あたたかな匂い

石濱ウミ

・・・


 ……あー、飲んだ飲んだ。


 腹が膨れるばかりで、ちっとも酔ったつもりなんてなかったのに玄関の鍵を開けた途端、足がもつれた。


 それにしても今日の酒は、旨いんだか不味いんだか、味なんてサッパリ分からないのに矢鱈と喉をするすると通った。かと思えば、喉の奥に鉛が詰まったようで飲み込むのが精一杯になったりもする。


 こんな気持ちになる酒は、おそらくもう二度とない。


 ネクタイを緩めながら覚束ない足取りで、真っ暗な居間に入り手探りで部屋の電気をつけた。誰もいない空っぽの部屋が、一瞬のうちに隅々まで寒々しいほどくっきりと浮かび上がる。

 ソファの前のテーブルの上には、飲みかけの指一本分だけ残し冷たくなったコーヒーの入ったカップが、無造作に畳まれた新聞の横にぽつんと残されているのを見れば、何とも慌ただしく家を出た様子を物語っていた。

 その今朝から丸一日と経っていないというのにまるで知らない家のようで、よそよそしく目に映るのは何故だろう。


 誰もいない筈の部屋に、ふと人の気配を感じ部屋を見回してその正体を知る。

 そう、自分自身の姿だ。

 夜の暗がりが、窓ガラスを鏡に変えていたのだった。

 だらしなく斜めに傾ぐ身体が、酔いの深さを物語っている。

 緩めていたネクタイを、ひと息に引き抜くと光沢のあるシルバーグレーが部屋の灯りに踊るように跳ねた。


 振り返ってみれば、あっという間のような、それでもいつになく長い一日だった。

 式、披露宴、そして親族へのもてなしも、溢れ返る人に流されるままに目まぐるしく終わり、ようやく一人。


 ……とうとう、一人になってしまった。


 モーニングコートを脱ぎ、ソファに身体を投げ出すようにして座ると、天井を仰ぐ。虚無感としか言いようのない何かが込み上げてくるのを、顔の上に腕を交差させて押さえ込んだ。


 そうとも。娘は、幸せになる。

 自分の手を離れた今、出来ることはその幸せを見守ることだけ。

 ……虚無感だって?

 馬鹿ばかしい。

 腹が減っているからに違いない。


 がばりと勢いよく起き上がるつもりで、ふらついてテーブルに片手を着きながら立ち上がる。

 何か簡単に食べられる物を探して台所のパントリーの中を漁ると、鮮やかな緑色が目に飛び込んできた。


 同時に――。


 湯気の向こうで満面の笑みを浮かべた、あどけなく幼い頃の娘が。


 泣き腫らした目を恥じるように、俯きがちで麺を啜る中学生になった娘が。


 寒い夜中に薫る出汁の匂いに、幸せな罪悪感に苛まれながらも喜んで受験勉強の手を休める娘が。


 飲んだ後には、どうしても食べたくなっちゃうんだな、と言いながらフィルムを剥がす手に、いつの間にか指輪が光るようになった娘が。


 ……あの、幼かった娘が。

 


 パパのお嫁さんには、なれないもんな。


 パントリーから取り出し、両手で抱え持つ緑のたぬきの、光を反射する上蓋が眩しくて思わず涙が滲む。



 飲んだ後は、格別に旨いんだ。


 お湯が沸く間だけ泣くのを許して欲しい。

 出来上がったら思い出の詰まった湯気に顔を隠して、その出汁の香りが呼び起こす幸せな記憶と余すことなく涙も一緒に、最後の一滴まで飲み干すから。

 


 そう。素晴らしい一日だった、と。







《了》






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あたたかな匂い 石濱ウミ @ashika21

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