エピローグ
命
大学の小さな教室に、たどたどしいロシア語が響く。
「では、訳して」
今年入学した学生で、第二か国語にロシア語を選択した学生はわずか十一人だが、これでも例年より多い。毎年、七人から九人くらいだから、十人を超えたのは今年が初めてだ。人気の最近中国語を選択する学生が多いが、中国語を続ける生徒は稀だった。一方ロシア語を選択する学生は、通訳の仕事がしたいとか、ロシアの研究がしたいとか、目的意識を高く持っているので、このメンバーのほとんどがずっとロシア語を続けると期待できた。
「はい。バイカル湖にはレナ川など、三百三十六の川が流れ込んでおり、その内アンガラ川だけが流れ出ています。アンガラ川は空色のアンガラと呼ばれています。これはそれを擬人化したロシア民話です」
レジメからノートに持ち替えた学生が、すらすらと日本語訳を読んだ。予習は万全のようだ。
「では、次を」
私がそう促すと、後ろの席の学生が立ち上がり、ロシア語を読む。先ほどの学生よりも、ロシア語の発音がいい。
「バイカル老父は、娘のアンガラと裕福な町を結婚させたがっていました。しかし、アンガラはエニセイに恋をして、二人で逃げていきました。それをカモメからの伝言で知ったバイカル老父は、怒って岩を投げつけて二人の進路を妨害しました。しかし、アンガラとエニセイの二人は、遠くへ逃げていきました」
この学生は語学が得意と見える。ほとんどの学生がノートに日本語訳をしてきているが、この学生はレジメを見たまま、訳している。
「では、それぞれが何故男女に分かれるか、説明できますか?」
「はい。男性になっている固有名詞はすべて男性名詞であり、語尾がAやЯ以外で終わっています。反対にレナやアンガラ、カモメのチャイカは女性名詞で、語尾がAで終わっています。そのため、このような男女関係になっています」
「そうですね。このような民話を元にした場合、必ず異なるバージョンがありますが、この民話の場合は大筋でこのような話になっています。季節も春夏秋冬の固有名詞が、男女交互に来るので、追いかけ合う男女の物語になっています」
そこまで説明したところで、時間が来た。
「次はもう少し長いレジメにしました。内容も少し難しいと思いますが、予習をしてくれば訳せますから、頑張って下さい」
私は学生たちにレジメを配り、黒板を消した。
「ロシア民話ってあんまり知らなかったけど、ロマンチックなんだね」
「英語と違って名詞が男女で別れるからじゃない?」
「でも、ドイツ語の子はこんな話はやんなかったらしいよ」
「ドイツ語って確かヤーの発音でyesなんだよね?」
「へえ。そうなんだ。じゃあЯっていえばyes連発してるね」
そんな話をしながら、学生たちが教室を出ていく。次の授業までに別の棟の教室まで移動しなければならないため、学生たちはいそいそとしていて、落ち着きがない。
私もロシア語の他に表象の授業を持っているため、その準備をしなければならない。この後はそのせいで研究室にこもりきりだ。テキストなどの教材を持ち上げた時、私は人影に気付いた。先ほどすらすらとロシア語を読んで訳し、質問にも難なく答えた男子学生だった。まだ入学したてなので、あどけなさが残っている。
「井瀬先生は、ロシアの血が入ってるんですか?」
まだ、自分が井瀬の姓を名乗っていることに慣れない。研究者は論文に名前が載ることや書類上の問題などから、夫婦別姓をとることが多い。しかし私が井瀬行人と結婚したのは、もう十年前になる。そのため、ここ十年はずっと井瀬空として生きてきた。それなのに、まだ私は高校生の自分を引きずっている。
「どうして?」
行人が話してくれた前世の話を思い出し、今日のレジメの内容に酷似していたから声が震えていた。私は行人の話をいまだに信じ切れていない。しかし、ロシアと聞くと親近感が湧いた。私も大学生の頃は、ロシア語を勉強していた。ちょうど目の前にいる学生のように、何事にも興味を持っていた。若かったと思う。
「皆、気にしてます。だって、日本人離れしているから」
私の容姿を言っているのだと、初めて気づく。あまり気にしていなかったから、久しぶりに不意打ちをくらった気分だ。
「私は生粋の日本人よ」
私が微笑んで答えると、学生の方が目を丸くした。
「本当なんですか?」
「ええ。本当よ。君は次の授業は?」
「あ、今行きます。すみません。でも、何だか井瀬先生が幸せそうで、良かったです。何だか、先生に初めて会った気がしなくて」
「あら。どこかで会っていたかもね」
ふふっ、と私が笑うと、学生は顔を赤くして自分のバッグをひったくり、一礼して駆け出した。元気がいいな、と羨ましく思う。
「どこかで、ね」
前世というものがあるのなら、きっと運命もあるのだろう。しかし、私が生きているのは前世ではない。かけがえのない今を生きている。だから、私には前世も運命も関係ない。ただ、今を大事に生きること。心から愛した人と一緒に生きていくということ。そして、今ある命と共に生きるということ。それが、私のすべきことなのだ。
今、私のお腹に内側から振動があった。
〈了〉
『空色に溶ける』 夷也荊 @imatakei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます