赤いきつねなんか嫌いだ!

ぺんぺん草のすけ

第1話 赤いきつねなど嫌いだ!

 一本の長いアスファルト。その両脇を数十本の銀杏並木が列をなしていた。

 そんな上り坂、一人、歩道を歩く俺の方に小さな車が近づいてきては、なにかに行き急ぐかのように形を大きくしては過ぎていく。

 ポケットに手を突っ込みマフラーで首を包む俺の目には黒縁の眼鏡。

 その眼鏡に、一枚、また一枚と黄色い命が落ちていくのがよくみえた。

 おそらく、あと数日でこの銀杏並木たちの葉っぱは全て散り終え、冷たい冬を迎える準備を始めることになるのだろう。

 そんな息苦しい坂道であったが、さらに、時折吹く冷たい風が俺の心をギュッとつかんで握りつぶそうとしていくのだ。

 とっさに、その仕打ちに足を止めてしまいそうになるのをこらえ……ぐっとこらえて空を見る。

 しかし、馬鹿みたいに空が重い。


 俺は機械油が黒く染付く手で、鼻から垂れおちる水滴をぬぐった。

 ――本当に今日も寒いな……


 そんな手にはどんよりと曇った空の色とは対照的な真っ白な輝きを放つビニール袋が一つ。

 中では先ほどコンビニで買ったばかりの緑のたぬきと赤いきつねが仲良く二つ揺れていた。

 ――ここを曲がるとやっと病院だ。


 俺の目の前には古ぼけた病院がたっていた。

 この病院の先生にはガキのころからずっと世話になっている。

 病気になったと言えば、母さんに必ずここへと連れてこられたものである。

 そのせいか今でも、この病院には何かあるたびについつい通ってしまう。

 まぁ、俺の行きつけの病院とでも言ったところだろうか。

 そんな病院の5階に、今、俺の母さんが入院していた。


 先日、馴染みの先生から珍しく呼び出しを受けた。

 先生の話では、母さんは、もう、長くはないらしい……

 末期のがんだそうだ……

 俺は、それを聞いた瞬間、目の前が真っ暗になって、何も考えられなくなってしまった。


 先生は言った。

「後は、お母さんが幸せに逝けるように笑って過ごすんだぞ……」

 そんな気配りをしてくれる先生が妙に、よそよそしく感じたのを覚えている。


 母さんは、幼い俺と弟を女手一つで育て上げててくれた。

 年子の男の子二人だぞ。

 当時、小学校低学年の俺たち。

 仲良く遊んでいたかと思うとすぐに取っ組み合いのけんかを始めたもんだ。

 だが、母さんは止めやしない。

 そんな時に限ってヤカンでお湯を沸かし始めるのだ。


 ピィィィィっっ!


 その音を合図にするかのように母さんは、賞味期限間際まぎわの安売りでしこたま仕入れたカップメンを二つ取り出して、何事もかなったかのように湯を注ぎだす。

 すぐさま四畳半の薄暗い部屋には、カップメンのおいしそうな香りが漂った。


 もうそうなると俺と弟は喧嘩どころではない。

 取る物も取り敢えず母親の横に駆け寄って、二つのカップメンのうちどっちを食べるんだと自己主張を始めたものだった。


 まぁ、ここで普通の家庭なら喧嘩しないように同じカップメンを作ったことだろう。

 だが、ウチは違った。


 俺と弟は味覚が違うのだ。

 俺は、どちらかと言うと「そば」がいい。

 弟は、どちらかと言うと「うどん」がいい。


 俺たち二人は、全く相容れることはなかったのだ。

 だが母さんも、それはよく知っていた。

 だから、いつも緑のたぬきと赤いきつねに湯を注いでくれたのだ。


 俺は赤いきつねに見向きもせず、湯を入れたばかりの緑のカップを手に取って、こぼさぬように慎重に運ぶ。

 アッチチ……

 向かうは、部屋の片隅に置かれた小さな小さなちゃぶ台。

 このベニヤ板がボロボロに剥げたちゃぶ台こそが、当時、俺たちの唯一の食卓だった。


 薄暗い窓にかかる色あせたカーテンには、母さんが俺たちを喜ばせるためにチラシから切り抜いては縫い付けてくれたキャラクターが仲良く揺れていた。

 その中の青いタヌキが当時の俺のお気に入り。

 そしてそのちょうど真ん前、そこが俺の指定席だった。

 その席に着く俺は、いつも思うのだ。

 弟は赤いきつねの何がいいのだろう。


 ただ、うどんに油揚げがのっているだけなのだ。

 ハッキリ言って、他のメーカーのきつねうどんと大差はない。

 スープだって似たり寄ったり。

 油揚げも所詮、油揚げだ。

 麺に至っては、ほとんど違いが分からない。

 まぁ、しいて言えば具材に卵が入っているところが個性と言えば個性だろうか。


 それに対して緑のたぬき。

 これこそまさに至宝の中の至宝である!


 なんといっても天ぷら。

 某メーカーが後入れなのにもかかわらず、こちらは何と先入れなのである。

 先入れにすることによりふんわりと柔らかくなる。

 これを食すと、心までふんわりと落ち着く。


 そして、何よりもこの天ぷらにはエビが入っている。

 そのことによって、徐々に食べていくと天ぷらのだしがスープに溶けだして味わいがさらに増していくのだ。

 これはアイツの油揚げにはできない芸当である。


 そしてまた、天ぷらは気分を変えたいときにはあえて後入れにすることも可能なのだ。

 パリパリの食感。これはこれでおいしいのである。

 これもまたあの油揚げにはできやしない。

 だって、あいつは、お湯でふやかさないと食べられないのだから。


 そして、決定的な違いは、出来上がるまでの時間。

 俺のは3分で食べられるが、奴のは5分かかる。

 いまだに赤いきつねを前にして体を揺らし続ける弟を横目に、俺は今日もそばをすすりだす。

 マジうめぇ!


 病室についた俺は、どんよりとした空気を嫌うかのように窓をいっぱいに開けた。

 途端、冷たい風が病室の中に入り込んでくると、レースのカーテンを揺らしはじめた。


「今日は、休みなのかい」

 調子がいいのか、母さんはベッドの上で上体を起こしていた。


「あぁ、今日は土曜日だから半ドンだ!」

 窓の外を見ていた俺は精一杯の笑顔を作って振り返った。


 そして、手に持つビニール袋をこれみようがしに持ち上げてゆすった。

「母さん、これスキだろ?」

 俺はがさがさと音を立てながらビニール袋から緑のたぬきを取り出した。


「それが好きなのはあんたの方だろ。よくそんなモノを食べられるね」

 母さんは笑いながら答えた。


「別にいいだろ! 好きなんだから! お湯、借りるよ」

 俺は、小さな棚の上で緑のたぬきと赤いきつねのふたを開け、熱々の湯を注ぎ始めた。


 そんな俺を母さんは、じっと見ていた。

「アンタも大きくなったね……」

「もう、18だぜ……」


「そうか……もう18か……」

「あぁ……」


「……あんなに小さかったのにね……」

「……いつの話だよ……」


「……アンタたちにも、苦労かけてごめんね……」

「俺たちの方こそ、母さんに迷惑ばかりかけて……ごめん」


「おっ! どうした! 急にしおらしく謝って、悪いものでも食ったか?」

「いや、母さんが謝ったから……俺もツイ……」


「本当に、アンタたちも兄弟喧嘩ばっかりしよったよね……」

「まぁ、あいつとは反りが合わんけん……」


「あの子、元気にしとる?」

「さぁ、知らん……連絡とってないけん……」


「そうか……でも、あの子にとって頼りになるのはにいちゃんのアンタだけやけん、頼むな……」

「なんで……そんな事言うんだよ……」


「あっ! もう、三分立ったんとちがうか?」


 俺は慌てて緑の容器に手を伸ばした。

 アッチチ……

 その様子を見ながら、母さんはまた笑う。

「アンタも変わらんね」


 俺も一緒になって笑いながら緑のたぬきを母さんに手渡すと、手元に残った赤いきつねを持って窓際の椅子へと座った。


 だが、残念なことに俺の赤いきつねが出来上がるにはあと二分かかる。

 やることがない俺は、熱いそばを食べる母さんの姿をじっと見ていた。

 

 ふー! ふー!

 母さんは湯気だつカップに息を吹きかけて、ニコニコと嬉しそうに冷まし始めた。

 カップから昇った湯気が、一瞬たなびいたかと思うとはかなく消える。

 

 こんなささやかな幸せな時間は、あとどれぐらい続くのだろう……

 こんな母さんを放っておいて、あいつは一体どこに行っているのだろう……


 ふたを開けた俺の白いカップの中には大きな油揚げが、うどんの上に偉そうに浮かんでいた。

 俺は、そんな油揚げを箸でよけ、うどんをかき混ぜ勢いよくすすった。


 ズズズズ……

 美味い……

 存在感のあるコシが程よいのど越しを作り出していた。


 俺は大きな油揚げをかみしめた。

 ガブっ!

 じゅわーとしみだす油揚げのおだし。

 甘い……


 俺は、赤いきつねの事を何も知らなかった。

 そして、あいつのことも何も知らない。

 常にそばにいながら、本当に何も知らなかったのだ……

 いや、何も知ろうとしなかったのだ。

 もっと、早く気づいていれば、もっと違う関係になれたのかもしれない。

 だが、もう遅い……

 この湯気で曇った俺の眼鏡同様、もう、俺には何も見えない……

 俺はそんな眼鏡を押し上げて、目をゴシゴシとこすった。


 元の位置に戻った眼鏡の視界には、緑のカップが映りこんでいた。

 驚く俺はハッと顔を上げた。


 そこには、笑いながら緑のたぬきを差し出す母さんの姿。

「半分こ!」


 俺は、母さんに促されるかのように赤いきつねと緑のたぬきを取り換えた。

 ズズズズ

 俺はそばをすする。

 ――やっぱりうまい……

 いつしか俺は鼻水もすすっていた。


 そんな俺を見ながら母さんは笑う。

「なんや、赤も緑もおいしいやないか!」

「……そうだな……」


「二つとも七味の味がいい感じに隠し味になっとるなぁ、ほんと、そっくりや……」

「……そうだな……」


「互いにいいところだけ見取ったらケンカなんてせんで済んだのになぁ」

「……ごめん……」


「アンタらの事やないで、この『たぬき』と『きつね』の事やで」

「ごめん……母さん……ごめん……」


「……そうか、なら、今度は二人で見舞いに来てや」

「でも……俺……あいつの連絡先知らんし……」


 うつむく俺に、母さんはそっと小さな紙を差し出した。

 そこには一つの携帯番号。


「あの子が置いていった連絡先や……あとは、よろしゅう頼むで! 兄ちゃん」

「ウン……」

 俺はその紙を握りしめ、うなずきながら泣いていた。






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