三章 離別

奸計

 家に帰ると、もう母がいた。私はいつものように軽くて明るい声で、「ただいまー」と呑気に母に声をかける。台所のテーブルでうたたねをしていた母は、弾かれたように顔をあげた。その様子に苦笑しながら、私は自分の部屋で着替えて、洗濯機に制服と下着を放り込む。本当はこのまますぐに洗ってしまいたかったが、いつもと違う行動をすると母に秘密を知られてしまう気がしたから、そのままにした。それにしても今の制服は、丸洗いが出来て便利で助かる。洗濯機も乾燥までやってくれるので、母が私の制服に触れた時には、情事の痕跡はきれいさっぱり消えているだろう。


 母はスマホでネットを見ていた。最近、家事代行サービスに登録したとのことだった。しかし家事代行は、まだこの辺りでは浸透していない。家事は家の女性がやるものであり、それを誰か他人に肩代わりさせることは、女性の仕事怠慢であると言う雰囲気が色濃く残っている。さすがに引っ越しシーズンは、アパートの引き渡しに際して、ハウスクリーニングを必要とする人や企業も多い。しかし今は葉桜の季節だ。引っ越しシーズンを終えた母は、たまに個人宅への訪問をメインの仕事としていた。この高齢社会において、一人暮らしの老人の介護のサポートとして、家事代行は介護離職の阻止に一役買っていると言える。母も家事代行の業者に登録する際に、ヘルパーの資格を持っていたほうが仕事の依頼を受けやすいと言われて、二級の資格を取った。それからは会社に任された地域のお宅に伺い、家事代行として働いている。パート扱いなので時給でシフト制の勤務をしていたが、週五回は仕事をしていて、私とは母が家で会うのは夜だけだ。私を育てるために、低所得ながら労働基準ぎりぎりまで働き、自宅の家事までこなしてくれる母には感謝するしかない。


 しかし、感謝している相手と仲が良いとは限らない。母はこの家事代行サービスの仕事をするようになってから、私に過干渉気味だ。私が反抗期だからそう思うのか、実際にそうであるかは問題ではない。母の言動が干渉であると感じたのは、事故に遭ってからだ。母親としては、もう二度と自分の娘にあんなことが起こるとは考えたくないのだろう。だから、ついつい注意して見てしまう。見たら口を出してしまう。それが重なって、私にストレスを与えているのだ。


「今日も遅かったね。どこ行ってたの? 空ちゃんと一緒? 何してたの?」


顔を合わせれば、すぐにこの質問攻めが始まる。一つずつ質問してくれないと、私だって答えにくい。それに、今日はどこに言っていたのかも、何をしていたのかも、母親に話せない内容だった。そして、空と一緒でないことは、空がうっかり漏らしてしまう可能性もある。空は嘘が苦手だ。私が答えずにいると、母はまた同じ質問を繰り返した。


「ちゃんと答えなさい。危ないことはしてないでしょうね?」


「してないよ」


正確には、かなり危ない橋を渡ってきた。しかし母が聞きたいのは本当の事ではなく、自分に都合の良い答えなのだ。つまり、母の中にはいつも理想通りの答えがすでに用意されていて、それ以外の答えは非難の対象となるのだ。私はこの十六年の人生をかけて、母が納得する答えを導く術を知った。進学校に入学したばかりの娘。そろそろ学校に馴染んできたはずの女子高校生が答えるべき答えは、もう決まっている。


「勉強が大変でさ、図書室で勉強してきたの。でもクーラー故障中で、日も照ったから暑くて汗かいちゃった。空は今日は一緒じゃなかったよ」


さりげなく、制服が汗臭い理由を言っておく。そして、空と一緒ではなかったことを強調することも忘れてはいけない。空と私の母は、当然のように面識がある。中学校の頃から、お互いの家を行き来する仲だからだ。母親はまばたきをゆっくり二回した。その型にはまった言動は、まるでフィクションの見過ぎと言った体だ。


「珍しいわね。勉強なら、空ちゃんから教えてもらえばいいのに」


「空にも用事があると思うし、これからはなるべく勉強は一人でやろうと思って」


これからは忙しくなる。竜蔵への報告のたびに、私は遅くなるまで家には帰らない。そして帰った時には汗に濡れた制服を洗濯に出す。ここで話の筋を通しておけば、今後の言い訳にもなる。


「殊勝なことね。夕食はまだでしょう? 早く済ませてね。それから、明日の朝ご飯は一人で食べていってくれる?」

「何で?」

「新規のお客さんが、朝に来てほしいって言うのよ。ほら、保育園の向かいの大きなお家。そこの一人暮らしのお婆さんよ」

「そうなんだ」


はっきり言って、私はそんな大きな家を知らない。むしろ湖上家の邸宅から見れば、小さい家なのかもしれない。ただ、一人暮らしの高齢女性から見れば、どんな家でも大きな家となるのだろう。その家の大きさは、その家に住まう人間の孤独に比例している気がした。


「洗濯物、出してたわね? お風呂にもさっさと入って。その前に回してくれると助かる」

「分かった」


脱衣所の中に洗濯機があり、脱衣所の隣にこぢんまりとした風呂がある。夕食後に皿を洗い、脱衣所で洗濯籠の中の衣類をまとめて洗濯機に放り込む。洗剤と柔軟剤を入れて、後はスイッチを入れるだけだ。私の風呂は長いから、その間に洗濯は終わっている。干すのは母の役目で、たたむのは私の役目だ。母子家庭のせいか、家事の分担が自然に出来上がっていた。だから、外見だけ見れば、仲の良い母娘に見えるだろう。しかしその中身はお互いへの不満が詰まっているに違いない。「仮面母娘」という言葉が頭の中をかすめていく。そんな言葉があるかは知らないが、「仮面夫婦」があるならば、私の家では「仮面母娘」がぴったりだった。それに加えて、母は体裁を大事にしているし、私もそうだ。似た者同士で、だからこそ反発が強い。まるで磁石の同極同士だ。いつかは破綻するだろうという気配は、きっと私の方が強く感じている。母は鈍感だから、まだその気配に気付いていないだろう。ただ、歪な形でつながった絆は、たった一か所のわずかな綻びから、簡単にばらばらになってしまうだろう。その時私は、母は、一体どうするのか。私は温かい湯の中で、そんなことをぼんやりと考えた。古い洗濯機の音が、低く唸っていた。


 翌日、私は高校に向かう途中で、珍しい光景を目にした。井瀬が一人で登校していたのだ。いつもは岩渕と一緒に登下校しているのに、妙だと思った。しかしその違和感は、空によって解決されることになる。空は教室で私を待っていた。そして私が教室に入って来るや否や、私をベランダに連れ出した。空がいつもよりテンションが高いので、井瀬との間に何かあったのだろうと言う予感めいたものがあった。


「どうしたの?」

「聞いてほしいことがあるの。井瀬君が、岩渕さんと別れたって」


私は、耳を疑った。


「私にはもう、関係ないんだけどね」


空がベランダの手すりに肘をつき、泣きそうな顔で笑っていた。そうだ。空にはもう金井がいる。井瀬のことはすっかり諦めていたはずだ。空もその覚悟をして、金井と付き合うのだと言っていたではないか。緊張と困惑がない交ぜになって、私を襲う。そんな顔の空を、私は見たくなかった。そんなにも、悔しそうな顔なんて。私のせいで、空は金井と付き合うことになった。私はそれを望んでいた。それなのに、空の表情一つでこんなにも私の足元はグラグラと揺れる。こんなはずではなかった。望んでいた結果を手に入れたのに、どうして私はこんなにも苦しいのだろう。苦しんでいるのは、空のはずなのに。


「誰に、聞いたの?」


私はもはやどうでもいい質問をした。空は柳眉を漢字の八の字にしたまま、笑って答える。


「岩渕さん」

「え?」


私の心臓が、ドクンと鳴った。それは思いがけない名前だった。


「それって、岩渕が振られたってこと?」


空は長い栗毛を揺らしながら、首を横に大きく振った。


「今朝、岩渕さんから直接聞いたの。別れることにしたからって」


この岩渕のセリフが、「別れることになった」ならば、納得がいく。これならば、井瀬が岩渕を振ったことになるからだ。しかし、今の空のセリフを考えれば、そこにあるのは岩渕本人の頑なな意思だ。自分から「分かれることにした」という宣言だった。つまり、岩渕が井瀬を振ったのだ。確かに、岩渕は美人だし、気弱で静かなところは女子としてポイントが高いことは、認めざるを得ない。しかし、何故井瀬では駄目なのか。井瀬は岩渕を守ってきた。岩渕も井瀬に守られてきたはずだ。それが急に、今になって、井瀬に別れを告げたとは、どういうことなのか。一体二人の間に、何があったのか。ふと、私はある単語に行き着いた。「覚醒者」という単語だ。


 私は事故から回復以来、覚醒者としてopenな状態にあり、他の覚醒者から常に見られていた。岩渕もcloseの状態覚醒者だったとしたらどうか。岩渕は私の前世を知った可能性がある。しかし、私の前世を知って、岩渕が何故井瀬と別れることになるのだろうか。このタイミングで岩渕と井瀬が別れて、得をするのは誰で、損をするのは誰か。一番損をするのは、空だ。しかしもっと困るのは、私だ。では、得をするのは誰だろう。誰もいない。岩渕でさえ、得にはならない。だとしたら。


「まさか、復讐?」


全身を震わせながらつぶやいた私を、空は不思議そうに見つめていた。私はそんな空を直視できなかった。


「ごめん、空。ちょっと隣に行ってくる」


私が隣の教室に顔を出すと、岩渕は一人で本を読んでいた。皆、岩渕のことを避けているようだった。井瀬はバスケ部の仲間と話をしていた。私の心がとげとげしているのか、隣のクラスの雰囲気がとげとげしているのか、判別できなかった。すぐに、隣のクラスの女子たちが、私に群がってくる。


「来ると思った」

「岩渕、井瀬を振るなんてね」

「いい気になってんじゃん?」

「マジで、鼻につく感じだよねー」


呆れた風に装っていても、苛立った風に装っていても、女子たちが息を巻いているのが分かる。今度こそ、自分が井瀬の彼女になれるという可能性に、皆気付いているからだ。ここでは協調性を見せながら、実は皆ライバルだった。それは私が井瀬の恋人候補ではなかったから、見せた女子たちの一面だった。しかし彼女たちにとって、一番のライバルになるのは、間違いなく空だった。そして私は空の親友だ。だから、彼女たちは焦って私に群がったのだ。今度こそ、空が井瀬に告白するために、私を遣わしたのではないかと邪推して。井瀬の家はそれほど裕福ではないと聞いたことがある。清貧という言葉が似あう男だったと。しかしそんな井瀬の家庭の事情や、牽制し合う女子たちにも、私は興味がなかった。


「岩渕、呼んでくれる?」

「岩渕? いいけど」

「岩渕さーん」


私を取り囲んだ女子が、怪訝そうな顔をしながらも岩渕を呼んでくれた。岩渕は不快そうに顔をゆがめて、読んでいた本を閉じて、机にしまった。男子たちがその様子を見て、わざと聞こえるように「女子って怖っ!」と茶化す。井瀬は岩渕のことを黙って見つめていた。その表情は心配しているというよりも、無表情だった。自分を振った女には、もう興味がないと言うことだろうか。それはそれで、井瀬の切り替えの早さがチャラく見える。つい先日まで付き合っていた彼女が、心配ではないのだろうか。


「何?」


岩渕は私を見るなり、薄く笑んでたずねる。小さな声だが、相手にはよく通る不思議な声だった。真っ黒なセミロングの髪の毛が、セーラー服の襟を滑る。こうして近くで対面すると、なかなか迫力ある美人だった。


「来て。ここじゃ嫌でしょ?」

「私は構わないわ。それとも、何か都合の悪いことでもするのかしら?」


岩渕はさらりと私に嫌みを言った。どうやら私は岩渕を、ただのおとなしい女だと誤解していたようだ。これは一筋縄ではいきそうもない。下手をすると、私の方が岩渕に呑まれる可能性もある。岩渕が覚醒者なら、なおさら注意するべきだろう。白い肌に赤い唇が映える様は、雪の中の椿を彷彿とさせた。


「じゃあ、ここで言うわ。あなたは、誰?」


岩渕は今度こそ顔を歪めた。私の発言が理解できないようだ。まさか、岩渕は覚醒者ではないのか。だとしたら、何故井瀬を振ったのか。それが岩渕に何のメリットがあるのか。


「質問を変えるわ。どうして井瀬を振ったの?」


岩渕は虚を突かれたような顔をした後、吹き出して笑った。体を「く」の字に曲げて、哄笑する。そんなにおかしいのかと、今度はこちらが不快さを示す番だった。


「だから、女子の人間関係って嫌いよ。貴女はあの子の親友でしょう? それなのに、どうしてそんな質問をするの?」

「突然のことだから、何か裏があるって考えてもおかしくないでしょ?」

「裏なんてないわ。ただ、井瀬君とは合わないって思っただけよ。いいじゃない。今日から井瀬君がフリーになるんだから、貴女の親友もチャンスが巡ってくるでしょう? でも、一つ忠告するなら、井瀬君にはあの子は合わないと思うわ」

「どうして?」

「だって、井瀬君はお金持ちの余裕を振りまいている女って、あんまり好きじゃないみたいだから」

「ご忠告ありがとう。で、本当にあんたは覚醒者じゃないのね?」

「一体何の話をしているの? カクセイシャって何?」


私と岩渕の視線は絡み合う。お互いの腹の中を探り合い、一語一語の裏を読みあう。岩渕は本当に覚醒者ではないのか。果たして本当のことを言っているのか。岩渕は鼻で笑った。


「ねぇ、私も質問してもいいかしら?」

「どーぞ」

「貴女とあの子は、本当に親友なの?」

「どういう意味?」

「貴女、あの子を誰にも渡したくないんでしょう?」


図星だ。よりにもよって、岩渕にそれを知られているとは、私自身意外だった。


「貴女は、あの子を独り占めしたいんじゃない?」


ここに来て、私は声を失った。どうして岩渕が私の心を読めるのか。まるで妖怪のサトリのようではないか。私の頭の中で、じりじりと音が出ていた。止めろと叫びそうになるのを、必死で抑えていた。


「何をそんな顔をしているの? 誰が見ても明白なことよ?」


止めろ。


「皆陰で、貴女とあの子のことを、気持ち悪いって言ってるし、言わなくても心の中で思っている」


止めろ。


「でも、可哀そうね。貴女はあの子とずっと一緒にいたいのに、あの子の心は井瀬君の物だもの。いつかは心身ともに、あの子は井瀬君の物になる。その時貴女は一体どうなってしまうのかしら?」


「止めろ」


ついに、喉の所までせり上がっていた言葉が、口から飛び出した。そして、脳内でじりじりと音を立てていたのは、導火線だたことに、今気が付いた。いつの間にか握った拳に、嫌な汗がにじんでいた。体が震えたせいで、言葉まで震えていた。岩渕は口に手を当てて、くすくすと声をたてて笑った。そして、岩渕が本当にやりたかったことに気付く。やはり岩渕は復讐したかったのだ。今まで岩渕と井瀬の前に来て、二人の関係に水を差してきた私に対して。そのために、井瀬と空の恋心を利用したのだ。


「友情なんて言わないと思うわ。互いを縛り合うような関係は、友情の皮を被った偽物よ。共依存関係っていうのかしら? 寄生ってやつね」

「黙れって、言ってんだろ?」

「私は嘘が嫌いなの。だから、本当の事しか言わないのよ」

「っつ! この、性格ブスが!」


私は完全に陥穽に落ちていた。しかし、気付いたころにはもう、遅かった。私は岩渕の胸ぐらを、両手で締め上げていた。そのまま突き飛ばすと、岩渕は簡単に後方に吹っ飛んだ。そのまま岩渕は背中を廊下の壁にぶつけ、床に倒れた。


「ちょっと、レン! やり過ぎ!」

「岩渕さん、大丈夫?」


隣のクラスの女子たちが、大慌てで私を羽交い絞めにして、他は岩渕を保健室に連れていく。岩渕が私をすれ違う瞬間、岩渕は私に向かって目を細めた。その能面のような笑みで、私は岩渕に敗北したのだと悟った。冷静になって、羞恥心が込み上げてきた。


「何だよ。つまんねぇ」

「もっとやればよかったのに」


男子がスマホのカメラを向けながら、卑屈な笑みを浮かべ、私と岩渕のやり取りをはやし立てていたことに、今になって気が付いた。岩渕が小さな声でしか話さなかったのも、私の一番触れられたくない部分に触れてきたのも、計画通りだった。スマホのカメラには、おとなしい女子生徒に暴力を振るう私の姿が、克明に焼き付けられていただろう。敗北感と悔しさで、私は泣きそうだった。しかし、今泣けば、自分が本当に惨めになってしまいそうで、それだけは我慢した。下唇をかみしめると、鉄の味がした。


 私は生徒指導の担当教官の説教を受けることになり、「暴力女」という不名誉なあだ名をつけられた。隣のクラスの女子の対応も変わった。「怖い」と陰口を叩かれ、おどけた男子から「暴力女」と表立って叫ばれた。井瀬は岩渕がいる保健室に行ったようだが、岩渕から拒絶されたようだ。私は自分のクラスでも、誰からも寄り付かれなくなった。皆、びくびくとしていて、私に怯えているようだった。そんな中で、空だけは変わらずにいてくれた。そのことが、どれだけ私の救いになったか分からない。


 しかし、空はその相変わらずの調子で、井瀬に対する不満を口にした。


「レンちゃんにそんなヒドイことを言う人を好きになるなんて、井瀬君は人を見る目がないんだね。一番ひどいのは、岩渕さんだけど」


岩渕の狙いは、これだったのか。私を利用して、自分が悲劇のヒロインになって、空の心を井瀬から遠ざける。井瀬はまだ自分に未練があるのだから、元のさやに収まってしまえばいい。自分たちの邪魔をする空の存在を気にしなくて済む。初めから岩渕は、これを狙っていたのだ。岩渕にとって、井瀬との関係を続ける上で邪魔だったのは、空一人だったということだ。これでいいと、前世の私は考える。これではいけないと、現世の私は思う。二つの相反する思いに、私は身が引きちぎられそうだった。


「私、岩渕さんも井瀬君も許せない」


空は怒っていた。私が受けた仕打ちが、まるで自分の事でもあるかのように。そして、空ははっきりと宣言した。


「私はやっぱり金井君と付き合うよ。それから、もう井瀬君なんて呼ばない。井瀬って呼び捨てにしちゃうんだから。岩渕さんなんて、論外よ。そんな人、気にすることはないわ」


これで、こちらとしても筋書き通りだ、と前世の私はほくそ笑む。しかし現生の私は真逆な質問と言葉を重ねる。


「本当に、空はそれでいいの? 私のことは気にしなくていいんだよ?」

「いいのよ。心配しないで。それより、レンちゃんは大丈夫?」

「だから、私のことはいいって」


私はむきになって言った。そんな私に、空は抱きついた。


「ごめんね。またレンちゃんを傷つけて。本当に、ごめんね」


空は何度も私に謝った。私はそれを受け入れるしかなかった。


「ううん。分かった。私は空を応援するね」


胸にちくりと、針で刺されたような痛みが走る。前世の私は喜ぶが、現世の私は覚悟を決める。誰が覚醒者であろうと、なかろうと、私がこの美しい空を守るのだと。岩渕はおそらく、覚醒者ではない。あの反応は本物に見えた。何より、岩渕がもしも覚醒者であったなら、私への仕打ちはこんなものでは済まされなかっただろう。前世の私には、敵が多いのだ。


「ありがとう、レンちゃん」


空の今の心は、誰が占めているのだろうか。私であってほしいと願うのは、傲慢なのだろうか。岩渕の言う通り、この想いは、この友情は、紛い物なのだろうか。それでも構わない。私はただ、空の隣にいたかった。これだけは、前世も現世も同じ、私の本心だと確信を持って言えるから。


 空は、井瀬への想いをこの日から捨てた。


 そして翌日、空は体育館裏に、金井悟を呼び出した。葉桜がざわざわと揺れる新緑の季節。セーラー服が盛夏服に変わっていた。色素が薄い栗毛の長い髪が、空の腰まで伸びていた。日本人には珍しい空色の瞳に、金井悟が映っていた。金井悟は、黒縁の眼鏡をかけた文学青年だった。井瀬と同じくらいの身長だが、顔立ちは落ち着いていた。全体的な雰囲気も古風で大人びている。声も井瀬より低く、物腰や言葉は穏やかだった。


「今まで避けていてごめんなさい」


告白の前に、空は謝罪した。自分の許嫁をほったらかしにして、井瀬に恋心を抱いたのは、空にとって後ろめたい事実だった。しかし、柔和な笑みを浮かべた金井は、ゆるゆると首を振って応えた。


「避けていたのは、お互い様です。俺の方こそ、悪かったと思っています」

「え?」

「今どき、許嫁なんて、やっぱり嫌かなって思って。勝手に嫌われていると思っていました」

「嫌っては、なかったけど……」

「そうでしたか。良かった」


金井はやっと肩の荷が下りたような表情を浮かべた。


「井瀬君と岩渕さんのことは、大変でしたね」


瞠目した空に、金井は小首を傾げて微笑んだ。どうして金井が一連の騒動を知っているのか、空にとっては不思議だった。


「噂がありましたから」


金井は目を伏せるように、ゆっくりと話す。


「貴方達は、とても目立っているんですよ。気づいていましたか?」

「目立つ?」


空にその自覚がなかったことは、私にとっても衝撃的だった。空は学校一の美少女であり、井瀬もそれに引けを取らない人気者だ。両者の動向に加え、空の親友である私と井瀬の彼女である岩渕の騒動は、この高校の生徒なら、誰もが興味を寄せることだった。


「はい。目立ちます。でも、今後は安心してください。俺が貴女を守ります」


鳶色の瞳が、柔らかくも強い光を帯びて空を見つめていた。空は驚いたような表情を浮かべる。心なしか、空の頬が赤く染まっている。容姿端麗な男子から、この気障なセリフを言われたら、誰でも恋に落ちてしまいそうだ。


「あ、あの。私、金井君に言いたいことがあって」

「俺から言わせて下さい」


金井は空の言葉を遮り、強い口調で言った。その眼差しは、空を見捉えたままだ。


「空さん。俺と結婚を前提に、付き合ってください」

「結婚を、前提に?」


これは、金井の単なるパフォーマンス的な言葉ではない。その真摯な眼差しは、自分たちの恋愛が、けして軽いお遊びのようなものではないと、断言していた。空はまだその言葉に呆けていたが、やがて金井と自分が付き合うと言うことは、そういうことなのだと理解した。


「はい。金井家は貴女を歓迎し、俺が貴女を幸せにします」


もうこれは、家と家同士では決まっていたことなのだ。一方は元議員の曾孫娘。もう一方は一流企業の御曹司。申し分のない組み合わせだった。それに、今の金井のセリフには、私ですら感心した。家同士の事も含めてはいるが、金井の決意と誠意が感じられた。今の場合、「俺は」となりがちだ。井瀬の存在があるから、どうしても比較してしまうのだ。しかし金井は「俺が」と言った。それは誰を比較対象とするのではなく、自分が空を幸せにするという決意があった。それでいて、空を物として見ていないところも、高評価だった。


「お願いします」


空は耳まで赤く染めて、金井に頭を下げた。



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