インスタント母ちゃん

雪庭瞳

第1話

 工事現場のアルバイトで、一日中外にいた俺には、部屋はあまりにも冷たかった。寒い、寒いと手をこすり合わせながらストーブのスイッチを入れる。灯油の癖のある匂いが鼻を突いた。幸か不幸か、1Kの部屋は狭すぎる故に暖まるのが速い。


ストーブの前に陣取り、温風を一身に受けながらテレビをつけた。今日は大晦日。番組も豪華なものが多いが、俺は迷わず紅白歌合戦にチャンネルを合わせる。今年大ブレイクを果たしたアイドルグループが歌っていた。


ぼんやりと眺めながら、台所でお湯を沸かす。スリッパ越しでも床がひどく冷たい。小走りで戻り、コンビニの袋からカップ麺を取り出した。『緑のたぬき』。


 大抵の日本人には馴染み深いであろう緑のパッケージを見ていると、数少ない思い出が蘇ってきた。今と同じくらい狭い部屋。小さなちゃぶ台の上にほかほかと湯気が昇るカップそば2つ。はしゃぐ俺に笑う母。大晦日の夜は、仕事を抜けてきた母と、紅白歌合戦を見ながら緑のたぬきを食べるのがお約束だった。


 女手1つで僕を育て上げた母さんは、いつも忙しかった。俺が起きた頃にはもう家を出ていて、帰ってくるのは夜もだいぶ更けてから。それはいつでも変わらなかったが、何とか職場に無理を言って、イベントの日だけは夕食を一緒に食べてくれていた。カップ麺は一人で嫌というほど食べ飽きていたが、二人で食べる緑のたぬきは信じられないほどおいしかった。


 つゆを吸ってふわっふわになった天ぷら。母さんは、天ぷらを少しだけつゆに浸してさくさくさく、と小気味よく食べていた。短いスカートをはいて、ぴょんぴょん踊りながら歌うアイドル。のびやかに歌う大物演歌歌手。湯気の向こうには、楽しそうに笑う母さん。

楽しみだった。何日も前から、指折り数えるほど。だけど、母さんはもういない。5年前の大晦日、自宅で倒れ、そのまま目覚めることなく帰らぬ人になった。


「母さん」


 誰もいない部屋で、ぽつりとつぶやく。答える者のない声は、テレビ画面の向こうの歓声にかき消された。


 ピピピピピ……。


 不意にタイマーが鳴った。お湯が沸いたのだ。びくりと驚くが、途端に自分の腹がひどく減っていたことを思い出す。感傷に浸るのも悪くはないが、今は腹を満たしたい。いそいそとやかんを持って緑のたぬきに注ぐ。


 こぽこぽこぽこぽ……。

 ふんわりと湯気が立ち上った。昔はオーソドックスに天ぷらを入れてからお湯を注いでいたが、今は一旦出しておいてから直前に入れるのが好きだ。かりかりが少し残っているのがおいしい。


フタをきっちりとしめ、やかんを戻しに台所へ行く。ほんのわずかな時間だったが、戻ってくると違和感を覚えた。


「あれ?」


 フタの隙間から、尋常ではない量の湯気が立っていた。あっけにとられて見ていると、フタがかぱりと開き、勢いを増した煙(もはや煙と言っても過言ではない)が噴き出す。


 え?なんで?やばくない?火事?


 慌てて駆け寄るも、どうすれば良いのかわからない。とりあえず水か、と台所に戻ろうとしたとき、


「良介」


 間違えるはずのない、しかし、絶対にあり得ない声がした。そんな馬鹿な、と思うよりも速く、条件反射のように振り向く。


 いつの間にか、煙は晴れていた。小さなテーブルの前に、ちょこんと座っていた。


 ひとは、あまりにも驚くと声が出ないらしかった。ぱくぱく、と口は動くも、息だけが漏れる。吸い付いたように足が動かない。目だけがきょときょとと母さんを見つめていた。


 真っ青な俺を見て、母さんは豪快に「あははははっ」と笑った。見る人も笑ってしまうような、気持ちの良い笑い。


「なーに間抜けな顔してんの!」


「……いや、でも、母ちゃん、なんで……」


 喉がカラカラに乾いている。脳がまだ追いついていない。


「そりゃーあんたね、三十路近い男が、金なし、定職なし、彼女なしで『母さん』なんて泣いてたら心配になるに決まってるっしょ!」


 どうやら本物の母さんらしい。安定の口の悪さ、熱くなったときの北海道弁。母さんしかあり得ない。


「そば神様が可哀想に思って、あたしをちょっとだけってここに連れてきてくれたんだよ。ありがたいねぇ」


「いやいやちょっと待って、なんの神様?」


「カップ蕎麦の神様よ。それか東洋水産の社長さん」


 神様と社長ではだいぶ違うのではないだろうか。と思うもどうも調子が狂う。母ちゃんはいつもそうだ。人を巻き込んでは母ちゃん色に染まらせる。それは大変だけども、気づけば楽しくなるのだ。


「時間は3分。緑のたぬきが出来上がるまでの時間だよ。」


「え?」


 普通な顔をして言うが、かなり短い。感動の再会は案外はやく終わってしまうのか。急に焦るも、ひとつ思いついたことがあった。


「もしかして、『赤いきつね』なら5分?」


「もちろん。あたし、あんた赤いきつね好きだからそっちにすると思ってたのに」


 あーーーーーー!!!赤いきつねにすればよかったと思うも遅い。そもそも、大晦日は緑のたぬきとやけにうるさかったのは母さんだった。


「それにしても母ちゃん、なんでそんな格好してるの」


 母ちゃんは、目にも鮮やかな緑の着物を着ていた。そして、頭には、なぜかたぬきの耳がぴょこんと生えている。おまけにふさふさとしたしっぽまではみ出ていた。


「えー、CM知らないの?独身男の部屋にかわいい狐ちゃんがいるやつ。一生懸命コスプレしてきたのに」


 すぐに心当たりがあった。最近やっているCM。俺もひそかに妄想したことはある。だが、それは……、


「母ちゃん、それは今すぐ謝ったほうがいい。それは、緑のたぬきじゃなくて、ど○兵衛だよ」


 会社が全然違うではないか。


「あーーーーー!!!」


 今度は母ちゃんが叫ぶ番だった。恐る恐る着物をつまみ、上目遣いできく。


「やっぱり、着替えたほうがいいかな?」


「3分しかないんでしょー!?」


 東洋水産の社長さんが優しいと信じて、この話は置いておくことにする。くだらない一連の会話だけで、時間はだいぶ経ってしまっていた。


 しかし、いざ何かを話そうとしても、言葉が出てこなかった。あんなにも話したいことはいっぱいあったはずなのに、いざ目の前にすると何も出てこない。沈黙が流れる。


 だが、時間は有限だ。意を決して顔をあげると、母さんは微笑んでいた。


「母ちゃん、俺ね、」



 切り裂くように、ピピピピピ……という音が響いた。2分30秒の合図だ。本来なら、天ぷらを入れる時間。


「ずっと、謝りたかった。」


 母ちゃんが、わずかに首を傾げた。


「ごめん。ずっと、無理させてごめん。俺を、育てさせてごめん」


 母ちゃんが死んだあと、俺は遺品整理をしていた。そのときに、日記帳を見つけた。まめまめしくつけられたそれには、真実が綴られていた。


 母ちゃんと俺は、本当の親子ではなかった。

俺の母は、母ちゃんの姉で、生まれた俺と膨大な借金を母ちゃんに押し付けて姿をくらませた。


 大きく目を見開いた母ちゃん。どんなに苦労しただろう。姉に勝手に連帯保証人にされ、挙句の果てに甥を押し付けられる。それでも、母ちゃんはひとつも嫌な顔も愚痴もしなかった。太陽のように笑っていた。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 俺の養育費と、借金で母ちゃんは働き詰めだった。これらさえなければ、きっともっと長生きして、幸せな人生を送っただろうに。


 頭を下げると、ふわっと温もりを感じた。驚いて顔をあげると、母ちゃんが、僕を抱きしめていた。懐かしい、どこか甘い匂いがした。


「そんなこと言わないで」


「確かに苦労もしたし、大変だったよ。人生を恨んだこともある。でもね、ろくでもない姉さんだったけど、あんたをくれたことだけは、最初で最後の最高の贈り物だったんだよ」


 母ちゃんはそう言って、にっこりと笑った。


「あんたを育てられて、あたしは幸せだった。ありがとう」


 笑う母ちゃんの顔が、少しずつ透き通っていった。はっとして抱きしめる腕に力を込めるも、感触がなかった。


「母ちゃん!俺を育ててくれて、ありがとう!母ちゃんが母ちゃんで、幸せだったよ!」


 最後の言葉が間に合ったかどうかは正直わからない。しかし、母ちゃんは確かに笑った。涙を流しながら、しっかりと。


 約束通り、緑のたぬきができあがる頃には、全てが終わっていた。


 ほかほかの緑のたぬきを前に、俺は泣いた。

 いつまでも、いつまでも。涙があとからあとから流れてきて止まらなかった。


 気の済むまで泣いたあとの緑のたぬきは冷めていた。でろんでろんに伸びきったそばに、入れるタイミングを失った天ぷら。やけに堅いそれをかじりながら、いつもよりもしょっぱい汁を飲みながら、俺は自分の顔がほころんでいることに気付いた。こんなにも不味いのに、緑のたぬきは、遠い昔の記憶と同じ、幸せの味をしていた。

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