八章 逃避

未来へ

 翌日から、レンちゃんのいない学校生活が始まる。しかしその当日、異変は朝から始まっていた。下箱にローファーを入れて、上履きに履き替えようとしたとき、何かが軽い音を立てて、私の足元に落ちた。それは、ネズミの死骸だった。生物の時に解剖で使った、白いハツカネズミだ。どうして、こんな物が私の下駄箱に入っているのか。いや、誰が入れたのか。勝手にネズミが入り込んで、偶然こんなところで死んだとは思えない。誰かが、意図的に、そして悪意を持って私を攻撃したのだ。目に見えない卑怯で汚いやり方だ。ハツカネズミを飼育しているのは、生物部の生徒と、生物の教科担任だ。しかし、元々実験動物だし、共食いもすると聞くから、実際に盗まれても、気には留められないのかもしれない。駄目だ、と咄嗟に思った。息が苦しいし、眩暈がする。最近、いろいろなことが一挙に押し寄せたからだ。体が震えている。過呼吸になりそうなくらい、浅い呼吸しかできない。駄目だと、再び思う。レンちゃんの死。曾祖父の逮捕。レンちゃんを殺した犯人。警察には知られない事実。


 視界がふらりと揺れる。私はこんなに弱かったのか。親友がいなくなっただけで、こんなにも脆弱な存在だったのか。みっともない。恥ずかしい。こんな小さな悪意でいちいち傷ついていたら、身が持たない。ここにきて、私がどれだけ親友に助けられてきたのか思い知る。薄い茶色に見える髪も、空色の瞳も、全部親友が特別なものにしてくれていたのだ。私は倒れる寸前に、下足入れにつかまった。がつっ、と音がして指に痛みが走った。金属製の下駄箱の角で、指の一部を切ったらしい。傷口からは鮮血が流れる。私はそこをハンカチで抑える。負けてたまるものか。親友は、今でもきっと私を見守っていてくれる。そしてきっとそばにいてくれている。だから、私は何も恐れることはなく、普段通りに過ごせばいい。ただ、それだけだ。


「おはよう、空」


廊下で待っていたのは、悟だった。ただそれだけで安心感があった。


「おはよう」


夏の強い日差しを背負った悟を見上げると、悟の表情は影になって見えない。まぶしくて目を細める。階段を駆け上ろうとする私を、顔のない悟は制するように言った。


「俺は、もう君たちには関わらない」


一瞬にして、私の表情は凍り付き、足が止まった。悟は私にかかわらないのではなく、「私たち」にかかわらないと言ったのだ。それが私と誰を指すのか、理解できなかった。私と亡くなった親友だろうか。それとも、私と井瀬にだろうか。いずれにせよ、悟は何か勘違いをしている。それとも、やはり一流企業の御曹司だけあって、悪い噂の一つでもあれば、かかわることすら許されないのだろうか。


「空は、井瀬が好きなんですね?」

「何を今更。私と付き合っているのは、悟じゃない。婚約者なのよ?」

「昨日、井瀬と会っていませんでしたか?」


悟は何か証拠のようなものを隠し持っている。だから、昨日の私と井瀬のことを確信している。嘘は通じそうにない。きっと悟は私の行為を裏切りだと捉えて、腹をたてているのだ。しかし私は何も井瀬と後ろめたいことはやっていない。


「公園で、推理ごっこよ。でも、得られたものはなかったわ」

「自宅に、井瀬が来ませんでしたか?」


私ははっとして、悟を見た。


「どうして、それを?」

「やっぱり、あれは井瀬か」


ため息と同時に悟は言って、眼鏡をはずしてハンカチで拭いた。再び眼鏡をかけて、悟はポケットから空色の封筒を取り出した。私は口を手で覆って、思わず息をのんだ。私が親友から託された封筒と同じ封筒だ。井瀬も持っていると言っていた。私と井瀬だけでなく、悟もその遺言を受け取っていたのだ。


「俺も、空のアパートに行こうとしたんです。この封筒の内容から、いてもたってもいられなくなって。でも、アパートに制服姿の男子生徒がいたから、それ以上は踏み込まずに帰りました」

「確かに、井瀬は来たけれど、本当に何でもないの」

「それを、証明できますか?」

「証明?」


オウム返しに私が不安げに問うと、悟は階段の踊り場まで降りてきた。


「今から、貴女の全部を俺にいただけますか?」


これは、あの時の私の言動に対する問いだ。夕暮れの中の帰り道で、私は急に悟に自分の全てを与えてしまいたくなった。その時は、悟が私を優しくいさめてくれた。真剣で真っすぐな悟の視線が痛い。あの時も私は親友に頼ってばかりいた。その付けを今、返さなければならないのだ。


「それは……」


私は逡巡してしまった。それと同時に、半歩、悟から身を引いていた。それを見逃さなかった悟は、視線を外して下を向いて噴き出すように笑った。そして、悟が受け取った封筒を私に突き出してきた。


「俺って、不運な役回りみたいだ。読んでみてください」

「いいの?」

「もちろん。そこには貴女と、貴女の親友の本心が書いてあるはずですから」

「レンちゃんと私?」


そう言われて、私は悟の空色の封筒を手に取った。その内容に、私は驚愕した。そこには明らかに親友の書いた文字で、思いもよらなかったことが書いてあったからだ。結果から言ってしまえば、その手紙は真摯なお礼と謝罪の言葉が並んでいたのである。


 謝罪に次ぐ謝罪には、誠意が込められていた。そして、親友の一生のお願いは、私と悟が別れることだった。親友は初めのころには悟との恋を応援していた。しかし、私は嘘はつけない。恋愛を楽しもうとしていた私の感情を、親友は見抜いていた。そして私の性格を熟知していた親友は、悟に最大の賛辞を送ったうえで、私と悟の恋愛は遊びだと言い切った。「覚醒者」が何を指すのかはわからなかった。確か、井瀬も同じ言葉を使っていた。どうやら私の周りには「覚醒者」と呼ばれる人がいるようだ。親友は、私と悟が付き合うことこそが、一番の安全策だという。つまり、最善策ではない。親友も、それではいけないと、警鐘を鳴らしている。そして最後に、私を自由にしてくれるように嘆願し、謝罪で締めくくられていた。


「覚醒者って、何かわかる?」


ため息交じりに悟は首を横に振った。


「全く。空も知らなかったのか。俺は空が知っていると思ったのに」

「誰が覚醒者なの?」

「分からないよ。俺もその意味に苦慮しているところです。でも、その言い方なら、貴女の親友は、覚醒者だったということになります」

「レンちゃんが、覚醒者?」


私の親友は、だから殺されたのだろうか。覚醒者が何かは謎のままだが、覚醒者でなければ殺されずに済んだのではないか。しかし、悟は私の手から封筒と手紙を抜き取って、落ち着いた様子で言った。


「覚醒者が何者かは分かりません。ただ、空は親友の願いに応えたいと思いますよね。それに、今、一番大事にしなければならないのは、空の気持ちです。空は、俺と井瀬のどちらが本当は好きなんですか?」

「そんなの、悟に決まって」

「嘘をつかないでください」


悟が、珍しく厳しい口調で、私の言葉を遮った。


「相変わらず、嘘が下手ですね。自分の気持ちに正直になって下さい。それから、どうか、お幸せに」


悟は私の目を見つめて、優しく微笑んだ。


「ごめんなさい。でも、嘘をつくつもりはなかったの」

「分かっています。友人として、好きになってくれたんですね。俺にはそれだけで十分です」


恋人としてではなく、友達として。その言葉は私にとって重い。しかし、これでやっと胸の中のわだかまりが解消できた気がした。悟のことは大切に思っている。大好きであることに変わりはない。でもそれは、恋人としてではない。かけがえのない一人の人間として、悟が好きなのだ。


「ごめんなさい」

「井瀬は、どうして貴女の家に?」

「このまま一緒に逃げようって」

「なるほど、駆け落ちですか。古風ですね」


悟に古風と言われる日がこようとは、思ってもみなかった。


「どうして逃げなかったんですか?」

「だって、レンちゃんは逃げなかったなら、私が逃げるわけにはいけないから」

「貴女らしいですね」


薄く笑んだ悟は、にわかに表情を引き締めた。


「井瀬は教室で犯人扱いされています」

「井瀬が?」


井瀬と言えば、クラスや部活の人気者だったはずだ。それなのに、急に皆が手のひらを返したように、井瀬を責め始めたというのだ。親友の死は自殺とされている。もちろん、私と井瀬は真実を知っているが、それを公にするつもりはない。まさか、警察に一度協力したというだけで、犯人扱いされるとは。井瀬に対しては、これまでの妬みやかっかみもあるだろう。井瀬を貶めたいと思う人たちにとっては、これが絶好の機会なのだ。そして井瀬は、私のために沈黙を貫くつもりなのだ。


「貴女も、教室で辛いことがあると思います。それでも、行きますか?」

「ありがとう、悟。でも、私は行くことにする。ごめんなさい」


私は階段を駆け上った。悟とすれ違う時に、悟がため息吐くのが目に入った。まるで、自分の役割が終わったというように、深いため息だった。


 兜の緒を締めたような気分で、私は教室に入る。皆、席に座ることなく、私を見つめていた。誰もが上目遣いに、私をにらんだり、見つめたりしている。ある者は怒りと憎悪を持って。またある者は、不安げにしながらも興味を持って。私はそれらを無視して、自分の机に着いた。そこには、誰が書いたのか、罵詈雑言があった。中央には下手な魔女と思われる絵があった。


『魔女』、『いらない』、『人殺し』、『死ね』、『最低』。机に赤や黒の油性マジックで書かれた文字には、凶暴性すら感じられた。教科書やノートを置いていく習慣がなかったから、それらは無事だったが、机の抽斗にそれらを入れることはできなかった。抽斗の中は、バケツで水をかけたように水浸しだった。近づくと、妙に生臭い。その正体はクラスで飼っていた金魚の死骸だった。あるはずの金魚鉢を探すと、思った通り、中身が空になっていた。


 親友の机の上には白い菊の花束が、花瓶に生けられていた。それを見た瞬間、目頭が熱くなった。ここで泣いたら、卑劣なことをした相手の思うつぼなのに、涙をこらえることができなかった。私は親友の机の前で、しゃがみこんだ。そして、一人合点する。この私への仕打ちは、親友がどれだけ皆に愛されてきたかということの、裏返しでもあるのだ。私がいたせいで、レンちゃんに近づきたくてもそれができない人もいた。レンちゃんに思いを寄せる人から、私は嫉妬されていた。もっと周りを見ればよかった。もっと広い視野を持つべきだった。レンちゃんはモノではないのに、私はレンちゃんを独り占めしたかった。


「ごめんね、レンちゃん」


私は、立ち上がった。そして、雑巾とバケツを持ってきて、濡れた机や椅子、床を拭き始めた。誰も手伝ってはくれない。むしろ、そんな私の姿を見て、「汚い」と言いながら笑っている。そんな中、一人の女子生徒がつかつかと私に向かって、歩み寄ってきた。私が顔を上げると、いきなり顔をぶたれた。


「いつまで、偽善者ぶってるの? レンが死んだのって、あんたのせいだよね?」


違う、という言葉を私は飲み込んでいた。もしかすると、そうなのかもしれないという思いが、頭のどこかであったのだ。それに私は、否定する材料も証拠も持っていない。もしもレンちゃんが私と距離を取っていたなら、レンちゃんの母娘関係にも余裕があったかもしれない。そんなことを考えてしまう。


「事故の時も、レンが死にそうになったの、あんたのせいだったよね?」


皆が、女子生徒の言葉に頷くのが分かった。事故は間違いなく私のせいだ。クラスメイト達は、この時からすでに、私とレンちゃんが一緒にいることを良しとしていなかったのだ。


「どうせ、本当は井瀬が犯人なんでしょ? それであんたは、井瀬の彼女なんでしょ? 二人とも同罪だよ。レンを返せ!」


女子生徒は、泣きながら私を責めた後、私の脇腹を強く蹴った。私は生臭い水たまりの中に全身を浸した。笑いが起きる。


「臭くて汚いけど、似合ってるよ。魔女」


女子生徒がそう言って自分の席に戻ると、教室の周りにいた生徒たちも、自分の席に戻り始めた。


「いい気味」

「ずっとそうしてれば?」


口々に心無い言葉が浴びせかけていく。私は制服を絞って、バケツに水を入れる。床の水も、金魚の死骸も、バケツに入れ終わると、そこにちょうど担任教師が入ってくる。あまりの陰湿な空気と生臭さに、さすがの担任も顔をしかめている。例の女子生徒が手を挙げて、指名もなしに立ち上がる。


「湖上さんが金魚鉢をこぼしました」


担任は納得したような顔になり、私の方を見た。


「湖上、早く片付けなさい」


担任のこの言葉に、どこからか笑い声がひそやかに聞こえてくる。くすくすという笑い声は、大声よりも耳の奥に刺さった。悔しくて恥ずかしかった。こんなに屈辱的なことはない。水と金魚が入ったバケツを持って教室から出ようとすると、足を掛けられた。危うく転倒しそうになった時、誰かが私の体を支えた。見上げると、そこには井瀬の顔があった。


「人殺しだ」

「やっぱり、かばうんだ」

「そのまま転べばよかったのに」

「惜しい」


悪口の合間に、舌打ちが混じった。担任は今度こそ、教室の雰囲気が明らかにいつもと違っていることに気づいただろうが、表情を全く変えなかった。あくまでも、苛めを黙殺することにしたようだ。担任は出欠簿に目を落としままで、何事もなかったように点呼を始めた。クラスメイトも、私と井瀬をちらちらと見ながら、返事をしていた。


「ちょっと、来い」


私の腕をつかんだ井瀬は、廊下に私を連れだした。私はすぐにその手を振りほどく。そして、自分のロッカーから体育着を取り出して、愕然とする。体育着は切り裂かれてばらばらになっていたのだ。これでは着替えることもできない。すると井瀬からショルダーバッグを押し付けられる。


「これで我慢しろ。行くぞ」

「え? どこへ?」


井瀬は私の前を歩く。仕方なくついていくと、井瀬は階段を上り、普段は立ち入り禁止の屋上まで私を連れて行った。


「裏で着替えて来いよ」

「うん。ありがとう」


裏手に回ってショルダーバッグの中を開けてみると、そこにはジャージとタオルが入っていた。どうやらバスケ部専用のジャージとタオルらしい。制服を脱いで、その白地に黒のラインが入ったジャージに着替える。井瀬の物だから、私が着るとサイズが大きくて着こなせない。私が井瀬のところに戻ると、井瀬は遠くを見つめたまま、じっとして座っていた。私に気づくと、私の頭をくしゃりと撫でた。


「俺のもやられてて、これしかなかった。タオルも入ってただろ? 髪はそれで拭いて我慢してくれ」

「う、うん」


私が顔を赤くして首にかけたタオルで髪を拭いていると、井瀬は優しく微笑んだ。悟ほど穏やかではないけれど、笑顔が二人とも似ている。井瀬もこんな風に笑うのだと思うと、胸が高鳴った。ここにきて、私は自分の気持ちに正直になれた。私は、井瀬が好きなのだ。悟とは違い、井瀬を恋人として見ているのだ。だから、今度こそ、しっかり伝えようと思った。こんなにだぼだぼの服で、生臭いから恥ずかしかったけれど、言わずにはいられなかった。


「私は、貴方が好きです」


すると、井瀬は予想外の反応を示した。大声で笑ったのだ。そして、私を正面から抱きしめた。


「この格好で告白は、ずるいよな。断れないじゃん」

「じゃあ、付き合ってもらえるの?」


私は井瀬を嫌いになろうとした。悟を好きになろうとした。井瀬を感情任せに傷つけた。それなのに、井瀬は私を受け入れるというのだ。


「俺はずっとお前が好きだったから、俺から告白する予定だったのに。昨日家に迎えに行ったとき断られたから、もう愛想をつかされたと思ってた。良かったよ。まだ俺のこと好きでいてくれて」

「岩渕さんとは?」

「何にもなかったよ。キスもしていない」


私は思わずあきれて口を開けた。信じられなかった。彼女と彼氏の仲だったのに、キスもしていないだなんて、思いもよらない告白だった。それなら岩渕さんの方から井瀬を振るのも、納得できる気がした。そして私は核心に迫る決心をした。


「ねえ。カクセイシャって、何?」

「ああ。前世の記憶がよみがえった人のことだよ」

「井瀬もカクセイシャなの?」

「そうだよ」

「カクセイシャだから、私と付き合うの?」

「それは違う。関係ないよ。覚醒者でなくても、覚醒者であっても、俺が好きなのはお前だけだ」


井瀬は苦しそうに、そう言った。覚醒者たちは、それぞれ前世と現世との間で激しく揺れ動き、自分の本当の気持ちに従った。その結果がこれだ。誰が覚醒者で、誰が覚醒者でなかったかは、私の知るところではない。しかし、せっかく生まれ変わったのに、前世に影響を受けることは悲しくて虚しいことだと思う。私の親友は実母に殺され、私の曾祖父は逮捕された。この二つの事象に、何ら関係がいなかったとは思えない。おそらく、私の親友が恋をしてしまったのは、私の曾祖父だ。そして親友は覚醒者だった。しかし、私と親友の友情に、前世が関係していただろうか。答えは否である。私とレンちゃんは、きっと前世の影響がなくても、友達になり、友情を育み、親友となっただろう。


「今まで、傷つけてごめん。でもこれからは俺がお前を守るから」


それはいつかの回答だった。レンちゃんが井瀬を体育館脇に呼び出してくれた時に、くれるはずだった答えだ。レンちゃんが生きていた時に、この恋の結末を報告したかった。しかしもう、親友はいない。


「お前の方こそ、悟とは?」

「さっき、別れた。私も、振られた」

「後悔はないのか?」

「うん。悟は私の友達だよ。私の幸せを願ってくれる、大切な友達。だから、後悔なんてしない」

「そうか」


井瀬は安堵の息を漏らした。


「これからどうする?」


井瀬の腕の中は、暖かかった。井瀬に包まれるようにして、私たちは屋上に座っていた。


「俺の家に来ないか?」

「え?」


私は驚きつつも、顔を赤らめて井瀬を振り返った。すると井瀬も顔を赤くしながら、「変なことじゃない」と前置きした。


「お前の曾祖父に当たる人がつかまっただろ? もしかしたら、メディアがお前に付きまとうこともあるかもしれない。プライバシーは侵害されて、傷つく。俺はそんなお前を見たくない。だから、アパートから引っ越して、俺の家に居候したらどうだ?」


確かに、曾祖父がつかまってから、金銭面で困ったことになっている。しかも、元国会議員の汚職事件だ。その孫がのうのうと一人暮らしをしていると世間にばれたら、確かにメディアは私のところにも来るかもしれない。情報を得ようと、しつこく付きまとわれるのは、想像するだけで気が滅入る。しかし、いきなり恋人の家に上がり込むのは、気が引けた。


「バイトとか、頑張るよ」

「高校は出た方がいい」

「分かってる。本末転倒はよくないよね。奨学金も借りるから、大丈夫」

「そうか。じゃあ、こうしよう。高校を卒業したら、結婚して同棲しよう。もちろん、お前が行きたい大学と俺の行きたい大学が離れていたら、同棲は出来ないけど、籍だけは入れよう」

「何を焦ってるの?」


私が苦笑すると、井瀬は頬をわずかに膨らませて言った。


「お前、少しはきれいさを自覚しろ。大学で声かけられて危ない目にあったらどうするんだ?」

「井瀬って、お父さんみたいね」

「井瀬もやめろ」

「行人ね。分かったわ」


しばしの沈黙の後、行人は私を一層強く抱きしめて、言った。


「これからどうする?」


行人も私と同じように、レンちゃんを殺したとして辛い目に遭っていると、悟が教えてくれた。もしかしたら悟は、私と行人がこの学校から避難しろと言いたかったのかもしれない。でも、逃げるのは、違う気がした。何故なら、私も行人も何も悪いことをしていないからだ。それなのに逃げることは、何の根拠もない噂や憶測を肯定してしまう。だから、逃げることだけはしてはならないと、強く思っていた。行人も、本当はここで一緒に逃げようと誘いたかったのだろう。だが、二人で逃げれば、より一層卑怯者たちを喜ばせるだけで、何の解決にもならない。


 私は行人の腕から出て、フェンスに一歩近づいた。そして陽だまりの中で猫がするように、両手を突き出して伸びをした。そこにはきれいな青空が広がっていた。世界は今日もこんなにも広くて、平和だ。盛夏服も終わりを迎えようとしている。屋上の風は強い。私は一つ息を吐いて、行人を振り返った。


「教室に戻ろうよ」

「本当にいいのか、それで」

「うん。だって、レンちゃんはそれを望んでくれているはずだから」


教室に戻れば、嫌なことがたくさん待ち構えている。人殺しという汚名を着せられる。行人も私もそれは同じだ。


「辛くなったら、俺を思い出せ。耐えられないときは、いつでも隣に来い」


行人が私の頭を撫でる。


「うん。ありがとう」


そして見つめあうままほんの数秒後、私と行人はキスをした。決意を帯びた口づけだった。


 教室に戻ると、行人のジャージを着ていた私はまたいわれのない理由で、嫌がらせを受けた。きっと行人も、隣で似たような嫌がらせを受けている。そんな私たちを「お似合いだ」と揶揄する人もいた。しかし実際、私が教室で心の支えにしていたのは、レンちゃんの机だった。嫌がらせを受ければ受けるほど、守られていたことを思い知る。そして、レンちゃんがクラスの枠を超えて愛されていたこともまた、思い知らされる。


 もう、使う人がいない机と椅子は、今でも忠犬ハチ公のように、本来の主人に使われるのを待っているようだった。しかし、もう私の親友はいない。私をこの教室で守ってくれる人も、いない。それでも、私は負けるわけにはいかない。敵前逃亡なんてしない。


 月日が流れ、受験シーズンが到来した。クラス替えが行われと、嫌がらせは嘘のようになくなった。集団は個人を攻撃する。しかも、相手が弱っているところを突いてくる。人間の恐ろしさを見た気がした。クラス替えと同時に、空白の席もなくなった。あれだけ衝撃的だった同級生の死は、私と行人が毅然とした態度を示し続けたことと、クラスが変わったことで、もう誰も口にしなくなった。


 私と行人と悟は、同じクラスになった。二年に上がった段階で、成績評価と進路希望によってクラスが割り当てられたようだ。私と行人は付き合い続けていて、悟も共通の友人として接してくれている。もしかしたら、この悟の存在が嫌がらせの減退に一役買ったのかもしれない。私と行人だけでは、どちらもレンちゃんの死に近すぎた。そこに悟が加わることで、その近さが緩和されたのだと思う。


「進路は決まりましたか?」


私と行人のところに、悟が聞きに来た。


「私は地元に残るよ。でも、院は別の大学に行く」


私の言葉に、悟は「そうですか」と言ったが、行人は目を丸くした。


「院まで出るのか?」

「ちょっと、将来の夢があって」

「そうか。じゃあ、同棲は無理か」


肩を落とす行人に、悟と私は笑った。こうして三人で笑いあえる日が来るとは、思っても見なった。これもレンちゃんのおかげだ。全く、感謝してもしきれない。


 私は地元の大学へと進み、行人と悟は、東京の大学へと進学した。私は大学の寮に移り住んで、静かに大学生活をおくった。


 かけがえのない親友と共に、私はこれからも生きていく。


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