四章 裏切り
幻想
空と金井が付き合い始めたということは、瞬く間に学校中に知れ渡った。金井ファンの女子たちは、空を敵視するよりも、二人の姿を見て悦に浸るような性質をしていた。空を敵視し、岩渕と別れれば互いをライバル視するような、井瀬のファンとは違った反応だった。確かに、金井と空は元々二人で一つだったかのように、おさまりが良かった。それに金井は私を、空の親友として認めてくれていた。金井と空が二人きりでいたときでさえ、金井は私が姿を見せると自分から身を引いた。もしくは、二人の間に私が割って入ることさえも許していた。当然、三人で過ごすことも増えた。皆が「古風」と言い表していた金井は、紳士的だった。女子の憧れをスマートにこなし、優しい。感情表現が豊かではないが、それはすなわち金井の人間としての器の大きだった。金井の隣で笑う空を見て、私は随分と心が和んだ。井瀬はすっかり蚊帳の外に置かれ、岩渕の計略は失敗した。
私は肩透かしをくらった気分だった。金井は思っていたよりも良い奴で、空だけでなく、空の親友の私も大事にしてくれる。私には敬意の眼差しまでくれる。こんなことならば、もっと早く空に井瀬を諦めさせ、金井を推せば良かった。井瀬は岩渕から振られて以来、様々な女子から告白を受けたようだが、ずっと一人でいる。岩渕を引きずっているようには見えないのだが、他に興味がないように振舞っているそうだ。けれど、井瀬の事はもう過去の事だった。
放課後、私は金井と空が並んで帰る後ろ姿を見送って、空の曽祖父の家に赴いた。最近は金井がいるから安心して空を任せることが出来た。そのため、私は頻繁に空の曽祖父に会いに行っていた。表向きは近況報告だったが、私はどうしても「老父様」と心と体を重ねたかった。ここ一週間は、毎日通っている。空には図書室で勉強してから帰ると、嘘をついた。その背徳的なことが、さらに私の体を熱くした。私の頭の中は常に龍蔵のことでいっぱいだった。
インターホンを鳴らすなり、「私です!」と門の前で叫んでいた。龍蔵もすぐに門を開けてくれたし、玄関ドアの鍵もすでに解除してあった。龍蔵も私を待ってくれていると思うだけで、ショーツの中は濡れていた。応接間にいる総白髪の巨躯の老人に、私は抱きつき、しばらくその匂いを嗅ぐ。そして二人で目を合わせると、それはもはや情事開始の合図だった。
「老父様」
私は、近況を報告した。もはや私の近況報告は、御褒美を沢山受け取りながらするものだと決まっているかのようだった。龍蔵も、それを拒まなかった。
「金井はいい子ですね」
甘美で途切れ途切れの息の中で、私は溺れるように言葉を吐く。その言葉は前世の私のモノだった。
「さすがは老父様の選んだ男だけありますわ」
龍蔵が、大きな手で私の顎を撫でた。
「お前が気にいってどうする?」
冗談交じりのその言葉に、私はたまらなく幸せを感じて微笑んだ。
「まさか」
私には「老父様」がいるのだから。
「空も金井に夢中です。きっと老父様の夢も叶います」
龍蔵も満足げだった。
「食わず嫌いは感心しない。何事もな」
「はい。もちろんです」
「裏切るなよ」
「はい」
何を裏切ると言うのだ。空の事ならば、ここに初めて来た日からずっと裏切り続けている。ここで、こうして毎日、空を裏切っている。それなのに、この豪胆に見える老人は、私の裏切りを前世からずっと怖がっている。私の裏切りに怯える龍蔵を、私はますます愛おしく思った。権力も権威も衰えず、若い私よりも精力に満ちた一人の巨躯の老人。そんな龍蔵が、たかが女子高校生一人の嘘を恐れている。そのことだけでも、私にとって愛おしく甘美だった。
同じ頃、金井は空の手を握ろうとしていた。しかし、それは失敗に終わった。空が思わず手を引いてしまったからだ。
「あ、ごめんなさい」
金井といると、空は謝ってばかりだ。井瀬が付き合っていた女の正体を親友から聞いて、少しばかり人間不信になっているのかもしれない。もしかしたら、男性恐怖症かもしれない。金井なら、怖がることは何もないと、頭では理解しているのに、行動が追いつかないのだろう。そんな言い訳をしていた。
「謝らなくて、良いんです」
そう優しく言って、金井は今度こそ空の手を握った。お互いが汗ばんでいた。今年の夏も暑い。空はどうして告恋がここにいてくれないのかと思った。三人でいるときは自然体で金井に接することが出来たのに、金井と二人きりになると、どうしても意識してしまう。それで構わないのだろうが、自分がこんなに尻の軽い女だと言うことを認めるのが嫌だった。
「今日は何を読んでたの?」
「『外套』です」
金井と話すのは専ら読書についてだった。
「がいとう」
空は頭をひねってみるが、「該当」なのか「街灯」なのか、いくつか候補は浮かぶがどれも違う気がした。
「あまり有名な著作ではないんです」
金井は黒縁眼鏡を押し上げてから、苦笑した。見れば見るほど端正な顔立ちで、品がある。制服が学ランだったから、より金井を古風な文学青年に見せた。
「ロシアの幻想文学です」
ロシアの文学というだけでも難しそうなのに、幻想文学とは。一体何が幻想的なのか。空はほんの少し首をもたげた興味を、金井に向ける。
「どんな話なの?」
「俺の事、嫌いにならないで下さいよ」
金井はのどを鳴らして、嬉しそうに笑った。空はそんな金井に意地悪をしてやろうと、金井の前に出て、小首を傾げて見せた。
「変態小説?」
金井の表情がわずかに強張り、しかしすぐに緩んだ。
「せめて官能小説と言ってください」
「じゃあ、官能小説?」
金井はむせながら、それを否定した。空はそんな金井がかわいらしいと思った。二人はくすくすと、小さく笑い合った。
「残念ですが、官能小説ではないですね。つまらない、陰鬱な話です」
その著作の内容を、金井はゆっくりとした口調で話し始めた。その物語は本当に鬱々としていて、どうあがいても救いようがないものだった。
ある男がいた。男は書類作成の仕事をしていた。真面目だけが取り柄のような男で、自分の仕事に誇りを持っていた。しかしある日男は、自分の外套が傷んでいることに気付いた。直そうとしたが、結局買い替えることにした。男は奮発して新しい外套を買った。しかしその外套を着て街を歩いている途中に、何者かに襲われて命を落とし、外套を奪われる。それ以来、男が死んだ通りには男の幽霊が出るという噂が立った。たったそれだけの短編小説だった。
「外套、ね」
空はやっとその暗い物語の名前を知った。作者はゴーゴリという、これもまた、聞いたことがない人物だった。ロシア文学と言えば、ドストエフスキーかトルストイくらいしか知らない。その上、ドストエフスキーもトルストイも、著書の名前は知っているが、読んだことがない。それにしても、この夏真っ盛りの時期に、ロシア文学で『外套』を読もうと思うところが、とても金井らしいと言えば、金井らしかった。
「俺は、この主人公が好きなんです」
照れたようなその顔は、聞いているこちらまで恥ずかしくなりそうだ。主人公はつまらない男という設定で、同僚からも一目置かれていると言うよりは、一歩引かれている存在だ。仕事だって、今や必要のない手書きの書類作成だ。主人公同様に、つまらない仕事だ。しかも、最期さえも劇的な死の描写はなく、淡々と殺されたと記述されていた。そんな明らかにパッとしない主人公が、何故好きなのか。謎だ。しかしこの謎が、空の気を引いている。もっと金井の事を知りたいと思ってしまうのだ。
「平凡で、でも自分の仕事に誇りを持っているところが、良いんです」
恥ずかし気に金井が眼鏡をかけなおす。その様子に空はあることに気付いた。
「もしかして、そのこと話したの、私が初めて?」
何も言わずに、金井はうなずいた。
「そっか。話してくれてありがとう」
空は初め、こんな時代遅れの作家風の金井が、苦手だと思っていた。井瀬に比べて明らかに運動神経がなさそうで、頼りがいがない。しかし、金井の告白には感動した。それ以来、もっと金井について知りたいと思った。空も読書は好きな方だ。ただ、空の場合は金井に比べてライトな文学を好んだ。空にとっての読書は、息抜きであり、娯楽だったからだ。一方金井は、どちらかというと純文学寄りの本を好んだ。金井にとって本は学びであり、出会いだった。それを知っていたから、金井が大切なものを空だけに話してくれたことが、空にとっては特別だと分かったのだ。
「でも、どうしてこれが幻想的なの?」
金井は生き生きとした表情で話し始めた。いつもは言葉が少なく、落ち着いているのに、好きな本のことを話すときには子供のような表情を見せる。この金井が見せる無邪気な表情は、空の特権だった。
「『エルミタージュ幻想』っていう映画を、見たことありますか?」
「うん。一回だけ。船の中で人々がパーティみたいなのを開いていて、それが終盤になると、船が沈みかけて、人々が皆船から慌てて去って行くんだよね? やたらと『私のヨーロッパ』って言ってた気がする」
「はい。その、沈むと言うのがポイントなんです。ピョートル大帝って知ってますか?」
空は一瞬、どきりとした。聞きたくない皇帝の名前だった。空の曽祖父の存在は、そのピョートル大帝と重なる部分がある。自分以外の人間を、人間とは思っていないような態度。いつまでも強権を振るっているその姿。曽祖父の前で委縮する人々。もう政治から身を引いた風情でいるのに、何故か人々は曽祖父の前に頭を下げる。そして何故か、市議会選挙でも、曽祖父のもとに立候補者が挨拶に来て、曽祖父が気に入った人が当選する。幼い時から、空はそれが当然の流れなのだと思っていた。しかし学校へ行くようになると、それがおかしいことだと気付いてしまった。先生たちが、空を恐れていた。空に対するイジメだけは、学校の対応が早かった。社会の時間で、選挙制度を学んだ時に抱いた違和感は、今でも鮮烈に残っている。そして自分が置かれた状況を、空気の中で読み取ると、曽祖父がやってきたことが、悪いことだと思えてきた。そしその恩恵を自分が受けることに、疑問を持ち、いつしか曽祖父が気味悪い存在となった。
「名前だけ。あと、怖いイメージが少し」
「そうですね。何でも、彼が引いた線の通りに道を引こうとして、線がよろめいた部
分までそのままにしたと言う逸話もあるほどですから」
「それが、幻想と関わっているの?」
「そうなんです。ロシアにはサンクトペテルブルグという都市があります。そこはピョートル大帝が作らせた都市で、水に沈むイメージがずっとついて回るんです。その都市の象徴的なのが、青ざめた馬の像ですね」
「それも名前だけ知っている都市だけど、何だか不気味ね」
「そうなんです。その不気味さが幻想文学の素地となりました」
かつての恐ろしい皇帝の都。その都市が水没するイメージ。そんな都市を象徴する青ざめた馬の像。そして帝国ロシアの、ヨーロッパへの憧れ。それらを内包して、出来上がった文学を、幻想小説というのだそうだ。
空は「水没」のイメージに、引っかかりを感じた。海のようだが淡水の臭いがした。大きな湖。その湖面を羽虫が覆い、その羽虫を食べるために小魚が水面に顔を出す。その小魚を狙って、大きな魚が水面下で口を開ける。魚目当てにカモメたちが飛来する。金井の話とは全くつながらないのに、空はどうして自分がこんなイメージを持ったのか、分からなかった。しかしそのイメージは思ったより強く、頭の中をぐるぐると駆け巡る。このイメージは一体何なのか。自分の知らない場所なのに、ひどく懐かしいのと同時に、とても怖いと思う。
「空。大丈夫ですか?」
気付けば金井の顔が、空の顔の近くにあった。
「顔色が悪いですよ。少し休みましょうか?」
空は混乱しながらも、強い眠気と気だるさを感じた。とろんとした空の目が捉えたのは、金井の薄い唇だった。空は金井の唇に、そっと口づけをした。その唇同士は、すぐに離れたが、それでも息が混じり合う近さにあった。
「空……」
「いいのよ、悟。全部」
二人はその人気のない場所で、貪るような接吻をした。空の頭の中には、未だちゃぷちゃぷと水の音がしていた。空の様子がいつもと違うことに気が付いたのは、金井の方だった。空の吸いついてくるような唇は甘美だった。空が金井を求めていることも、感じられた。だからこのまま空のアパートまで行けば、二人は一つになれることも分かっていた。金井自身はそうしたいと思った。しかし、その思考に支配される前に、自制心が首をもたげた。金井は空を突き離した。
「空。今の貴女は、普通じゃない。どうしたんですか?」
「来てよ、悟。私のアパートはすぐ近くだよ?」
「本当に空からのお誘いなら、俺だって受けたいよ。でも、今の空は何だか焦っているみたいだし、本当の空じゃないみたいだから」
「悟は、意気地なしだね」
「本当に大丈夫ですか?」
「もちろん。一緒にアパートまで帰ろ。ね?」
そうだ。金井は納得する。自分と空は許嫁だ。よって、事を急がなければならない事情はない。それなのに空は確かに焦っていた。そしてその焦りには、何かに対する怯えが明確な形で存在していた。空は金井の手を引いたが、金井はその手を引き寄せ、空の肩を抱くことしかできなかった。
「大丈夫です。そういうことは、後で考えましょう。大丈夫です」
空が恐れる存在を、金井は知らない。一方で今の空と体の関係を持つことは、その恐怖の存在に負けることを意味している。今の空はまるで雨に打たれた仔猫のようにみすぼらしく、それと同時に、客が捕まえられない娼婦のようでもあった。
「ごめんなさい。私、熱があるみたい」
震えたように空が言うと、金井は深くうなずいて空の体を離した。
「そうですね。今日はゆっくりしてください。さようなら」
「うん。ありがとう」
金井は空のアパートまで空を送り届け、踵を返して帰っていった。その後ろ姿を、空は自省しながら見送った。その背中が見えなくなると、空は自分の部屋に入って鍵をかけ、すぐにバッグの中を漁った。スマホをタップして、私に電話をかける。しかし私は電話に出なかった。電話がバッグの中で振動しているのは分かったが、私はそのころまだ情事の最中で、誰からも邪魔されたくなかった。もちろん龍蔵も無視してくれた。
私が空からの着信に気付いたのは、家に帰って着替えている時だった。着替えを済ませ、いつものように洗濯機に制服を入れる。盛夏服のため濡れていても、洗濯の頻度が増えても、怪しまれることはない。私はすぐさま部屋に戻って、スマホをタップした。金井と帰っている空からだったので、惚気話でもあるのかと期待した。しかし、空は泣いていた。しかも私に向かって、信じられないことを話した。
「私、おかしくなっちゃった。どうしよう?」
開口一番に、空は自己嫌悪していた。まずは空を落ち着かせようとするが、空は終始しゃくりをあげていた。
「何か、あったの?」
慎重に私が問うと、空が首を振る気配がした。
「私、汚い。女として最低よ。バカみたい」
「金井に何か言われたの?」
「違うの。悪いのは、私なの。私、変なの」
話がかみ合わず、私はイライラしてきた。空にではなく、この会話自体にだ。
「私、まるで発情したみたいになっちゃって」
空の声は大事な部分だけが小さくなった。おそらくその単語に羞恥心を覚えた為だろう。私は耳を疑った。空がはっきり発音できなかった発情という単語が、空の口から出てきたことに驚き、うろたえ、混乱していた。あの全くの清潔な少女が、今、何と言ったのか。まるで生物の授業の時でしか聞いたことがない単語だった。おそらく人間には到底使えないものだ。それなのに空は、自分の状態をそう言ったのだ。まさにこの単語でしか、今の自分の状態を言い表せなかったのだろう。
「落ち着いて、空」
落ち着かなければならないのは、私の方だった。それなのに私は、空を責めたのだ。自分ながらに最低だ。私はどこまでも空を利用する。親友の顔をしながら、空を簡単に裏切っている。そう考えてから、私はある可能性に気付いた。
「まさか、金井を誘ったの?」
私が空の曽祖父を誘ったように、空も金井を誘ったのではないか。動物に使うような単語をあえて使っているのは、まさに空も私のように開いた状態だったからではないのか。だから自分への軽蔑と嫌悪を含めて、発情などと言う空には不釣り合いな言葉を選んだ。そう考えれば、全ての事に納得がいく気がした。では、空も私のように覚醒したのか。いや、その可能性は低い。何故なら龍蔵のように先天的覚醒者でない限り、脳に何らかの強い衝撃が加わらない限り、覚醒できないからだ。では何故空は私のように開いてしまったのか。沈黙する空に、私はたたみかけるように問う。
「空は汚くなんかない。だって、未遂で終わたんでしょう?」
私は内心肯定されなかったらどうしようかと危惧しつつ、言葉を重ねる。
「それは、そうだけど」
「きっかけみたいなのは、あったの?」
伏せてはいたが、空が発情するきっかけの事だ。空が、首を振るのが分かった。しかし今度の首振りは、否定ではない。その証拠に、空は気になることを言った。
「分からないけど、水に沈む都市の話を聞いていたら、急に頭が変になっちゃって。何て表現したらいいのか分からないけど、不思議なイメージがわき上がって来て」
水に沈む。急に湧き出すイメージ。そして頭、つまりは脳が変になる。私はその言葉たちを反芻して、言葉を失った。私が体験したイメージと重なる部分がある。まさか、何もなく覚醒したというのか。空も前世の記憶を覚醒させ、前世の記憶によって金井と関係を持とうとしたのか。そこまで考えたが、私はすぐに思い直す。そんなことは、あり得ない。覚醒した前世の記憶は強烈だ。好きだった相手がいれば、もはや自分が壊れてしまうほど、相手を欲してしまう。
「金井は、何て?」
「私の様子が変だから、そういうことは後々考えようって」
「そう」
私は安堵の息を漏らした。やはり、空は覚醒してはいなかった。相手の言葉でどうにかできるほど、前世の記憶は弱くない。しかし、空が何故そのようなイメージを持ったのかは、疑問のままだ。
「金井はどうしてそんな話を?」
恋人同士の帰り道で、いきなり水に沈む都市の話が出てくること自体が、あまりにも不自然だった。
「ロシアの文学について話していて、その流れで」
「そっか」
今度こそ私は、緊張から解き放たれた。空はやはり覚醒してはいない。そして空の誘いを断った金井も、覚醒者ではない。全前世の記憶を持つこと自体稀なことなのだから、そうそう近くに覚醒者がいると言うのも、変な話である。
「レンちゃん。私は私が怖いよ。何であんな風になったのか、分からないの」
「大丈夫。きっと焦っちゃっただけだよ。二人でゆっくり進めばいいんじゃない? ほら、金井って恋愛に奥手な部分がありそうだし」
「でも」
「大丈夫だって。私が保証する。空は清廉潔白な少女です」
「レンちゃん、私、私……」
空がこらえきれずに泣き始めた。
「空が責任感じることないよ」
「でも、悟にどんな顔して会えばいいの?」
「普通にしてればいいよ。空は本当に金井が好きなんだね」
「でも」
「まだあるの?」
「あの時、私、怖かったの。このまま悟と付き合うには、早く関係を持たないといけないっていう強迫観念があったから」
呼吸が、一拍だけ止まった。空は覚醒していなのに、とても鋭敏だ。まるで私や龍蔵が把握している前世の人間関係に、勘付いているようだ。そうでなければ、今のセリフは出てこない。まして、「強迫観念」という言葉はけして。
「大丈夫だよ、空。怖がらないで。金井の事、信頼してやんなよ」
「うん。ありがとう。レンちゃん」
それで、この時の会話は終わった。私は空の「ありがとう」という言葉と「強迫観念」という言葉に、押しつぶされようとしていた。スマホを握ったまま、壁に背を預けて、息を長く吐き出した。私は今日も空を裏切って、龍蔵と関係を持った。Openの状態でするのは、closeの状態でするものとは、比べ物にならないくらいに、濃密な快楽がある。今日も空が泣いている間に、その快楽に身も心も預け切っていた。自己嫌悪するのは、いつでも私の方だった。私は結局、龍蔵に加担し、空を裏切っている。こんなに信頼してくれる親友を、私は毎日のように。良心の呵責はあるが、空にばれなければいいと言う悪魔的な自分もいる。
「ごめんね、空」
ここでこうして呟いても、空に届くことはない。だから言えるのが。私もある意味では強迫観念に縛られている。前世で龍蔵を裏切ったことに対して、贖罪しなければならないと言う、強迫観念の檻の中だ。
そうしている内に、私の手の中にあったスマホが鳴った。泣き腫らして、霞んだ視界に映るのは、メールの着信を報せるマークだった。両目を腕でぐいとぬぐって、メールを開くと、今日はこれから仕事が入ったということと、冷蔵庫にカレーが入っているからそれを食べろということが書いてあった。私はすべてが面倒くさくなって、スマホの電源を切って、ベッドの上に放置した。そしてそのまま一階に降りて洗濯機を回し、冷蔵庫の中に入っているカレーをレンジで温めて食べた。砂をかむ様で、カレーの味は全く分からなかったが、腹はすいていたので全部食べた。洗濯機が終わるまでに食器を洗って、定位置にしまう。洗濯機の時間がやけに長く感じた私は、自分の部屋に戻ろうとしたが、強い眠気を感じてそれに身を任せてしまった。この時は、こんな会話が空との最後の会話になるとは、思ってもみなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます