を亡くして、二人で無理やり探検して、それでも怜二には会えなくて。

 本当にあの時、怜二は一緒にいたのだろうか。

 そうだとしたら、怜二は自分たちに気付かれずに、どんな気持ちで。


「こうへい、ごめんな、おれ…………」

「和斗?」


 もうほとんど喋れなくなっていた和斗の口から、微かに聞こえてきた言葉を、康平は一言も聞き漏らすまいとベッドに近付いた。


「おまえより、さきに」

「うん」

「ごめん、でも」

「うん」

「ながいき、してくれ」

「……うん……」


 上手く笑えていたか、康平には分からなかった。

 その日の夜、子供たちに見守られながら和斗も息を引き取った。


 それから、康平は生きた。

 健康のために一日一回は町を散歩し、変な空気を感じたら和斗の子供たちへ報告した。

 きっと康平が報告なんてしなくても、彼らには分かっていたはずだ。

 けれど康平の話を迷惑がることは一度もなかった。

 いつだって地下室に迎え入れてくれて、みんなの写真が並ぶ空間で、康平は話した。


 時々その話は昔の思い出話へと姿を変えていて、自分の口が脳みそから独立してしまったように動くのを不思議に思ったりもした。

 だんだん身体が上手く動かせないようになってきて、嫌な気配も感じられなくなってきて、とうとう康平も病院へ入ることになった。


 起きている時間よりも、眠っているような不確かな時間の方が多くなって、身体中に管が繋がれて。

 廃病院で怖い思いをしたのはいつのことだったか。

 もう誰も、怖い思いはしていないだろうか。


 夢と現実と思い出の境目がどんどん曖昧になって、家族の顔すらおぼろげになって、そうして、よく晴れた日の昼間、康平は息を引き取ったのだった。



 私は病室の中にいた。

 康平から抜け出た魂をキャッチし、手のひらで転がす。


『はなむけだ』


 誰にも聞こえない言葉をぽつりと投げて、私は怜二の魂を探す。

 どうせ百年も経たずにまた産まれることはないと放っておいたので、随分と奥深くへ行ってしまっていたようだ。

 茜と和斗のものはそれほど苦労せずに見つけ出せた。


 私は四つの魂を両手に乗せ、ころころと転がした。

 魂と魂がぶつかり合い、そこから細い糸が伸びてくる。

 魂同士が繋がったのを確認し、私はそれを輪廻の渦に投げ入れた。


 新たな生を受けるまで、絆の糸が持つかどうか。

 その結果は、神のみぞ知る。


 私だけが、知っている。



【了】

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秘密の探検隊 南雲 皋 @nagumo-satsuki

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