五章 殺意
死
朝のテレビで、ニュースを見ていた。一人だけの朝食にはもうすっかり慣れていた。それでも自分が発する音以外が聞きたくて、テレビを見ることと朝食を取ることが、ワンセットになってしまった。テレビの端に映るデジタル時計も、忙しい朝には必要なものとなっていた。身支度を整えると、すぐに昨晩に作り置きしていた朝食を食べたかったが、昨日交わした親友との電話以来、何もしていなかったことを思い出す。もちろん、今日の分の作り置きはなかった。そんなときの為に、食パンを買って置いている。忙しい朝の頼もしい味方だ。ご飯は冷凍してあるが、白米のままなのでおかずがいる。しかしパンならば、それだけで朝食になる。便利だ。いつもは和食中心の食生活を送っていたが、たまには洋食もいい。パンを焼いている間に、インスタントコーヒーを入れ、バターを準備する。ちょうどパンが焼あがり、香ばしい匂いが部屋に満ちる。すぐにバターを乗せて、パンの上で溶かす。コーヒーで口を潤し、パンにかじりつく。
その間にテレビは、私の関心のないエンタメの情報を流し始めた。食べることに集中し、片付ける。スマホで最低限のニュースを読むと、バッグを肩に掛けて、火の元などの最終チェックをする。私は意外に用心深く、心配性なのだと思う。誰もいない家の玄関で、「行ってきます」と声を出し、高校に向かった。
高校には徒歩で行ける距離だ。蝉の声が、朝から煩いくらいにあちこちから響いてくる。空には夏らしい入道雲があった。入道雲は積乱雲だから、天気が崩れるかもしれない。折り畳みの傘を持ってくればよかったと、少し後悔した。盛夏服なのに、まったく涼しくない。汗で肌に生地が張り付き、不快だった。しかし不快だったのは、それだけではなかった。先ほどから、いくつもの視線が私を取り囲むように刺してくる。私を見て何か話しているのに、私が視線を向けると、途端に口をつぐむ。これが女子だけなら何か陰口を叩かれていると思えばよかったが、男子生徒までもが同じ行動をとった。高校入学時と似ている。しかし、明らかに今回の方が悪意がある。そう言えば、今日は珍しく親友と会っていない。今日はいつもの登校時間からずれてしまったので、先に教室に行っているかもしれない。
私は悪意のある視線を無視して、親友が待つ教室へと向かった。しかしそこに親友の姿はなかった。一年一組だということを、思わず確認したのは教室内の不穏さに気が付いたからだ。皆、自分の席に座らず、壁際に張り付くように立って、ひそひそと話をしていた。それなのに、私が教室に入った瞬間、その声がぴたりと止んだ。この感覚に、名前はあるのだろうか。自分の足音だけを聞きながら、自分の席につく。まだ親友が来ていないようなので、文庫本を開いて読み進めた。それでも息苦しく、心臓がばくばくと音を立てていた。文章に全くついていくことが出来ず、耳の感覚だけが研ぎ澄まされる。
私が本を読んでいるふりを続けると、私を瞥見しながら皆、言葉を潜めて会話を始める。聞かせないように、聞かせている。そんな矛盾したものが、教室を満たしていた。親友は今日は休みなのか、それとも遅刻してくるのか、チャイムが鳴っても教室に姿を見せなかった。そして、担任の教師までもが、チャイムが鳴っても教室に来なかった。そしてその代わりに、スピーカーからマイクのスイッチを入れる音がした。全校集会の為、体育館にクラスごとに整列して来るように、というアナウンスだった。戸惑う私を一瞥しながら、クラスの皆は心得たように廊下に整列した。学級委員を先頭にして、ぞろぞろと廊下を出て体育館に向かう。日当たりの悪い廊下を歩いている内に、心細い気持ちになった。何故、私の親友は来ないのだろう。この全校集会と、親友のことが関係しているのだろうか。以前の臨時の全校集会は、駅でこの高校の生徒がタバコを吸っていたという、匿名の投書があったから開かれていた。いや。私の親友は問題行動等などを起こさないタイプだ。だから、きっと別なことだろう。
辿り着いた体育館は、水を打ったかのように静まり返っていた。中にはハンカチを握りしめた女子生徒もいる。いつもは全校生徒が集まっても、会が始まるまでざわざわしていて、不満や不平を垂れ流しているものだ。しかし今日は海の底のように静かだ。まるで、水に沈んだ都市のようだ。
校長先生が、登壇する。いつもは全校生徒が立ったまま行われる全校集会だったが、今日は座って聞くようにと、あらかじめ指示が出された。そして私の想像もできなかったことを話し始めた。
「皆さんも、新聞などで知っていると思いますが、わが校の生徒が亡くなりました」
新聞を取っていないことに、これほど後悔する日が来ようとは、誰が想像できただろう。この辺りの人々は、地方紙を取る。全国紙は図書館などで見るものだという、固定観念がある。体育館の水を打ったかのような静けさの正体は、皆が共有しているこの衝撃的な情報だったのだ。私の聴力は拡張され、延長されたようだった。心臓の音が、耳の奥で鳴っているかのようだ。
「亡くなったのは、一年一組の――さんです」
これだけ聴力が強化されていたのに、私の耳は肝心な名前を聞き逃した。同じクラスの仲間だと言うことだけでも、立っていられないほどだ。きっとこの衝撃的な報せに、倒れてしまう人が数人は出ただろう。だから先生たちは、あらかじめ生徒に座っているように指示を出したのだ。
私はきっと、その亡くなった生徒の名前を、わざと聞かなかったのだ。聞いてはならないと、思ったからだ。まだ学校に来ていない親友のことを想い、体が震えた。
「そして、これも皆さんがご存じの通り、第一発見者は一年二組の井瀬行人さんです。井瀬さんは現在、警察に協力しています」
若干だが、確かに空気が変わった。特に隣で並んでいる二組の生徒たちが、互いの顔を見合わせている。そこに何らかの答えが書いてあるわけでもないのに、まるで互いの顔色を確認しあわなければ落ち着かないかのようだった。私の心臓が大きく跳ねた。いつの間にか、制服のリボンを強く握りしめていた。ちょうど胸の辺りだ。呼吸が苦しかった。座っているはずなのに、地震が来たみたいに体がグラグラと揺れる感覚がある。そんな私の異変には誰も気づかない。ただ淡々と、校長先生は続けた。
「現在、詳しいことは分かっておりません。本校も井瀬さんのように、警察にできる限りの協力をし、皆さんの心のケアに努めてまいります。スクールカウンセラーの方も今日からいらっしゃいますので、何かあれば、相談室に行って話を聞いてもらってください。なお、本日の授業は変則的になりますので、各教科の先生方の指示に従ってください。部活に関しましては、しばらくの間、活動休止とさせて頂きます」
大声で泣き出す少女がいると思えば、ハンカチで静かに目尻を拭く少女がいた。あちこちで、洟をすする音がしている。それなのに、静かさばかりが際立っていた。
やがて全校集会は終わり、生徒たちは流れに沿うように、自分たちの教室に戻り始めた。私も蹌踉とした足取りで歩き出す。紺色のスカーフを握りしめたまま、浅い呼吸を隠した。
それでも心臓の音だけは、他人に聞かれると思われるほど大きかった。一年一組の生徒が死んだ。そして親友は登校してこない。教室に戻ってすぐにスマホの電話をかけたが、お決まりのセリフが電子音声で流れるだけだった。電波の届かないところに、いるのかもしれない。電源が入っていないだけかもしれない。だから、メールとLINEで気が付いたら電話をくれるようにと、懇願することしかできなかった。相変わらずクラスメイト達は、私に近づいて来ない。私と目も合わせようともしない。まるで今回の事の現況が私にあって、それが伝染するかのような距離の取り方だった。
全校集会があったため、朝のホームルームは行われず、いきなり一時間目の生物が始まる。生物室に移動し、私は机の下でずっとスマホを握りしめていた。口の悪い生物教師が、開口一番に、授業をやらないから説教を聞けと言った。体育館同様に、皆が押し黙っている。
「はっきり言って、自殺するのはかなり苦しむ。だから、息を止めて死ねないなら、自殺なんてやめておけ。そうだな。一番汚いのは首つりだな。穴という穴から全部中身が飛び出す。手首切っても、死なないぞ。血が固まることぐらい分かるだろ。一度毒ガス自殺が流行ったが、あれは自分の死体が汚い上に近所迷惑だ。生物学的に言って、自殺は汚い。それから、死体で一番グロテスクなのは、水死だ。魚から散々食いらされて、ぶよぶよにふやけて、誰かもわからない。お前らは、ドラマや漫画の読み過ぎで、自殺がきれいなものだと勘違いしている。だが、実際の自殺体は目も合わせられないくらい、汚い」
生物教師は、時々私たちの方を見ながら、疲れたような表情で、ずっと自殺体の気持ち悪さと汚さについて語った。今日の地元紙にこの一件が載っていたということは、実際に生物教師は疲れていたのだろう。学校にも連絡が入っただろうし、教師たちも学校に呼び集められたようだ。つまり、教師たちは昨日はほとんど眠っていない上に、警察に協力し、こうして授業の時間を用意したのだ。生物教師は、生物の話の延長上で自殺の話をしたのだろうが、私には疑問ばかりだった。
「凍死が一番マシだが、寒いぞ」
投げやりに、生物教師が言った。先ほどから自殺の話をしているが、今回の一件は、自殺と断定されたのだろうか。校長先生の話では、まだ詳細は語られなかった。本当に、自殺だったらいいのに。そんなことを私は考えてしまう。私の親友なら、絶対に自殺なんてしないからだ。実際私の親友は、最近充実した日々を送っていたはずだ。そんな彼女が自殺なんてするはずがない。そんな最低なことをする理由がない。そんなことになる前に、私にちゃんと話してくれているはずだ。そのための親友だ。親友に何の相談もせずに死ぬなんて、あり得ない。昨日は電話で話をしたが、予兆は見られなかった。そんな時、握りしめていたスマホが震えた気がして、すぐに画面を見るが、LINEに既読はついていなかった。震えていたのは、私自身だった。
生物室から教室に戻るとそこは、がらんどうだった。まだ、私の親友は学校に来ていない。次は現国の時間だった。現国の教師は、いつものいかつい顔に影をおとしていた。やはり、疲れが隠せないといった様子だった。現国の教師は、原稿用紙を前から配り始めた。私の手元にも、普通の原稿用紙が三枚回って来た。
「今日の時間は、今の自分の考えをその原稿にまとめることだ。悲しいでもいい。悔しいでもいい。自由に書いていい」
初めは戸惑たような生徒たちだったが、やがて原稿用紙にシャープペンシルを走らせ始める。私も、原稿用紙に目を落とした。四百字詰めの原稿用紙。真っ白な紙に、茶色の四百個の枠が、整然と並んでいる。その空白を目にしたとき、突如その枠の一部の色が、丸く灰色に染まった。私の涙を、紙が吸っていたのだ。私はシャープペンシルを握りしめたまま、涙を流していた。ハンカチをスカートのポケットから出して、原稿用紙を拭いたが、紙は脆く、ボロボロになるばかりだった。その上、次々と涙が落ちて、原稿用紙に水玉模様が出来ていた。認めたくなかっただけだ。私が認めてしまったら、本当に親友の存在が消えてしまいそうだったから。でも、全校集会で校長先生が声にした生徒の名前は、確かに私の親友のものだった。聞き間違えるはずはない。耳朶に馴染んだ名前だった。
先ほどの生物教師は、自殺について話した。それはおそらく、感受性の強い私たちが、クラスメイトの死に引きずられないようにするためだった。つまり、親友が自殺したのではないのかもしれない。まだ、先生たちも分からないのかもしれない。しかし、それならば何故二組の井瀬行人が、警察に協力する必要があったのか。自殺でも第一発見者は、警察に協力しなければならないものなのだろうか。それにしても、何故井瀬行人は私の親友の家に行ったのか。お互いに距離を置きたい間柄だったはずだ。特に岩渕と別れてからは、ずっと井瀬を避けていた。それなのに、一体井瀬は何をしに行ったのか。まさか。親友が自殺ではないという前提に立てば、井瀬が何をしていったのかも自ずと見えてくる。まさか、私の大事な親友は、殺されたのか? それも井瀬の手によって?
私の親友は、井瀬に殺された?
心臓が早鐘を打ち、全身から嫌な汗が噴き出す。耳の奥で低い耳鳴りがしている。私はハンカチで涙と洟をぬぐい、突然立ち上がった。現国の先生が驚いたように私を見た。
「具合が悪いので、保健室に行ってきます」
私は呆気にとられる現国の先生を無視するように宣言し、教室を飛び出した。教室を出る際に、私の後方でクラスのざわめきが起こるのを感じた。朝からの皆の反応と同じだった。クラスの仲間が死んだと言うのに、クラスメイト達は、まるで猥雑な娯楽のように親友の死を受け止めていないことが、悔しかった。そして私がとる行動も、言動も、全てクラスメイトにとっての玩具だった。岩渕と付き合っていた井瀬。その井瀬は岩渕から振られた。もしかしたら井瀬はその腹いせに、私の親友を殺したのではないか。そしてその復讐を私がとるのではないか。そんな下世話な期待と、事件への興味が入り混じっていた。
私は保健室には行かなかった。向かったのは、何度もお邪魔したことがある親友の家だった。その途中、私は意外な人物に呼びとめられた。
「おい」
低い男の声だった。
「え?」
私は思わず立ち止まり、瞠目した。彼は今、警察に協力しているのではなかったのか。いや、そんなことよりも、私は彼に聞きたいことが山ほどある。何から問いただせばいいのか分からないくらいだ。そんな私の心を読むように、彼は言った。
「少し、話せるか?」
「う、うん。でも」
彼の切羽詰まったような表情に、思わずうなずく。しかし相手は警察という国家権力だ。途中で逃げてきたとして、後々面倒なことにはならないのか。
「大丈夫だ。警察は自殺だと断定したから、俺は用済みだ」
「じさつ?」
彼は誰が自殺したのか、わざと伏せているようだった。しかも、彼は今、意味深なことを言った。「警察は」である。「警察が」ではない。これではまるで、警察が親友の死を、自殺として片付けたがっているように聞こえる。本当は、殺されたにもかかわらず。
「詳しくは二人だけで話したい」
やはり彼は、何か私に伝えるべきことを持っている。そう直感した。しかし制服姿の一組の男女が、喪に服しているはずの時間に、学校を抜け出していると分かれは大問題だ。進学校として地元では有名であるだけに、下世話な噂をたてられれば、高校の面目が丸つぶれだ。それを高校に告げ口されれば、私と彼が密会していたことが公になる。誰もいないところで、一目につかない場所を私は必死に探す。そして近くに児童公園があったことを思い出す。その公園には隠れる場所が沢山あった。
「こっち」
私は児童公園の方向に舵を切った。井瀬もそれに倣った。
私たちが公園に着くと、やはり誰もいなかった。子供の数が減り、公園を常に利用していた幼稚園は移転し、街中に取り残されたような公園は静かだった。不衛生な砂場には、野良猫や野良犬の糞尿がそのままになっている。滑り台は塗装が剥げて錆びている。その滑り台の上に、家の形を模した遊具がある。梯子を上ると、がらんとした空間があった。それなのに椅子と机は、小さいながらちゃんと設えられている。砂が溜まっているが拭けば問題ないだろう。問題なのは大きさだ。元々子供用なので、私でさえ屈まないと椅子に座れない。背が高い井瀬の場合は、かなり無理がある態勢だった。結局井瀬は椅子に座らず、バッグを床に敷いて、その上に座った。
「自殺ではないんでしょう?」
私はハンカチを敷いた上に座って、すぐに本題に入った。
「どうして、そう思う?」
「する理由がないからよ。する性格でもない」
「凄い自信だな」
鼻で笑う井瀬を、私はにらんだ。すると井瀬は突然こんな話を始めた。それはおそらく、他の人間に漏らしてはならない事項だったが、井瀬は悪びれる様子が全くなかった。
「髪が少しだけ、ロープの輪の中に入っていた」
背筋がざわりとした。ロープということは、首つりということか。さっきまで聞いていた生物担当教師の言葉を思い出す。虚構の中では奇麗に語られる、汚い死に方。そんなものは、やはり親友に似合わなかった。目の前にいる青年は、確かに親友の最期の姿を見てきたのだ。そして、病室でのやり取りを思い出す。親友の髪の毛は、後ろだけ長くなるのが早かった。そして、これから髪の毛を伸ばそうとしていた。しかし、首つりなのだから、首を覆う髪の毛が輪の中に入っていて当然ではないか。一体それのどこがおかしいのか。
「自殺するつもりで、動いてみろよ。すぐに気づくぞ」
私は井瀬が持っていたコンビニの袋を受け取った。コンビニの袋にしては大きめの袋だった。私はその端と橋を結んで、自分の頭がやっと通るくらいの輪を作り、そこに首を通した。実際に死のうと言うわけでもないのに、心臓が激しく音を立て、緊張していた。輪に完全に頭を通すと、私は後ろの髪の毛を両手でかき上げた。
「あ」
それは全く無意識な行動だった。ただ単に、髪の毛が邪魔だったからだ。首全体に髪の毛が張り付き、思わず髪の毛を輪の外に出していたのだ。
「長髪の首つり自殺の場合、女なら余計に、今みたいに髪を自分で外に全部出すだろ?」
「そう、ね」
「それに、無理なんだ。もう一回。今度は髪の毛を気にせずやってみろ」
何が何だか分からなかったが、私は井瀬の勢いに押されてうなずいた。
私はもう一度ビニールの輪に、頭を通して、ビニールの上の部分を自分でつまんで、持ち上げようとした。その時、ビニールが髪の毛で滑って、頭が輪の中から出てしまった。確かにこれでは首つりはできない。つまり、親友は自殺に見せかけて殺されたのだ。しかも一番死体が汚くなる方法で。
「ヒドイ」
井瀬は同意するように、軽くうなずいた。そしてさらに、警察に口止めされているようなことを言い出した。
「地蔵背負い、っていうらしい」
「地蔵?」
何だか柔道の技名のような響きだった。それとも仏教用語なのか。しかし柔道の技名も仏教用語も、しっくりこない。しかも井瀬の表情は緊張をたたえていて、それが即ち親友の最期と深く関わっていると告げていた。
「地蔵の首に縄をかけて背負うと、重いはずの地蔵でも、わずかな力で持ち上げることが出来るって言っていた。この方法なら、女性でも、片腕を怪我した男性でも、誰でも簡単に人間一人を殺せるらしい。しかもその時に残る縄の形状は、首つり自殺のものと似た形状になる。そう、言っていた」
「そんな」
私は衝撃のあまり叫ぶように言った。「誰でも簡単に、人が殺せる方法」があるなんて、信じられない。そして親友の殺害方法の名前が「地蔵背負い」という、殺害方法その殺害方法そのままであることも。
「何でそんなこと知っているの?」
私は井瀬をにらむように言った。普通の高校生がそんな都合のいい殺害方法を、咄嗟に思いつくはずもない。井瀬はため息を吐いて、白状した。
「警察に、そうやって殺したのかと聞かれたんだ。俺を犯人にしたかったようだ。でも、途中で警察の動きが急に慌ただしくなって、ワケの分からないまま、追い出された」
警察は井瀬を犯人にしたかった。それならば納得がいく。
警察としては、何らかの証拠が必要だった。例えば一番に思いつくのが、犯人による犯行の自白だろう。しかし状況証拠的に、地蔵背負いを知っていなければ、犯行は無理だった。だから警察は「お前はこうやって殺したんだろう?」という説明を入れる。そこで何らかの形でyesを引き出せれば、警察の勝ちだ。裁判の証拠としても、井瀬が初めから地蔵背負いを知っていたとすれば、検察にとって有益な情報となる。証拠の捏造は簡単だ。警察の説明部分を消して、編集すればいい。それなのに、途中で警察はこの事件を自殺とすることになった。まるで、外圧が警察内部に密かにかかったように。
「一体、何が起こっているの?」
独り言のように考え込んで呟いた私に、井瀬は「分からない」と首を振る。だが、井瀬は驚くべきことを口にする。
「ただ、ダイイングメッセージがあった」
「え? だって、抵抗できないんじゃ……?」
地蔵背負いでは、犯人から急に体を持ち上げられる。この時、手足は宙に浮いてしまう。これでは何らかの形で、何か書く余裕はないはずだ。そう考える私に、井瀬は右手の人差し指を立て、左手の人差し指と中指を立てて見せた。右手は一を表し、左手はピースサインを表しているような格好だ。
「指が、こうなっていた。俺はダイイングメッセージだと思う」
「警察は、気付かなかったの? だってあまりに不自然でしょう? それに犯人だって、そんな指の形を見たら、直そうとしたはずでしょう?」
「犯人は、直したかったけれど、直せなかったんじゃないか?」
「どういうこと?」
「死後硬直が始まっていた、とか」
「それじゃあ、地蔵背負いできなくないの?」
全身が硬直していた場合、自分の背中に背負った時に不具合があるはずだ。それに、まだ死んでいないのに「死後硬直」というのは違和感がある。
「もしも、殺されるかもしれないと気付いて、その殺害方法が分かっていたとしてという仮定のもとになるけどな。死んでいたのは台所だってことも、これなら納得できるんだ」
「もったいつけないで」
私は井瀬の遠回しで、情報を小出しにするような言い方に腹が立った。まるで陳腐な探偵のようではないか。それはフィクションだから許されるのであって、現実的には失礼だ。
「冷蔵庫、もしくは冷凍庫に、手だけその形のまま入れていたらどうだ?」
私ははっとして、制服を見た。今は盛夏服の期間。もしも一部だけ冷やされていたら、その部分だけ、死後硬直が早まるのではないか。昔見た刑事ドラマで、電気毛布で温めた死体の死亡推定時刻を、ずらすというトリックがあった。もしも手だけがあらかじめ冷やされていたとして、殺された後にそれが死後硬直に影響した、ということか。
しかしそれでも疑問だらけだ。日本の警察は有能だと言う。そんなことに、気付かなかったわけがない。何故、そこまでして親友が最期に残したメッセージを踏みにじるようなことが出来るのか。私の中では怒りが渦を巻いていた。親友は台所で自殺に見せかけて殺され、警察に残したメッセージは踏みにじられ、自殺という不名誉なことで片付けられようとしている。これが許されてなるものか。そう思って歯を食いしばった時、頭の中に閃くものがあった。
「どうしてそれが、ダイイングメッセージだって思ったの?」
「最初は分からなかた。でも、どう考えても不自然だった。だから犯人の事を伝えたかったんだと思う」
「もしかして、その意味に心当たりがあるんじゃないの?」
井瀬は一瞬、驚いたように私の目を見た。私が目を逸らさなかったから、井瀬は観念したようにため息を吐いた。
「どうして、そう思う?」
「分からない。でも、そう思ったの」
「お前は覚醒者じゃないんだろ?」
「何、それ?」
私は井瀬が話をはぐらかそうとしているのではないかと、苛立った。顔をわずかにしかめた私を、井瀬はまじまじと見る。そして、井瀬は首を横に振った。
「いやいい。それなら、いいんだ」
井瀬はどこか安堵しているような、それでいて悲し気な表情になる。覚醒者とは謎の言葉だが、今はそれよりも大事なことがある。指は、何かを指しているのか。右手は床を指していて、ピースサインは平和だろうか。右手が利き手だから、右から読むのか。それとも関係ないのか。床と平和。ユカとヘイワ。アナグラムか。もっと複雑な暗号か。アナグラムで人の名前なら、心当たりがある。
「いわぶち、ゆか?」
私の親友と喧嘩した相手の名前だ。残念ながら「ぶち」は入っていないが、「イワ」と「ユカ」が入っている。そして動機も十分にある。岩渕はきっと、親友を恨んでいただろうから。
「二組の岩渕由香。貴方の、元彼女が犯人じゃないの?」
「それはない」
井瀬は間髪入れず、きっぱりとそう断言した。どこからその自信が来るのか。
「俺はきっと、犯人とニアミスだった。犯行時刻の直後に現場にいたから、警察も俺を犯人扱いしたんだ。だから岩渕は違う。あいつには、アリバイがある」
「どんな?」
「俺も遺体の指を見て、岩渕がやったんだと思った。だから、すぐに電話をかけた。そしたら、不承不承に答えたよ。県立図書館にいるって。念のためその時のカウンターの司書の名前を聞いておいた。それからすぐに県立図書館に電話をかけて、カウンターに出ている司書の名前を聞いた。そしたら、見事にあいつが言っていた司書の名前が一致していた。だから、現場から遠くにある県立図書館にいたあいつには、犯行時刻のアリバイがある。あいつには、絶対に犯行は無理なんだ」
「じゃあ、一体何を表しているの?」
肩透かしを食らった気分だった。自分では自信があっただけに、無念だ。ではその指は何を表しているのだろう。指示していないなら、そのままの意味か。例えば数字の一と二、なのだろうか。それとも英語でoneとtwoなのか。
「俺は数字だと思う」
今度は私と井瀬の意見が一致したが、井瀬の方が深く考えていたようだった。だから井瀬は続けたのだ。可能性の範囲内での推察ではあったが。
「ロシア語の、数字」
「どうして?」
それは突飛な推察だと私には感じられた。英語でも韓国語でも中国語でもなく、ましてドイツ語やフランス語などの言葉でもない。ロシアという国は知っているが、その言葉はマイナーだと言わざるを得ない。親友がその勉強をしているという話も、全く聞いたことがない。いや、しかし、待て。私はつい最近、ロシアについて関りを持った。悟だ。金井悟は、ロシアの幻想文学のファンだった。しかもとてもマイナーな。だとしたら、ダイイングメッセージを残すときに、そのメッセージを解くのが悟だと、親友は予測していたのだろうか。第一発見者が悟ならば、正しくメッセージを読み取れると信じていたのか。私の彼氏ならば、気付くはずだと。しかし、実際の第一発見者は井瀬だった。
「ロシア語には、数字の一であるアジンと、数字の二に当たるドゥバーを使った、日本語にそのまま訳すと、奇妙な言い回しになる言葉があるんだ」
私は身を乗り出し、生唾を吞んでいた。
「まず、ドゥバ・スローバ。これはスローバが言葉だから、二言と訳せる。でも、違うんだ。二言と言っておきながら、正しい訳は、一言となる。日本語でも一言、言わせてもらう、なんていうだろ? それと同じ意味」
井瀬は指を立てたり折ったりしながら、自分の推論を述べた。
「次に、セイチャス・ドゥバ・アジン。セイチャスは今。これは正しく訳すと、今は二人だけ、となる」
「一言、言うならば、今は二人だけだ」
私の復唱に、井瀬がうなずく。
「まあ、意訳すれば、〝遺書〟くらいの意味だろうな」
そう言ってから井瀬は、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「あいつが二人だけになる相手は?」
そう問われて初めて、私はその相手に行き着いた。心臓がまた大きな音を出し始めた。頭の中では、「それしかない」という確信と、「そうであるはずがない」という否定が、走馬灯のように回っていた。
「死亡推定時刻は、聞いたの?」
「昨日の夜らしい」
「嘘よ。あり得ないわ」
親友の家は母子家庭。娘一人に母一人の、仲の良い親娘。家事も分担していて、会話があって、そんな普通の幸せな家庭がある。母子家庭だからと言って、全ての母子家庭の子供が寂しい思いをしているわけではないと、私は親友から教えてもらった。確かに家計は苦しいだろうが、親友の母親は不定期でも働いていた。私が以前に遊びに行った時も、嫌な顔一つせずに向かい入れてくれた。二人とも、目鼻立ちがくっきりした美人で、並んで歩くと姉妹のようだった。それなのに、あろうことか母親が一人娘を殺したというのか。
「だって、動機がない」
「他人が何を腹の中で考えてることなんて、分からないもんだよ」
殺人事件の多くは、血縁者が犯人だと、何かで聞いたことがある。しかしあの母娘には、とうてい似合わない。
「凄く、仲のいい二人だったのに」
「そう見えただけ、もしくはそう演じていただけかもしれない」
「じゃあ、貴方はどうしてレンちゃんの家に行ったの⁈」
「少し落ち着け」
「本当は全部嘘で、貴方が殺したんじゃないの?」
言葉に隠された悪意と敵意は、針のようになって井瀬にまっすぐに向う。
「岩渕さんから別れられた腹いせに!」
私は充血した目で、井瀬をにらんだ。第一発見者をまず、疑うべきだった。そもそも、不思議なことだった。親しくもないし、接点もそれほど持っていない井瀬が、親友の家を調べて夜に一人で訪問し、台所で遺体を発見するなんて、あり得ない。井瀬は答えに窮した。しかしその様子は、何かを隠しているのではなく、秘密を暴露してしまおうか迷っているように見えた。
「落ち着けって。俺は犯人じゃない」
そう言ったきり、井瀬は黙ったため、気まずい沈黙が流れた。井瀬は長く息を吐き出し、私の目を見た。
「お前の親友は、危ない橋を渡っていた。だから、警告するつもりで家を訪ねた。インターホンを推しても応答がなく、鍵が開いていたから、そのまま家の中に入って、台所で遺体を見つけた。俺も最初に思い浮かんだのは岩渕だった。だから彼女のアリバイを確認した。その後、すぐに警察に連絡した。その待機中に、ダイイングメッセージに気付いた。警察は初め、俺がお前の親友を殺したと思っていたらしいし、自白の強要もあった。その方向で捜査が進んでいくのだろうと、俺も思っていた。でも、朝になってしばらくして、警察の雰囲気が変わった。自殺の方向に転換したようで、俺も解放されて、今ここにいる。それだけだ」
淡々と話す井瀬が、嘘をついているとは思えなかった。おそらく、井瀬は言ったとおりに行動してきたのだろう。警察にもそう訴えたのだろう。幾分、話慣れた感覚がある。そしてその話の中にも、引っかかる部分があった。
「危ない橋って、何?」
私の親友は、言葉遣いや行動がさばさばしているから、男女ともに人気があった。それに最近は、放課後に図書館で勉強を頑張っている。顔が広い親友にとって、私は大勢の友達の中の一人だったかもしれない。でも、私を親友だと言ってくれて大事にしてくれた。親友は私にと手のオアシスだった。どんなに辛くても、悲しくても、何故か親友と一緒にいるだけで、心が凪ぐ。話をしている内に、何故か私まで笑顔になれる。そんな親友が、危険なことをしているなんて、信じられない。明るくて何に物怖じしないが、基本的には真面目なムードメーカー的存在だ。仄暗い場所には、きっと近付きはしないだろう。きっと何か危険を感じたら、そこから距離を取るくらいの要領の良さは、兼ね備えているはずだ。それなのに、井瀬の言葉はまるで親友自らが、危険なことに身を投じたように聞こえる。腹立たしかった。一番近くで親友を見てきた私より、井瀬の方が親友の裏の顔を知っているなんて、納得できるはずもない。井瀬は、唇をかみしめて俯いた。その足元で、ザリリと砂が擦れる音がした。
「ごめん。それだけは、言えない」
「どうして⁉」
私は思わず乱暴に机を叩いて、立ち上がった。机は砂でざらついているのに、ジュースでもこぼしたようにべたべたとしていた。何もかもが、不快だった。こんな汚い空間も、夏の光を背負った井瀬も、暗がりに座っていた私も、蝉のうるさい声も、今までの会話も。親友がいないという事実も。こんな世界は、親友がいなければ、私にとって何の意味もないのに。バカみたいだ。全部、嘘なら良かったのに。そんな風に感じる私も、まだ親友がどこかで生きていると思っている私も、バカみたいだ。どうしてこんなことになったのか。井瀬も皆も、いなくなればいいのに。握りしめた拳が、わなわなと震えだした。井瀬は申し訳なさそうに、私を見つめているが、そんなことを私は望んでいなかった。こんな無様な私を見ないで。泣きそうになるから。悔しさが溢れてしまいそうだから。もう、耐えられないと思った私は、椅子に敷いていたハンカチを握り、踵を返した。
「ごめん、ちょっと一人にして」
「大丈夫か?」
「うん。顔、洗ってくる」
小さな家の形をした遊具から外に出ると、空は青く、雲はどこに行ったのかと思うくらいに均一だった。日差しだけが相変わらず強く、肌を指す。私は公園の隅にある蛇口をひねる。勢いよく水が出て、最初は濁っていた。しばらくしてから、透明な水でハンカチを洗い、ついでに自分の顔も洗う。豪快な音を立てながら、顔を執拗に洗う。何度も繰り返して洗ったが、やはり駄目だった。一度流れ出した涙は、何度洗い流しても止まらない。私は息切れしながら、蛇口の前に膝をついた。
「レンちゃん。嘘、だよね? もう会えないなんて、嘘だよね?」
顔に冷水を浴びせる。
「嘘だって、言って。お願い、レンちゃん!」
バッグの中にはスマホがあると、思い返した。でも、きっといざとなったら、臆病な
私は親友の番号をおしたり、LINEやメールも送ったりできない。機械的な声で、その電話がもう使われていないと知るのが怖い。既読が永遠につかないメッセージや絶対に返信が来ないことも、怖い。どれも親友にもはやつながらないと知るのが、怖かった。蛇口に手をかけた瞬間、水性インクに水が垂れたように、世界がにじむ。私はこの世界を、壊したかった。
「レンちゃん、レンちゃん! 嫌だよぉ! レンちゃ……」
最後は、言葉にすらならなかた。私は嗚咽を漏らしながら、ずっと水道の前で親友の名前を呼んでいた。けして、返事がないと分かっていたからこそ、だった。
そんな時、不意に私の視界が青く染まって影が出来た。前方できゅっきゅと音がして、水が出る音がなくなった。
「それ、大丈夫って言わないだろ」
「だって、だって……。レンちゃんが……」
私は手の中にハンカチを握りしめ、頭から井瀬のタオルをかけられたまま、崩れ落ちた。
「ああああああああああああっ!」
絶叫が、タオルの中で反響した。私はもうこらえきれずに、井瀬の前で号泣していた。そんな時、井瀬が私の二の腕を強引に引っ張り上げた。無理やり立たせられた私は、顔が何かに押し付けられた。それはほんの一瞬の出来事だった。私は井瀬に抱きしめられていた。そうとも気付かずに、私はひとしきり泣いた。私が徐々に落ち着きを取り戻したところを見計らって、井瀬は私を腕の中から解放した。まるで、自分の役目が終わったかのような、突き放し方だった。
「そのタオル、もういらないから捨てろ」
「洗って返すわ」
「悟に知られたら、面倒だろ」
「あ……」
私の頭からタオルを引きはがした井瀬は、そのままゴミ箱にタオルを捨てた。
「それから、これ」
井瀬が差し出したのは、空色の無地の封筒だった。そこに記されていた文字に、目が釘付けになる。
「レンちゃん⁉」
そのきれいな文字は、親友の字だった。私が間違えるはずがない。今まで何度もノートや手紙で見てきた字だった。
「レンちゃん」
私が胸にその封筒を押し当てると、大粒の涙が頬を伝った。
「いつの間にか、俺の机に入ってた。たぶん、この時に渡すようにってことだろ」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、バッグ持ってくるから、待ってろ」
そう言うなり、井瀬は遊具の梯子を上り、私と自分のバッグを持って梯子の上から飛び降りた。運動神経がいいのか、単に身長の問題なのか、井瀬は見事に着地した。そしてすぐに汗だくになりながら、私のバッグを渡してくれる。
「家で読めよ。こんなところで泣いてたら、熱中症になるぞ。じゃあな」
井瀬は何事もなかったように、公園を後にした。私もそれに続くように、家路についた。
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