六章 手紙
それぞれの想い
空色の封筒を、私はしばらく棒立ちになって見つめていた。この期に及んで、まだこの封筒を開けるかどうか、迷っていた。悩んだ末、私は窓際の椅子に腰かけて、その封を解いた。達筆な黒い文字の羅列は、間違いなく親友のものであり、ノートなどで何度も目にしたものだった。あれだけ公園で泣いて、取り乱したのに、まだ親友の死に実感がない。だからこの手紙も、日常の延長にあるような気がした。
「私の大事な親友の空へ
ありきたりな言葉になるけれど、これを空が読んでいるということは、私はもう死んでるんだね。生きている内にこんなことを書くのは、とても不思議な気分だよ。だって、今は生きていて、さっきまで空と話していて、一緒に授業を受けたり、お昼を食べたりしてきたんだもんね。それがなくなると思うと、私もちょっと寂しい。
でも、私にはもう、あまり時間がないみたいなんだ。私はこれから殺されるんだと思う。薬で眠らされて、それからはどうされるのかは、分からないけど。日本の警察は有能だから、偽装工作をしても、すぐにこれが殺人事件だと気付くはず。素人が考えることだから、玄人から見れば、きっとお粗末なものだよ。でも、この殺人事件が公になるかも、私には分からない。誰かから聞くと思うけど、犯人は私の母親だと思う。私たち親子は、仮面夫婦ならぬ、仮面親子だから。
空には、本当はちゃんと自分の口から言いたかったんだけど、勇気がないからここで言うね。私はある人に、恋をしていたんだと思う。それも、かなり激しい恋だったと思う。自分の事なのに、「思う」の連発なのは、この恋心が現生の私のモノか、前世の私のモノなのか、自分でも分からないからなんだよね。前に、空が前世の話をしていたでしょ? それって、本当にあるみたい。私が覚醒したのは、あの事故以来なんだよ。隠しててごめんね。でも、こんな話は信じてもらえないと思ったし、これまでの人間関係が複雑になり過ぎるし、私が恋をした相手がばれてしまうのが怖くて、
どうしても言えなかった。本当にごめん。
どうしてこんな話をこんなところで始めたかって、不思議に思うよね。実は私の母親も前世の記憶を持っていたんだよ。それで、この殺人事件につながるの。母は、私が恋した相手に、とてつもない敬愛の念を抱いていたし、とても嫉妬深かった。だから母は、私が彼を独り占めしていたことや、私が何度も彼に会うこと、彼に愛撫されることが、許せなかった。私は初めは母がまさか前世の記憶を持っていて、しかも母の前世が彼の娘だと思いもよらなかった。だから、母には彼の事はばれなければいいと、簡単に考えて、私は彼の所に通っていたんだ。だから、空と帰らなくなったのは、図書館で勉強していたわけじゃなかったの。嘘ついてごめんね。謝ってばかりで、本当にごめん。
でもね、これだけは嘘じゃないから、信じてほしいの。私は空に幸せになってほしい。素敵な恋をして、自分の心に正直になって、本当の恋をしてほしい。私はこうしていなくなったんだから、もう空は私に縛られることはないの。空の曽祖父との約束も、破ってしまっても構わない。後悔のない恋をしてほしい。私の願いはこれだけ。
勝手なことを言ってしまうようだけど、泣かないでほしい。だって、私たち親友だよ。死んでいても、生きていても、それは変わらないよ。そうでしょ? だってこうして今もお互いのことを想ってる。空は迷惑かもしれないけど、私はいつだって空の事が大好きだよ。私は結局、彼よりも空を選んだ。空に本当の幸せを手に入れてほしいから。これは、私の最期のわがままで、最期のお願い。
空、泣かないで。笑っていて。大丈夫だよ。空が思い出してくれるたびに、私は空の隣にいるんだから。大切な私の親友。こんな手紙でさようならなんて、卑怯だよね。ごめん。でも、私は空といられて幸せだった。その時間は忘れないよ。本当にありがとう。
空、大好き。
〇月×日 告恋より」
「泣かないなんて、無理だよ……。レンちゃん」
私は大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、膝を折った。夕日が窓から差し込んで、部屋は真っ赤に染まる。手紙を胸に抱いたまま、私は泣き続けた。読まなければよかったという気落ちと、読んで良かったという気持ちが、交互に胸を埋めていく。まるで地層を作るかのようだ。いずれにせよ、この悲しみと苦しみ、そして痛みは忘れないでいたいと思った。
私の親友は、誰かに恋をした。その誰かは伏せられていた。おそらく、私の知っている人物なのかもしれない。井瀬か、もしくは悟なのかもしれない。よくある三角関係を、親友は回避しようとしていた。そこに、前世が絡んできた。親友の母親は前世の感情に逆らえず、娘に嫉妬し、憎み、娘を殺すに至った。前世なんて虚構じみたことは、本当なら信じられなかった。しかし、この手紙には真実しか書かれていない。すると、前世というものが本当にあるのだろう。私も、前世は他の誰かかもしれない。井瀬も、悟も、親友も、誰もかもが、前世の見えない糸でつながっている。そう考えると少しだけ怖かった。
そして、腑に落ちない部分が残される。この手紙は、ある意味では遺書だ。親友は実母が自分をころした犯人であると、名指ししているに近い。警察も井瀬の話を信じれば、捜査の途中までは、殺人事件として扱っていた。しかし、警察は突然この事件を自殺と断定した。検査をすれば、睡眠薬も出てきたはずであり、それを飲ませるには母親が怪しいと思われるのは、当然だった。それに、ダイイングメッセージも見逃されている。不自然な部分が多すぎる。警察はあてにならない。何かを隠している。一体何が起こっていつのだろう。
「ねえ、レンちゃん。もしかして、レンちゃんが恋した相手は――」
◆ ◆ ◆
俺は教室で、空色の封筒を見つめていた。何の変哲もない百均で買えそうな、封筒だった。おそらく、俺以外にも贈る相手がいたから、この封筒を選んだのだろう。封筒自体には意味がなかったとしても、この封筒の色は示唆的だった。彼女の親友の瞳の色。彼女が好きだった色。そして、俺への当てつけ。教室の俺の机にいつの間にか入っていた封筒。いつもならかわいらしい封筒に、女子の思いのたけを綴った便箋が入っている。だから、いつもはそんなに見ることもせずに、家に持ち帰って捨てていた。さすがに、教室のゴミ箱ははばかられたからだ。そんな中で、その空色の無地の封筒は素っ気なく、目立っていた。宛名も達筆な黒い文字だったから、余計に目に留まった。女子特有の丸い文字ではなく、色ペンでもなかった。
俺はしばらく、この手紙を持て余していた。読むべきなのだろうが、なんとなく、書かれていることは予想がついてしまっていたからだ。迷った末に、俺はこっそり家に手紙を持ち帰り、自室で封筒を開けて読んだ。その手紙は、短く、簡潔なものだった。
「―—―—へ
突然こんな手紙を書いてしまったことに、まずはお詫びするよ。ごめんね。私はおそらく、もうこの世にはいない。だから、まさに一生のお願いとして、この申し出を受けてほしい。
私が入学間もない頃、事故に遭ったことは知っているよね。だから気が付いたんだけど、貴方は空の恋人にはなれないと思う。空には好きな人がいる。貴方はもう、とっくに気付いているだろうけど、それは貴方じゃない。
私は最初、空と貴方が付き合ってくれることを、本当に望んでいた。それが空の幸せにつながると信じていたから。私には付き合っている人がいた。彼も、貴方と空はお似合いだと思っていたみたいだから、私もそう思った。私は本気だった。本気で貴方と空を応援した。
でも、空の時折見せる悲し気な表情が、私を目覚めさせてくれた。水は高い所から低い所に流れる。確かに流れに沿って一緒に流れれば、楽なことは楽。でも、空はそれを良しとしないの。貴方がとてもいい人だということは、私にも分かる。人間として優秀で、品があって、我慢強くて、男らしい。
私は正直、貴方が覚醒者だと疑った。だから空と付き合うんだと思った。でも、貴方は覚醒者ではなかった。それは私にとって、想定外だったから、驚愕した。覚醒者でもない貴方が、ここまで空に対して気遣ってくれたことは、本当に有難かった。空も貴方といて、気持ちが楽だったと思う。楽しかったと思う。だけど、楽だということと、楽しいということが、幸せに直結するかと言えば、必ずしもそうではないと思う。もし、楽な状態や楽しいだけの恋愛なら、それはきっと、恋に恋をする子供のする遊びだと思う。
貴方が空の幸せを願っていることは、知っている。もしかしたら、空と貴方が一緒になることが出来れば、誰も傷つかずにいられるかもしれない。一番の安全策だと思う。でも、それではいけないの。
だから、お願いします。空を自由にしてやって下さい。最後に、貴方を傷つけてしまって、本当に申し訳ございません。
〇月×日
海鳥告恋より」
俺はこの手紙を読み終わって、机を拳でしたたかに打った。この手紙には、不明な点が多すぎる。覚醒者とは何なのか。その肝心な部分には何の説明もなかった。字面通りならば、「目覚めた者」となるが、何をさしているのかは謎のままだ。しかし、「死人に口なし」という言葉があるように、もう彼女の口からその説明は望めない。不思議なことはまだある。手紙に記された日付だ。彼女が亡くなる一週間も前の日付になっている。つまりこの手紙は、彼女が自分の死期を察して書いたものなのだ。彼女は自分が誰かに殺されると知っていて、いつも通りに生活を送っていた。つまり、その時点で彼女は、自分の死を受け入れていたことになる。通常の精神状態ではない。もしかしたら、彼女は、犯人になら殺されてもいいと思っていたのかもしれない。ここまで考えて、俺は背筋が凍る。彼女が殺されてもいいと思える相手に、一人だけ心あたりがあったからだ。
◆ ◆ ◆
俺は自宅で空色の封筒を手にして、ベッドの上で天を仰いでいた。その封筒には一切宛先は書かれていないが、誰からなのかは、予想がついていた。
「ああ」
疲れの為か、声が出た。封筒は俺の家のポストに入っていた。俺の自宅の住所も、相手の名前もない、ただの空色の封筒だった。正面に、俺の名前が入っていたから、捨てられずに俺の部屋に置いてあった。達筆な黒い文字が、読まなければならないと、強迫観念を与えていた。これはお遊びで書かれた物でも、恋文でもないことを、主張する。家族には「変な手紙だったら捨てなさい。今日は大変だったでしょうから、早く寝て忘れなさい」と言われたが、どうしても、そうすることが出来なかった。
この手紙は、遺書なのだから、襟を正して読むべきだ。そうしなければ失礼だろう。彼女に対しても、彼女の親友に対しても。例え、この中の手紙に書かれていることに予想がついたとしても、読まなければならない。口汚く罵られるか。それとも、嘆願文でもあるのか。いずれにせよ、彼女が俺に望むことは、たった一つだろうあろうから。そして読んだら最後、彼女の願いを俺は聞き届けるべきなのだろう。
糊付けされた封筒の封を、指で弾くようにして開ける。手紙もまた、習字の手本のような、もしくは寺の住職が書いた経文のように、黒い筆文字だった。そして最後にはこの手紙が書かれた日付と、彼女の名前があった。彼女は挨拶もなしに、いきなり本題に入っていた。
「エニセイへ
貴方が、覚醒者ね? しかもただの覚醒者ではない。貴方は、私と同じように、交通事故で覚醒した。その時に記憶喪失になったのではなく、一時的に前世の記憶に振り回されてしまったのだと思う。貴方がいつ事故にあったのか、正確な時期は知らないけれど、幼い時と聞いた。つまり貴方は先天的覚醒者に近かった。だから、私の死体を一番に見つけるのは、貴方だと思う。
貴方は最初から全てお見通しだった。空が、何故こんなにも貴方に惹かれるのか。老父様が何故貴方をこんなにも警戒するのか。そして、私に対して何故素っ気ない態度を取り続けたのか。そして何故、私が殺されなければならなかったのかも。全部最初から知っていて、俯瞰していた。その眺めはいかがだった? さぞ、良かったのでしょうね。
分からないのは、覚醒者の貴方が、何故岩渕と付き合っていたかということよ。そして、何故空と一緒に逃げなかったのかということ。だって、貴方は誰が前世で誰だったのか、すべてお見通しだったのに。それなのに、貴方は、自分の心を殺したままだった。
確かに、神様がいるとしたら最低ね。だって悪戯が過ぎるでしょう? こんなにも「役者」を近い所に配置して、また同じ運命を辿らせようとしているのだから。きっと、ここは神様の箱庭の中なのよ。全てを鳥瞰していた貴方を含めて、神様は私たち「役者」を試した。誰が誰と手を組み、誰が誰と反目するのか。前世に引きずられるのか、引きずられないのか。私と空で言えば恋愛と友情の、どちらを選ぶのか。もちろん、私は空との友情を選んだ。だから、殺された。
でも、空と同じくらいに、私は老父様を愛している。だから決めたの。堕ちる時には一緒だって。私の使っていたパソコンには、老父様が国会議員を務めていたときの、脱税の証拠データがあるの。毒を食らはば皿まで。そして蛇の道は蛇よ。必死にデータを集めたわ。法律も犯したと思うし、かなり危険な橋を渡って来た。そのデータは、警察とメディアに向けて、一斉送信の予約をしてある。私がその予約を解除しない限り、老父様の悪事は世間に知れ渡ることになり、権威も威厳も失墜する。空が嫌っていた老父様の権威や威厳が地に落ちるなら、空も苦労はすると思うけど、一番の気苦労はなくなる。空はただのおとなしいだけの少女ではないから、きっと乗り越えられると、私は信じている。
そこで、貴方にお願いがあるの。警察はともかくメディアや学校で、空に迷惑が掛かると思う。だから、それらの無粋な興味関心と、迷惑で残酷な人々から、空を守ってほしい。これは、貴方にしか頼めない。だって貴方は本当は、空の事を一番に考えているはずだもの。だから、空と一緒に逃げて。悪意に満ちた箱庭から、空を連れ出して、一緒に逃げてほしい。今度こそ、二人で幸せになって。もう、死んでしまった私には、できなから。
本当に一生に一度のお願い。空を、お願いします。
〇月×日
チャイカ」
手紙を読み終えた俺は、再び天井を仰いで、ため息を吐いた。そこから、がっくりとうなだれる。強く握りしめたせいで、空色の封筒は歪んでいる。そして、その手紙をぐしゃりと握りつぶし、ベッドにそのまま横になった。拳で強くベッドを叩く。
「くっそ。俺は皆が不幸にならないようにしてきたはずなのに!」
腕で両目を覆い隠すと、悔しさと怒りで泣きそうだった。
「死ぬなんて、あり得ないだろ」
そう。俺は最初から前世の記憶があった。だから、高校に入って驚愕したのだ。誰が誰の前世を持っているかが、予想できたから。彼女の言葉を借りるなら、俺たちは神様の箱庭の中の住人だった。そして神様は、この上なく残酷で、子供のように無邪気で悪質だった。だから、前世の悲劇を繰り返さないために、俺は岩渕と付き合うことにした。岩渕には悪いが、これが皆が一番不幸にならずに済む方法だと思ったからだ。俺も質が悪いし、頭も悪いと認める。何故なら俺が選べるのは、皆が幸せになれる方法ではなく、皆が不幸にならない方法だったからだ。つまり、不幸にならない代わりに、幸せにもなれない、ということだ。俺ができるのはそれだけで、後はそれぞれが、それぞれの道で、自分だけの幸せを見つけてくれればいいと、思っていた。いや、この言葉は逃げている。自分だけの幸せではなく、その幸せで自分を納得させてくれればいいと、思っていた。
俺が自信をもって覚醒者だと言えたのは、事故後の海鳥告恋と、先天的覚醒者の湖上龍蔵の二人だけだった。つまり、この二人の前世が分かっていたから、その周りの人物たちの前世の予想がついたのだ。しかしまさか、告恋がその洞察力と観察力によって、俺の前世を言い当てていたことは、予想外だった。この手紙の内容から推察すれば、告恋は誰が誰なのか、確信を持っていたのではないかと思う。
「前世だだ漏れの奴が。くそっ!」
俺は腹立たしさを抑えきれず、手紙を丸めてゴミ箱に捨てた。
そして、走り出していた。
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