七章 真実

親子関係

 豪奢なソファーに、一人の女が身を縮めるようにして座っていた。怯えているのか、寒いのか、女は小刻みに体を震わせていた。そこに、重くゆっくりとした足音が近づく。女はその足音に、びくりと体を一際大きく震わせて、立ち上がった。


「座っていろ。愚か者」


龍蔵にそう罵られた若い女は、落ち着かない様子で再びソファーに腰を下ろした。その動きの緩慢さに、龍蔵の太い眉がわずかに動く。そのことで、女はますます委縮した。


「も、申し訳、ありません。御父様」


消え入りそうな声で頭を下げる女は、セミロングの黒い髪が肩から滑り落ちることで、龍蔵の視線を遮って、やっと呼吸ができるように感じた。女が龍蔵を「父」と呼ぶには、二人の年齢は離れすぎているし、実際、この二人には血のつながりはなく、養子縁組もしていない。傍から見れば、不自然な言葉だった。しかし龍蔵も、まるで娘に諭すように言うのだった。


「何を謝る?」

「だ、だって、私は御父様にご迷惑を」

「あれは、自殺だ。誰が何と言おうと、もうそのように決まったのだ」


まるで過去の事には興味がないと言いたげに、龍蔵もソファーに腰を下ろす。


「だって、私は実の娘を」

「裏切り者には、罰を。これも決まっていたことだ」


龍蔵は女の発言を、ことごとく断った。


「私は、これからどうすればいいのでしょう?」

「レナ」


龍蔵の手が、女の頭を撫でた。女は懐かしい名前で呼ばれて、思わず顔を上げた。そこには龍蔵が微笑みながら、立っていた。


「よくやった」

「はい。御父様」


女はその岩のような手を取って、自分の頬にこすり擦り付けた。そして女はこれで良かったと、自分の行為を肯定するに至った。そしてようやく、安堵の息を吐いた。女の頬を、二筋の涙が伝い、カーペットの上に落ちた。これで、良かったのだと、女は思った。自分は何も悪いことはしておらず、正しいことをしたのだと。自分はただ、悪いことをした少女に、罰を与え、前世の父親の役に立ったのだ。実の娘は淫魔だったのだから、それから父を守った自分もまた、守られていると感じたのだ。




 私がおかしいと思ったのは、娘の制服の選択の回数が、急に増えたことが始まりだった。盛夏服で、今年は猛暑だったし、動かなくても汗が出る。制服は丸洗いできることから、年頃の少女が、汗の臭いを気にして洗濯に出すのは、そうそうおかしなことではなかった。むしろ、自分の身だしなみを整えて、他人に不快な思いをさせないようにしている娘を、偉いとさえ思った。しかし、今は機能性インナーを制服の下に着るのが、一般的になっている。汗をかいたなら、そのインナーだけを洗えばいいことだった。それなのに娘は、雨の日が続く日ですら、制服もインナーも、下着も洗濯していた。制服が乾かなかったら、どうするつもりだろうと思って心配していた。しかし娘はそんな心配をよそに、毎日のように制服を洗った。私はここに来て、娘の洗濯が多すぎるのではないかと、思うようになった。


 私は母子家庭でも、娘に苦労は掛けたくなかった。進学校に入学した娘は、大学に行くことを考えているだろう。別れた夫から慰謝料は毎月送られてきていたが、家計に余裕があるわけではなかった。そこで私が始めたのが、家事の代行サービスだった。社員採用ではなかったが、書類と面接の審査があり、先輩から一通り家事を習い直す実習もあった。その実習で先輩について回って、他人の家に清掃や料理をするときの注意点やコツを学んだ。そんな中、先輩に言われたことがあった。


「海鳥さんって、若いよね。でも娘さんいるんだっけ?」

「はい。今年高校に入学して」

「ああ。それでか」


先輩は何故私が今頃になって、家事代行サービスの仕事に出ようとしていたのか、理解したようだった。勤務先となるアパートの一室に、車で向かっている途中だった。私は車の運転ができないので、先輩が運転してくれいていた。


「高校って、どこ?」

私は娘の高校名を告げると、先輩はわざとらしく口を開けた。


「頭いいじゃん! 卒業後も大変そうだね」


娘の高校は、この県では一番の進学校であり、品があると言われてきた。そこで、私はうなずきながらも、心の中では首を傾げていた。確か先輩にも高校生の女の子がいたはずだ。


「何? 娘さん、勉強好きな方?」

「はい。好奇心旺盛で」


私の答えはちょっとずれていたが、先輩は気にすることなくため息を吐いた。


「いいな。うちの娘に爪の垢を煎じて飲ませたい。うちの娘さ、遊びには興味あるけど、勉強には興味ないからさ」

「うちの娘だって、毎日何やってるんだか。毎日制服洗うくらいには、遊んでいるんだと思いますよ」


そう言った瞬間、車が急停止した。前のめりになって、シートベルトが胸に食い込んだ。どうやら目的のアパートの駐車場に着いたようだが、運転が巧い先輩が何故急ブレーキを踏んだのか、分からなかった。目の前には何なかったし、誰かが飛び出してきてもいない。


「どうしたんですか?」

「あ、いや。海鳥さんって、顔に似合わず過激な冗談言うんだと思って。ビックリしただけだよ。ごめんね」

「あ、いえ」


私は先輩の言葉で、自分の失言に気付き、顔を真っ赤に染めた。あの言い方ではまるで、娘が男遊びをしてるようではないか。


「でも、年頃だと、洗濯の回数増えて、大変じゃないですか?」


汚名返上とばかりに、私は言葉を重ねるが、これにも先輩は目を丸くして私を見る。私は言い忘れたことがあることに気付き、慌てて付け足す。


「娘の学校の制服、丸洗いOKなんです」

「あ、そうなんだ。そっか。それでか。さすがは品がある学校だね」


まるで納得したような口ぶりの先輩だったが、笑顔が引きつっていた。


「でも、乾燥大変でしょ? うちの娘は生乾き臭が嫌だからって、盛夏服でも三日に一回だよ。ほら、いくら丸洗いOKでも、生地が傷むでしょ? それも嫌みたい」


いきなり頭を後ろから殴られたようだった。考えればそうだった。制服は、袖口や脇の部分が乾きにくい。完全に乾ききる前に着ていくことがある。本来ならば、その生乾き臭が気になるはずなのに。そして、洗濯をすれば型崩れも起こるし、生地も傷む。汗の臭いより、よっぽどこちらを気にするはずだ。もしかしたら娘は、生乾き臭よりも臭う何かに触れ、型崩れを気にしていられない状況にいるのではないか。男遊び。そんな言葉が脳裏をかすめ、その日は一日じゅう、頭が真っ白だった。


 こんなことがあっても、私は娘に直接質す勇気もなく、家事代行サービスに正式に登録された。登録したスマホに依頼が次々に入る。登録者はその中から、自分の勤務条件に合った依頼に予約を入れ、折り返し会社から正式な依頼を受ける。もしも条件に誰も合わない時には、社員や契約社員の人が代行を行う、というシステムだ。私は娘が学校に行っている間に、いくつもの依頼を受け、それなりの賃金を得ていた。


 今日は新規のお客さんの依頼が入った。依頼内容を見ると、朝から昼の欄にチェックが入っていた。住所見ると、私の家の近所だった。私の家というよりも、娘の高校からの方が近い。そして他の登録者の勤務状態を見ると、その日の朝は皆、別件で埋まっていた。それを見てすぐに会社に連絡を取り、私が仕事に入ることが出来ると伝えた。会社からは感謝された。ライバルの家事代行業者は、最近多い。新規の顧客はなるべく逃したくないというのが、会社の本音だろう。顧客のプロフィール欄と依頼内容から見れば、いかにもリピーターになりそうな新規の客だった。住所から、保育園の向かいにある大きな家だと分かる。一人暮らしの女性で、七十代の無職。その新規の顧客は、データ上よく家事代行を利用する人に分類される。一人暮らしということは、家事だけでなく会話も楽しみにしているはずだ。


 私はまだ眠っている娘を起こさないようにして、静かに家を出た。


 自転車で保育園のカラフルな看板をめがけてペダルをこぐと、すぐに今回の依頼主宅が見つかった。思っていたより、豪華な庭付きの一軒家だった。インターホンをおして、元気な声で会社名を告げると門の鍵が開いた。庭石を踏みながら玄関に着く。


「おはようございます。今回派遣された海鳥と申します。今日はよろしくお願いします」


そう言って、深く頭を下げて、口角を挙げて微笑む。第一印象は大事だ。


「梅本淑子です。こちらこそ、よろしくね」


淑子は私をリビングに案内して、荷物をこの部屋に置くことを許してくれた。服装は動きやすくて清潔感があり、地味なものにするように会社から指定されている。その上に、会社名が入った鮮やかなオレンジ色のエプロンをかけ、同じ色の三角巾を頭にかぶる。たった一人なのに、三人掛けのソファーが、大きなテレビの方を向いている。身の回りはきれいに保たれていたが、豪華な調度品や廊下の隅には埃が目につく。


「それでは、梅本様。ご案内の方をお願いできますでしょうか?」


顧客は会社を登録する際に、大まかなコースが選択できるようになっている。「料理」、「洗濯」、「清掃」、「介護補助」、「その他」である。「介護補助」のため、私もヘルパー二級を取得している。これらのサービスの依頼は、妻に先立たれた男性や、一人暮らしの女性が多い。男女平等と言われている日本社会だが、まだまだ女性が家事全般から介護まで行っている現状が見えてくる。淑子は清掃の欄にチェックを入れていた。会社から支給されている清掃道具は持ち歩いていたが、掃除機やいつも使っているシートなどは、顧客の希望に合った物を使うことになっている。つまり、使ってほしい掃除用具の置き場所を教えてもらうことから、仕事が始まるのだ。


「掃除機はあそこの充電式の物を使って頂戴。脱衣所に場所によって違う洗剤を買いそろえておいたから、そこのを使って。黒い三段ラックに入っているわ。雑巾も新しいのを使って構わないわ。同じ所に入れてあるから」

「かしこまりました。特に気になる汚れや、手の届かない場所の指定などはいかがでしょうか?」


私はバインダーに挟んだ用紙に、次々と言われたことを書きこむ。顧客に同じ質問をしないようにするためだ。「家事の手伝い」ならまだしも、こちらは家事をして賃金を得ているのだ。つまりプロ意識が求められるし、顧客の要望にはできる限り応える必要がある。ここで書き込んだことは、パソコンで清書して、データを会社に送ることになっている。私以外の人が作業をするときに、顧客に二度手間をかけさせないようにするためだ。


「お風呂場のカビ取りをお願いできるかしら? ああ、でも。やっぱりいいわ」

「カビ取り、というのは、漂白でよろしいでしょうか?」

「ええ。でも、いいのよ。古いお風呂だから、危ないわ」

「でしたら、手の届くところまで私が作業をして、後日別の者を頼みましょうか?」


私は鞄の中から、会社のパンフレットを取り出して、淑子の目の前に広げる。元々、ビルや店舗をターゲットにした、清掃会社が母体の家事代行業者だ。本社に掛け合えば、それなりの道具や経験がある男性清掃員が、女性ではなかなか手の届きにくい所を清掃することも可能だ。もちろん、今回のような女性一人暮らしの場合、男性を家にあげたくないという理由から、断られることも多い。それに、天井やエアコンの掃除はオプションで付けることになるので、費用もかさむというデメリットもある。私が簡単にそう説明すると、淑子はやはり首を振った。


「もう、諦めていることだから」

「かしこまりました。では、手の届く範囲での漂白作業ということで」

「ええ。今日は一階だけでいいわ。私は二階にいるから、分からないことがあれば呼んで頂戴」

「かしこまりました。では、作業を始めさせていただきます」


私たちは清掃はしても、整理整頓までは手を出さないことになっている。全くの無法地帯で、足の踏み場もない状態ならば、清掃と同時に整理をしなければならない。しかし、今回のように、清掃だけすればいいという現場の場合、物にはその家庭のあるべき場所が、持ち主によって定められている場合が多い。例えば大皿は下の棚で、よく使う食器類は腰の位置の棚、という具合だ。そのような場合、家の人にとっては変えてはいけない暗黙のルールが存在いている。そのため、良かれと思って位置をずらすと、空き巣に部屋を荒されたような不快感を示される顧客も多い。だから、手を付ける前に、大まかな部屋の様子や配置を必ず覚えておく。清掃後にかたずけが必要な場合は、その記憶が頼りになる。


 それから、清掃用具置き場に移動し、この清掃用具の状態も確認する。混ぜてはいけないものはないか。新品か使用期限があるのに開いていないか。原液で使うのはどれで、薄めるならどれくらいなのか。酸性、中世、アルカリ性。私は一通り清掃用具を確認し、顧客が一通り新品の物を買っておいてくれたことに、感謝した。家によっては長く使い続けて、使用期限切れの洗剤を、台所で使っている家もあったからだ。

そこからさらに、清掃の順番を考え、頭の中で組み立てていく。埃は上から下に落ちる。部屋の位置。掃除機は引いたときの方が、よく吸う。漬け置きしておくべき物は最初に行うべきだ。ペットはいないようだ。コンセントの位置。それらを確認して、終了時間から逆算して、仕事を開始する。


 この家では珍しく、ガスコンロを使っていた。今ではオール電化の家が多いため、意外だったが、年配の方には火が見えたほうが安心できるという人もいる。五徳などを分解し、重曹を溶かしたアルカリ性の液の入ったビニール袋の中に、それらをそっと入れて漬け込む。次に風呂場に行くと、淑子が気にしていたことに納得できた。小柄で腰の悪い淑子にとって、風呂掃除は難儀な家事だっただろう。床や風呂自体はきれいになっていたが、壁や天井には黒カビが生えていて、白い天井などは、さながら星空を反転したかのようだった。天井は高く、これでは私でも気になるが、諦めているだろう。そんなことを思いながら、ゴーグルとマスクをして、ゴム手袋を別の物に変える。換気扇を回して、キッチンペーパーを壁に貼り付けるように固定し、そこに風呂場用の漂白剤をスプレーで吹き付ける。これで、しばらく放置すれば、壁のカビは見えなくなるだろう。


「よし、次」


次は部屋の上から静電モップで埃を取らなければ、と踵を返した瞬間だった。足先が不慣れな段差に引っかかって、後ろ向きに転倒した。ごっ、と鈍い音がして、後頭部に激痛が走った。その音で、二階にいた淑子が一階に降りてくる。それがスリッパの足音で分かった。


「何の音?」


淑子が不審げに風呂場をのぞき込んだ顔が、逆さまに映る。私は咄嗟に起き上がり、淑子に向かって頭を下げていた。


「申し訳ございません。転んでしまいまして」


まだ頭が痛かったが、瘤ができる程度だと思っていた。


「大丈夫? 一度病院に行ってくださいね。あ、今から行きますか?」


私が笑顔で立っているのを見て、淑子は安心したらしい。しかし私を心配して、病院を紹介してくれるようだ。私はそれを断って、清掃作業に戻ることにした。


「気持ち悪いとか、痛むとか、本当にないのね?」

「はい。お心遣い、有難うございます」


本当は後頭部がまだ痛いが、血も出ていないし、淑子が言うように気持ちが悪いわけでもない。自己診断では異常はなかった。ただ、後頭部をタイル張りの床に打ち付けた時、妙な感覚がした。流れる水に、溺れそうな自分がいた。水の臭いは、海水ではなかった。それだけが、頭から離れない。


 淑子は不承不承に再び二階に戻り、私も作業に戻った。静電気モップで埃を取り払い、新しい雑巾で棚の隅に溜まった埃と汚れを落とし、洗剤で磨くところは隅々まで磨き、掃除機をかける。漬け置きしていた五徳を取り出して磨き、元通りにセットし、風呂場に向かう。貼り付けていたキッチンペーパーを剥がし、磨くと、壁や床の黒カビはきれいになった。時間は予定より少し余ったくらいだ。淑子に最終確認をしてもらい、作業終了の確認印をもらい、この日は作業を終えた。


 淑子は私の仕事を気に入ったようで、私が空いている日に用事があれば、よく私を指名してくれるようになった。先輩方にはこうした固定客が何人もいたが、私はまだ片手で足りるくらいだった。淑子の依頼は、清掃だけにとどまらなかった。買い物に付き合ってほしいとか、単に会話がしたいとか、本当に様々だった。それに伴って、私の業務時間は変更されることが多くなった。そのため、大事にしてきた娘との時間も、徐々に減ってきた。一方の娘の方は、「大変だね」とねぎらってくれる場合もあるし、「そんなに仕事して大丈夫?」と心配してくれたる場合もあった。家事を結果として娘が背負うことが増えたのに、我ながらできた娘だと思っていた。しかし結局、先輩に指摘された洗濯に関することは、会話にできなかった。唐突に「洗濯しすぎじゃない?」というわけにもいかず、「本当に勉強してきているの?」と質問するわけにもいかなかった。


 しかしある日の夕方、私の仕事も終わって帰ろうとした時、娘が一人で歩いているところを目撃してしまった。それはちょうど学校が終わった頃の事だった。やはり娘は一人で勉強などしていなかったのだという憤りと、もしかしたら友達の家で勉強しているのかもしれないという期待が、ない交ぜになっていた。そして私は唐突に思ってしまった。これは、娘の裏切り行為だと。私に対してではなく、娘が誰かを裏切っているという思いだ。


 私は、娘に気付かれないようにその後ろ姿を追った。娘が足を止めたのは、豪邸の門の前だった。娘は辺りを見回すと、迷うことなくインターホンをおして、その豪邸の中に消えた。娘が中に入った後、私も辺りの様子をうかがいながら、その豪邸に近づき、表札を確認した。そこには「湖上」の名字があった。見たこともあるし、聞いたこともある。間違えようがない。それは娘が交通事故になった時に、一早く経済的援助を申し出てくれた人の名前だった。そして確か娘の親友の名字も、「湖上」だった。西洋人形のようなあの子は、毎日娘の見舞いに来てくれていた。そして、何度も私に謝った。自分のせいで親友をこんな目にあわせてしまい、本当に申し訳ありません、と。


 しかし、確かその子は、湖上龍蔵の孫娘でありながら、龍蔵を嫌っていたようだ。高校に通わせてもらい、一人暮らしまでさせてもらい、それでもなお、龍蔵を嫌う。それはその儚い姿に似合わず傲慢な態度だったが、他人に口出しはできる立場ではなかった。


 娘は命の恩人に、何の用があったのだろう。親友の敵に、どんな用事があるのだろう。急に思い出されたのは、娘が制服を洗濯する姿だった。制服が汚れることをしているのか。私の真似をして、恩人のために掃除でもしているなら、私にそう話すはずだ。先ほどのように、周りの視線を気にするそぶりも、必要がない。一人で、その身一つで、一人暮らしの老人宅に入る。普通の女子高校生が、名の知れた元国会議員のもとに、お忍びで通う。しかも、家族にも、親友にも言えないことをしている。男遊び。もしも、その男が老人だったなら。それならすべてに説明がついてしまう。そんなはずはない。もしかしたら、娘は脅されているのではないか。資金援助した代わりに、体を売らされているのではないか。もしくは親友のために、自己犠牲を買って出たのではないか。正義感の強い子だ。そうに違いない。


 私はふと郵便受けに目をとめた。そして、自分のバッグの中に、自分が登録している家事代行サービスのチラシが入っていることに気付いた。私はそのチラシを一枚抜き取り、「湖上」という表札の下にある郵便受けに入れた。はみ出したりしないように、きっちり折って、確認する。そして、その日はそのまま、足早にその家を後にした。


 ほどなくして、私の携帯が鳴った。会社から、新しい顧客が私を指名してきた、という連絡だった。顧客の名前は「湖上龍蔵」だった。会社の社員は私の震えをよそに、興奮気味だった。


「あの家、何回か訪問もしたけど、駄目だったんだよ? それがいきなり!」

「そう、ですか」


私は全身の震えが止まらずに、上の空だった。


「どうやって落としたの?」


顧客を「落とす」という表現は、私が嫌っていた表現だったが、今はそれどころではない。


「チラシを、挟んだだけです」

「ああ。ポスティングね! そっか。あれにも効果があるんだね」

「あの」

「ん? 何?」

「どうして、私、なんでしょう?」


会社の登録者には、ランクが表示される。本社社員はS、支部の社員はA、支部の派遣社員はB、私のようなパートにはCが割り振られる。当然、経験と実績がある方が賃金が高くなる。つまり、龍蔵のような金銭的に余裕があれば、SかAの社員を選択するのが一般的だ。それをわざわざ、私を指名してきたということは、何かある。


「それがさ、よく分からないこと言ってたよ」

「わからない?」

「そう。娘だからって」

「娘?」


その言葉に、何故か心がときめいた。真水の流れが脳裏に浮かぶ。しかし、私を「娘」とするのはおかしい。逆ではないのか。娘は告恋の方であり、私はその母親だ。一体龍蔵は何を考えているのか。


「そう。まあ、海鳥さんは若くて美人だから、ポスティングのとき防犯カメラで見て、娘のように見えたんじゃない?」

「防犯カメラ」


周りを気にしていたが、そこまでは気が回らなかった。確かにあれだけの豪邸ならば、セキュリティも万全だろう。そのセキュリティが、私を判別するために使われた。ポスティングの際に、顔が正面から映っていたのだろう。自分のことながら、あきれてしまう。


「この日の朝から、海鳥さん大丈夫だよね?」


口調は軽いが、有無を言わせない言葉だった。


「はい」

「じゃあ、ここは入れておくから、よろしくね」

「善処します」


電話はそれきり、切れた。


 そして、ついに龍蔵宅に伺う日が訪れた。もちろん、娘には内緒だった。その家は淑子の家とは比べ物にならないほど、豪華な屋敷だった。大きな客間の床には、これも大きなペルシャ絨毯が敷かれ、その上に五人掛けほどの層革張りのソファーがあった。テレビはなく、スクリーンが吊るされ、プロジェクターから何かを映して見るものだ。天井にはシャンデリア風の照明器具がある。空間の隙間を埋めるように、観葉植物や骨董品が並べられている。専属の家事手伝いをする人がいたのか、それらには埃一つ見つからない。


 私はこの部屋を見ただけでも、何故自分がこの家に必要とされたのか分からなくなった。そこに、ぎしぎしと床を鳴らして一人の老人が現れた。私は咄嗟に立ち上がる。腰一つ曲がっていない巨躯だった。刻まれた皺と、整えられた髭。厚めの唇に鋭い光を宿す瞳。総白髪に着物。まるで歴史上の偉人にいそうな風貌である。見ただけで圧倒されるオーラを発し、私は自分でも知らない間に、一歩足を引いていた。その一方で、私のまぶたの裏には、淑子の家で見た幻覚がよみがえり、何とも言えぬ懐かしさがこみあげてきた。


 私はこの老人を知っている。そして慕っていた。この人に認められたくて、生きてきたのだ。優しくも厳しいこの人が、私にとっての生きがいだった。


「おとう、さま?」

「まあ、座れ」


そう言われて、私と龍蔵は向かい合ってソファーに座った。


「中途半端に覚醒したものだ。衝撃が足りなかったと見える」


龍蔵は暗く笑い、覚醒者のことや前世の事を説明し始めた。そうしている間に、私も覚醒した。前世の私は龍蔵の娘の一人だったということ。そして、龍蔵の秘蔵っ子の空と私は、前世では姉妹にあたること。さらに、現世の娘が前世では裏切者だったこと。


「しかし、因果だな。母娘とは」


龍蔵は世間話でもするように、現世の娘が龍蔵と日ごろから情事に明け暮れていると語った。それを聞いた瞬間、怒りで体が熱くなった。私の敬愛する父と、あの裏切者が、密かにそんな関係にあったこと。それに母親として気付けなかったこと。許せなかった。もう私は、娘を自分の子として見ることが出来なかった。自分の敵として、見ていた。


「どうして、あんな裏切者と、御父様は?」


私は血がにじむほど強く、拳を握りしめていた。あまりの屈辱に、体が震えた。


「あれが、今度こそ裏切らないと言ったからだ。しかし、あいつは最近、迷っている」

「あんな奴、絶対にまた裏切るに決まっています!」

「そうだな」

「あんな奴、今度こそ、私がこの手で……!」

「できるのか? 今の一人娘だぞ?」

「できるに決まっています」


父の娘は沢山いた。私もその中の一人に過ぎなかった。名前も、記号のようだった。それでも私たちは、父のことが大好きだった。愛されたいと、強く望んだ。姉妹同士は仲が良かったけれど、父の愛情を受けることに関しては、足の引っ張り合いをして、より自分が可愛がられることを期待していた。そんな中、一人だけ、父の愛情を否定した妹がいた。その妹はある男に恋をして、父がせっかく準備した許嫁から逃げた。お目付け役だった女は、その役目を果たすどころか、逃亡を手助けした。父が唯一執着していた娘。私たち姉妹の嫉妬の的だったけれど、いなくなることは許せなかった。私たちが心から欲している物を手にしていながら、何故そこから逃げるのか。何が不満だというのだ。この嫉妬合戦から、一人だけ自由になるなんて、許せない。そして、父を欺いたお目付け役の女は、さらに罪深い。


「では、頼むことにしよう」


龍蔵はふんぞり返って、私を見ていた。


「きっと、御父様のご期待に応えて見せます」

「楽しみにしている。用事が済んだら、共に暮らそう。レナ」

「今、私の名前を……」


私は嬉しさのあまり、飛び跳ねたい気分だった。数多い姉妹の中で埋もれていたとばかり思っていた私の名前を、今、敬愛する父が呼んでくれたのだ。父は私を見ていてくれた。これであの裏切者を処分できれば、父はさらに私を見てくれるようになる。それを思うだけで、私の胸は弾んだ。


 だから私は、現世の娘を殺すことになんのためらいもなかった。娘が一人になる時に、睡眠薬入りの食事を与え、眠っている娘の首をロープで絞めれば良かった。しかし、家に帰ると、娘は驚くべき格好で眠っていた。下段の冷凍室に、両手を突っ込んだまま眠っていたのだ。おかげで娘の指は凍って固まり、不自然な首つり死体が出来上がった。娘は、自分が殺されることを知っていた。きっと私以外でも、娘の存在を疎ましく思う人間がいたのだ。それはそれで、良いと思った。警察がこれを自殺ではなく、他殺と判断した場合、娘の敵はいくらでも欲しいところだ。そしてその相手が、井瀬であることを望んだ。井瀬は御父様いわく、先天的覚醒者だ。井瀬が警察に捕まれば、裏切者と邪魔者と同時に処分できる。


 そして事態は私の思惑通りに進んだ。偶然にも井瀬が、死体の第一発見者となり、警察に目をつけられたのだ。しかも、裏切者のダイイングメッセージを、正しく読み解くものは警察の中にはいなかった。そればかりか、そのダイイングメッセージが、井瀬の元恋人を指していると考えられたようだった。これは私にとって僥倖であった。


 しかし、警察は遅れて帰宅した私を疑い始めた。私のアリバイは御父様が立証してくれていたが、それでも私への疑いが晴れることはなかった。そこで、御父様は最終手段に出てくれた。警察に圧力をかけて、これを自殺で片付けさせることに、成功したのだ。これでは井瀬を始末できなくなったが、同時に私も解放されることとなった。


 御父様は私の働きを褒めてくれた。これで御父様と二人きりで、平和に暮らせると思うと、嬉し涙が出るほどだった。


 しかし、その幸せは長く続かなかった。しばらくして、御父様の屋敷に警察の家宅捜索が入った。どうやら裏切者は、ただで死んではくれなかったようだ。警察にとっても、いまだに権力を振るう御父様が目の上の瘤だった。だから、警察も容赦がなかった。ただ、私の犯した罪が露見しなかったのは、警察も御父様の言いなりであったことを隠すためだった。


 こうして、御父様は逮捕され、私は今になって娘の不在を嘆きながら、たった一人で暮らすことになった。もちろん、家事代行サービスもクビになり、私はすべてを失ったのだ。



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