二章 覚醒

openとclose

 冷たい川で溺れる夢を見た。いや、川ではなかったかもしれない。流れが感じられなかったから、海か大きな湖だったかもしれない。塩味を感じなかったから、もしかしたら湖か池か、沼かもしれない。溺れているのに、そこが湖面であると何故か途中で確信した。手が、とても不自由で、まるで自分の体ではないようだった。足もバタバタとでたらめに水を掻いていた。これでは助からない、と思った時、雷鳴のような声が降ってきた。


――二度と裏切るなよ。


老齢な男性の重々しい声に、私は身震いし、急に体が楽になった。そして、真っ暗な場所に浮かんでいた私は、遠くに光のトンネルがあることに気が付き、その中に足を踏み入れた。


『――ん。こっちに、早く……』


まるで鈴が転がるような声が、私に届いた。誰の声なのか。自分が誰なのか。全く見当がつかず、不安定ではあったが、私はこの声に近づきたいと思った。私の足は徐々に光の中を踏みしめるようになった。その次には駆け出していた。この声は私のいるべき場所に、私を導いてくれる。この声は信頼に値する。何の確約もなく、そう思った。そして、早くこの声の主に会いたかった。会って、話がしたかった。立ち止まれば孤独と不安、寂しさが、私をどこまでも追いかけてくる気がした。だから私は後ろを振り返らずに、ひたすら前だけを見つめていた。

 

 息が苦しい。これは溺れているのではなく、私が確かにこの足で走っているからだ。今は確かな自分の体の感覚があった。その鈴のような澄んだ声は、私を「レンちゃん」と呼んだ。懐かしかった。もう何十年も、その名前で呼ばれていないという気がした。そしてその声は、私を急かした。「早く、早く」と何度も私を招いた。私はそれに懸命に応えようとしていたが、なかなか光のトンネルは終わらない。私を呼ぶのは誰なのか分からないまま、ひたすらに声のする方に走る。誰の声か分からない。でも、大切な人の声だった気がする。忘れてはならない人の声だった気がする。ふと、私の前に幻影が現れた。色素の薄い長い髪を翻し、瞳が南国の海の浅瀬のような空色をしていた。セーラー服を着ていた。私はこの人を、この少女を以前から知っていると気が付く。そうだ。私の親友だ。でもこの少女には、名前が二つあった。今の彼女はどちらの名前だったのか。そんなことを考えていると、ふと光のトンネルが終わった。そして、私は手に温かな感触があり、耳には規則正しい機械音がしているところで目が覚めた。体のあちこちに激痛が走った。重い瞼をゆっくり押し開けると、様々な色の線が私の体を這っていた。気持ちが悪いし、痒いし、気分はよくなかった。これらには見覚えがあった。よくドラマで重症患者が置かれている状況に、似ていたのだ。一体何があったのか、思い出せなかった。


「れ、レンちゃん? 分かる? 私だよ。空だよ? 分かる?」


その名前を思い出すまでに、わずかな時間を要した。それからその名前に納得するまで、さらに時間がかかった。そうか、空だった。現世の彼女の名前は、空が正しいのだと。


「……そ、ら……?」


私の声は、巧く発音できなかった。声がひび割れて、まるで自分の声ではなかった。しかも、人工呼吸器が邪魔をして、口に添えられたカバーを白く曇らせ、不快だった。


「レンちゃん!」


空は立ち上がって、大粒の涙を惜しみなくこぼした。頬を滑り落ちるその透明な球体は、小さな水晶に糸を通すかのようだった。空は私の顔を不躾なほどまじまじと見降ろした。


「分かるよね? レンちゃん?」


私は小さくうなずいた。それを確認した空は、今度は膝から崩れ落ち、布団の端に顔を押し付けて、大泣きした。それでも手は離すまいと、私の手を握ったままだった。


「良かった。レンちゃんが戻ってきてくれた。良かった。本当に良かった」


空は両手で点滴のチューブが何本も刺さった私の手を、ずっと握っていた。

 

 アリアドネの糸を思い出した。ミノタウルスという、牛の頭を持った怪人が住まう迷路に向かう青年の話だ。その迷路は一度入ったら、出てくることはできない。まさに難攻不落の迷路であり、その中は迷宮そのもの。その上、ミノタウルスは迷路の中の宝の番人であり、それを狙って迷路に入ってくる人間を、皆殺しにしてしまうからだ。そんな死地へ旅立つ青年に恋をした女性がいた。それがアリアドネだ。アリアドネは青年に糸を渡して、出口にこの糸を結び付けて、いざとなったら糸を辿って迷路を出られるようにと言って、青年を送り出した。青年はその通りにして、一命を取り留めるという物語だ。


 私にとっての糸は、この手だったのかもしれない。心電図を測っているであろう線でも、私の血肉を支えた点滴のチューブでもなく、空の手が、私を再び現世に呼び戻したのだ。


「私のせいで、レンちゃんが、死んでしまったら、どうしようかと……」


空のこの言葉で、私は自分が何故こんな状態で寝ているのかを悟った。私は高校からの帰りに、車に轢かれたのだ。確か、空を追いかけていて、そこに車が突っ込んでいくのが見えたのだ。その時咄嗟に、私は空をかばって、車に跳ね飛ばされた。跳ね飛ばされてから、轢かれたのだ。運転手は高齢ドライバーだった気がする。アクセルとブレーキを踏み間違える、という話はよく聞くが、まさか自分がその被害者になるとは、思ってもみなかった。この仰々しい機械に囲まれていることを考えれば、私は大怪我を負って、生死の境を彷徨っていたのだろう。空の言う通り、死んでしまったかもしれない状況だったのだ。そうなると、どこか機能が回復しない箇所があるかもしれない。それに顔にだって、傷が残ってしまったかもしれない。車椅子か。それとももう寝たきりなのか。とりあえず分かっていることは、現在、髪の毛はすべて剃られているということだ。奇跡的に顔に傷がなくても、髪は女の命なのだから、鏡を見たときのショックには備えておく必要がありそうだ。


 ひとしきり泣いた後、空は思い出したかのようにナースコールを押した。医師や看護師が私が横たわる病室になだれ込み、絶句している。女性看護師が、小さく「嘘でしょ?」と言うのを聞いた。そして男性医師も、驚きを隠せないでいる。どうやら私が目を開いて、小さくうなずいただけで、本当に奇跡的なことだったようだ。空は女性看護師と抱き合って泣いている。


「よく信じてくれましたね。辛かったですね。良かったですね」


早口でそう言いながら、女性看護師は空の背中を擦っている。空は「はい。はい」と言いながらうなずいていた。


「後は任せて下さい」

「はい。お願いします」


そう言って、空は深く頭を下げて病室から出ていった。私は空にいてほしかったが、口がからからに乾いていたし、酸素マスクもあったので、今は声も出なかった。


 私の周りを囲んでいた様々な機械が取り外され、点滴も一本だけになり、病室も変えられた。一人部屋だったが、狭かったし、窓もあったので寂しさは感じなかった。私が意識不明になってから、一週間が経っていた。医師は私の母に、もう意識は戻らないだろうと告げていた。つまり、このまま延命処置を続けても、私は目を覚ますことは二度とないと言われたのだ。その事実は、そのまま延命措置を望むのかという質問でもあった。私の家は母子家庭だ。夫の暴力で家庭が崩壊し、離婚するという、判を押したかのように語られる事例の一つだった。植物状態は、まだ脳が生きている。つまりまだ生き返る可能性は残されていた。一方、脳死の場合は、現在の医療技術では生き返る可能性はない。よって、臓器移植などについて説明されただろう。母は、愚かにも私の延命を望んだ。母はまだ若い。それなのに再婚できないのは、私という存在があったからだ。まとまりかけた縁談が、私の存在を相手に知られて破談になったことは何度もあった。中にははっきりと「自分の子供以外は愛せない」と言った男もいたと聞く。それなのに母は、ただでさえ苦しい家計から、私の治療費を捻出しようとした。それは、とうてい無理なことだった。


 母はある男性からの援助を受けたのだ。その男性とは、空の曽祖父だった。空もまた、私の母と同じくらい愚かだった。空の曽祖父は、過去に国会議員を務めていた。その権威と権力は衰えることを知らない。そして、空のアパートマンションでの一人暮らしを認めるほど、資金は潤沢だった。空は曽祖父の権力と権威が嫌いだった。貧しくなっても、曽祖父との血縁関係が切れるなら、何だってすると豪語していたほどだ。空は権威と権力そのものを嫌っていたのではなく、それを当然のように行使して、他人の人生を左右してしまう傲岸な曽祖父が嫌いだったのだ。そんな空が、あれだけ嫌っていた曽祖父に泣きついた。私を救うために、私の母に資金援助をしてほしいと、頭を下げた。私が自分の目の前で死のうとしているのだから、空のプライドなどとうに消し飛んでいたのかもしれない。曽祖父はある条件で、空の懇願を受け入れた。空はその条件を二つ返事で了承した。


 とにもかくにも、私の命は、この二人の愚行によって、現世につなぎとめられることになったのだ。


「本当に、バカだね」


私は色のグラデーションが見事な千羽鶴と、クラス全員からの寄せ書きを眺めながらごちた。私がいなければ、再婚して幸せになる道があった女。私がいなければ、自分を縛ることがなかった少女。二人には、私がいない方がこの二人にとって良かったのに。そして私は二人以上に愚かだった。私はこの先、きっと二人を裏切ることになるからだ。


「本当に、愚かだ」


 色紙の上に、一粒の雫が落ちた。色とりどりのペンで書いてあったその文字は、紙の上でにじんで、もう読めなくなった。


 私が高校に復帰したのは、まだ髪がショートカットにもならない頃だった。病院では奇跡的な回復ともてはやされ、幸運に恵まれた私は、顔に傷一つ残らなかったばかりか、身体機能を何一つ失ってはいなかった。私は頭をアスファルトに強打していたが、医師の見立てよりも、打ちどころが良かったのかもしれない。坊主姿の自分を鏡で初めて見たときは、やはりショックだったが、慣れてしまえば生えてくる髪が楽しみだった。空は足しげく私の病室に通ってくれた。もしかしたら、私の母よりも、空の方が私の病室にいる時間が長かったかもしれない。


 私が目覚めた時の空の印象は、よく覚えていない。覚醒したばかりで視界がぼんやりしていたせいもあるが、何よりも空の涙の印象が強かった。もう二度と泣いてほしくはないのに、あの美しいガラスのような涙なら、いつまでも見てられると思った。ただ、よく見れば、元々無駄な肉などない細身の体が、よりいっそう細くなり、頬がこけていたことに気付けたはずだ。目元には隈が出来ていたし、常に目が充血していた。その名残は今も残っていた。空は自分を責めていただろう。良心の呵責が空を押しつぶそうとしたに違いない。


「本当に、ごめんなさい」


いつも、空は私の病室で謝罪する。自分が楽になるための謝罪ではなく、心からの謝罪だった。だから、私はいつも笑顔で返すのだ。


「空のせいじゃないよ」


いつもの病室で、いつものやり取り。固く握られた空の拳を、私はいつも空がしてくれたように、そっと包み込む。


「大丈夫だから。空は悪くない」


包み込んだ手に、強く力を込めて言う。色紙も千羽鶴も、空が提案したのだと、昨日見舞いに来てくれた担任から聞いた。誰かのために行動を起こすことは、空らしかった。一方で、空がクラスの先陣を切って何かをしようとするのは、想像もできないし、空には似合わない。


 私を事故に遭わせたのは、やはり高齢のドライバーだった。しかも、御年九十二歳の男性と聞き、その年齢に驚いた。民事では私にかかった治療費を全額負担することで合意したため、刑事罰も軽いものになるのではないかと、母から聞かされた。九十二歳の男性は、同年代の妻の元へ着替えを取りに行く最中だった。おそらく介護施設に妻を預けていたのだろう。老々介護で、疲れていたという趣旨の供述をしていると、刑事さんから聞いた。私は刑事さんがその男性を裁くわけではないのに、「刑罰は望みません」などと、声をかけてしまった。私なら許せると思ったから、思わず口から出てしまったのだ。空でなくて私だったのだから、と。もしも立ち場が逆だったら、私は男性がどのような境遇であっても、死刑を望んだに違いない。あの時精神的に傷を負っていた空に、車で突っ込むとは、想像しただけで腸が煮えくり返る。こんなに儚げで、それでいて友人おもいで、芯がしっかりしている美少女。その尊さに、傷一つでも傷つけられたら、私は加害者を絶対に許さなかっただろう。だから、この事故の被害者は、私一人で良かったのだ。


「ありがとう、空。早く学校で会いたいね」

「大丈夫だよ。レンちゃんのノートはとっておいたから」


嬉しそうに笑う空には、まったく悪意はないのだろうが、ノートの分量を考えると頭痛がした。一時間の授業が、一日六つ。それが一週間以上となると、一体どれだけ授業が進んだのか分からない。しかも、私は脳にダメージを受けた身だ。記憶障害が出るかもしれないと、医師に言われていた。暗記科目は得意だったが、これからは苦手科目になるかもしれない。それを考えると、疲れがどっと押し寄せる。


「大丈夫。私がレンちゃんに教えられるところは教えるから」


どうやら私の為に授業をしっかり頭に叩き込んだ空は、自信満々だ。わずかに残った隈や、かさついた肌を感じさせないような笑顔で、私に微笑みかける。


「でも、この頭じゃねぇ」


それはもう一つの頭痛の種だった。私の髪の毛はまだまだ短かった。まるで冬毛の日本猿のような髪の毛は、クラスの皆にバカにされること間違いなしの状態だ。しかも、これも私の髪の癖なのか、後ろの髪だけ伸びるのが早かった。


「それも、大丈夫。任せて」


空は持ってきた紙袋の中から、ビニール袋に包まれた毛の塊を取り出した。私が初めて見るウィッグという物だった。


「本当は、本人が店で相談しながら選んだ方が良かったけど……」


そう言いながら、空は私の髪の毛の上にウィッグを乗せて、櫛で地毛とウィッグを馴

染ませ始めた。私のウィッグのイメージは、ピンで止めるタイプであり、風に弱いという物だった。昔のコメディやコントで、カツラが風で飛ぶシーンがよくあった。その影響で、そういったイメージがあるのかもしれない。しかし今のウィッグは、もはやカツラとさえ言わず、私のイメージよりも格段に改良されていた。レース状の網目の隙間から地毛を引き出すように髪をとかすと、地毛と馴染んでウィッグはもう、つけていることが分からなくなった。しかも軽くて丈夫そうだ。空は私自身よりも私を見ていてくれたのだと、つい笑顔がこぼれる。私の真っ黒な髪の色も、外に反り返るような髪の癖も、空は熟知したうえで、このウィッグを選んでくれたのだ。


「凄い」

「でしょう?」


得意げな空に、私は赤面してしまう。いつもの私が、空によって再現されたことは、くすぐったい気分にさせられた。


「私も空みたいに髪の毛、伸ばそうかな?」

「それいい! 絶対似合うよ!」

「でも、高かったでしょう?」


私はウィッグを指していう。


「お金のことは心配しないで」


私の治療費を払ってくれたのは、空の曽祖父だ。おそらくこのウィッグも、その曽祖父から買ってもらったのだろう。それならば、治療費の一つのオプションとして、素直に貰っておくことにしようと思った。


「レンちゃん。素敵だよ」

「空が言うと、嫌みにしか聞こえないよ」

「えー、だって、学校ではレンちゃんが人気者だから、私は嫉妬してばかりだよ」


苦笑する空に、私は困惑する。空に嫉妬しているのは、私の方ではなかったか。それなのに、空が私に嫉妬するなんていう逆転現象は、どういうわけなのか。


「私が、人気?」

「そうだよ。背も手足もすらりと長くて、健康的な肌にきりりとした切れ長の目。すっごくカッコいい。憧れちゃう。運動神経もいいし、成績だっていつも上位だし。それに、男女問わず平等に友達を大事にする。もう、挙げればキリがないよ。私、いつも引き立て役だもん」

「え?」


引き立て役なのは、私の方だ。背は私と空は同じくらい。確かに私の方が手足が長く、細い。しかし空は色白で大きな丸い目に、あの魅力的な空色の瞳がある。空は運動は確かに苦手だが、成績は常に一位を争っている。空だって、ちゃんと私以外の他人に平等に優しい。


「お互いに、お互いを引き立てられれば、それでいいじゃん」


私はおかしくなって、笑いながら言った。小声で口早に言ったから、空には聞こえなかったようだが、私はこの時改めて、空のことが大切に思えた。


 その後、私は退院し、いつもの学校生活に戻ることになった。空のまとめてくれたノートがあったから、授業にもついていくことが出来た。持つべきものは親友だと、つくづく思う。


 しかし、学校での空の様子が、明らかにおかしかった。何か私に隠し事をしているという雰囲気が、ささやかながら伝わってくる。

そして私は放課後、空の身に何があったのか知ることとなる。それは私の心を深く抉るような内容だった。


「でも。ビックリしたよね」

「そうだな」

「今どき、許嫁ってあるんだね」


岩渕と井瀬が話しているのを、たまたま図書室で聞いてしまった。私はこの時初めて、岩渕の声を聞いた。控えめで甘い女の子らしい声たった。少しだけ、アニメの声優の声にありそうだと思った。部活帰りなのか、井瀬は汗をしきりに拭いていた。しかし、きっと私の方が嫌な汗をかいている。私も岩淵と同じ感想を持ったことがある。空から、金井の存在を知らされた時だ。


「でも。本気、なのかな?」

「金井は良い奴だよ。それに、二人の決めたことだろ」


何故、金井のことを二人が知っているのか。何故、岩渕から「許嫁」という古風な単語が出てくるのか。二人とは、誰と誰なのか。私の心臓がばくばく言っている。まるで耳元で心音が鳴っているかのようだ。つま先と指先から、徐々に体温が抜けていくのが分かる。そして最後には脳だけが熱くなって、体が震えだした。私の治療費の為に、空は曽祖父が提示した何らかの条件を、二つ返事で了承したと聞いた。しかしあの空が、いくら私の為だと言っても、あの事だけは了承するはずがないと思っていた。許嫁、金井、二人が決めたこと。それらの言葉が、私の頭の中でぐるぐると回る。いつもの空ならあり得ないが、あの時の空ならあり得る。私の死を前にしていたのならば。そして、私の命が経済的な面で、危険にさらされていたならば。私は、いてもたってもいられなくなり、二人の前に飛び出していた。


「今の話、私にも聞かせてよ」


二人は私の存在に気付いていなかったようで、一瞬目を丸くした。しかしすぐに井瀬は岩渕をかばった。岩渕は小柄な愛らしい少女だった。控えめなつくりをした顔のパーツは、まさしく着物が似合う幼顔の日本美人だ。気弱な少女らしい仕草や所作は、男にとって庇護欲の絶好の対象だと思えた。一方長身痩躯の井瀬は、アイドルというよりも俳優といった佇まいだ。岩渕は制服を着ていなければ、中学生でも通ってしまうだろう。一方の井瀬は大学生と言っても通用するだろう。外見は凸凹の二人だが、だからこそお似合いの二人だともいえた。


「親友なのに、聞いていないの?」


井瀬は表情をあまり変えることもなく、非情な言葉を私にぶつける。しかし、私はたじろがなかった。空の一生を左右する問題だ。一歩も引くつもりはなかった。

親友なのに空が私に話さなかったのではない。その逆だ。親友だったかろこそ、空は私に秘密にしたのだ。


「まあ。親友だから言えないこともあるよね」


井瀬はため息交じりに、ゆっくり目を伏せた。そしてゆっくり私の瞳を見据える。


「君が入院してすぐくらいに、あの子から一方的に謝罪を受けたんだ。許嫁と付き合うことになったから、今までの非礼を許してほしいってね」


私は瞠目し、口を中途半端に開けたまま立ち尽くした。井瀬は空を「あの子」と呼んだ。告白しようとした相手に対して、その呼び方は侮辱だ。しかし今は井瀬が空の名前すら憶えていないことに、腹を立てている場合ではない。空の行為を迷惑そうにする井瀬を罵倒している場合でもない。空は、私の為に、自分の将来を犠牲にしたのだ。私は敵前逃亡ともとれることを考えもしないで、図書室から廊下に走り出した。迷っている場合ではない。怒っている場合でも、悲しんでいる場合でもない。とにかく、空に確認をしたかった。空の口から事実を聞くまでは、信じたくなかった。


 私は教室に走りこんで、叫んだ。


「空!」


空は、教室で私を待っていた。


「空、本当なの?」


私は空に詰め寄った。怒っているのに、泣きたかった。


「本当に、金井と付き合うの?」

「うん」


空はわざと自然さを装って、背伸びをした。


「私の、せい?」

「違うよ。私の為」


空は有無を言わさぬ表情と口調で言い切った。


「嘘でしょ? そんなの、嘘なんでしょ?」


信じたくない。私の為に、自分を犠牲にする空なんて。あんなにも井瀬のことが好きだった空が、こんなにも簡単に心変わりするはずがない。


「嘘だって、言ってよ。空ぁ……」


私は空の目の前でうずくまって、落涙した。空はそんな私の前にしゃがんで、私の方にそっと手を置いて、あの時のようにハンカチを差し出した。そして小さくささやくように、空は言うのだ。


「ごめんね」

「空は、それで、いいの?」


いつも通りに軽い口調で言えたら良かったのに、私の言葉は喉に引っかかってうまく出てこなかった。空からのハンカチを受け取らずに、洟をすする。


「井瀬君には岩渕さんがいるもの。仕方ないよ。それに、私のわがままはレンちゃんが叶えてくれたから、後悔もないの。不思議ね。今の私の気持ちは金井君に向いている気がするのよ」


これが空の本心だとは思えなかった。しかし空は嘘をつくのが下手なのだ。だから、今の言葉は真っ赤な嘘というわけでもない。告白をないがしろにされた空は、井瀬と岩渕を応援する立場に変わり、今まで意識してこなかった許嫁に興味を持ち始めた。そんなところだろう。そう、「そんなところ」と言ってしまえるくらい、空の気持ちは金井にはまだない。ただ、空が言ったように、井瀬には岩渕がいる。そんな相手にずっと固執しているよりは、金井に目を向けたほうが、将来的に一歩前進できるのではないか。


「分かった。空がそう言うなら、私は空を応援するよ。でも、もしも空のことを金井が傷つけるようなことがあったら、絶対に許さないからね」


「ありがとう」


そう言って嬉しそうに笑う空は、やはりどこか寂し気で、私の心に針がささる。空の親友とはいえ、結局は空の人生で、空の気持ち次第なのだ。それを応援できない親友は、きっと親友の資格はない。空には幸せになってほしいのに、空が遠ざかることを許せない私はきっと愚か者だ。それでも、私は心から人間として空が好きだった。


「帰ろうか?」


空が立ち上がって、バッグを肩にかける。夕焼けは燃えるようで、少し怖かった。影が伸びていくのも、今日は不吉に感じる。桜はすっかり葉桜になって、まるで春とは違った顔をしている。


「ごめん。私は今日、用事があって」


空からの誘いを断るのに、少しだけ勇気がいる。しかし、今日こそは私は会わなければならない人がいる。母も一緒に行きたかったようだが、私が強く拒絶した。それは空にとっては裏切りの行為だろう。もしも空が私とあの人との関係を知ったら、もう二度と空は私に近づかないだろう。軽蔑して、嫌うだろう。


 それでも、私は目覚めてしまった。空が冗談交じりに言っていたことが、本当に起こるなんて、今でも信じられない。しかし現に私は今、前世の記憶を持っている。そして私が今から会わなければならない人も、前世の記憶を持っている。私のことを「後天的覚醒者」だとすれば、あの人は「先天的覚醒者」だ。つまり、生まれたときから、前世の記憶を持っていた人だ。そして、覚醒した今なら分かることがある。それは、覚醒者同士なら、その存在に気付くことが出来ると言うことだ。そして、前世の記憶には抗いがたい何かが作用しているということだ。


「分かった。じゃあ、また明日ね」

「うん。また明日」


こうして、私たちは毎日出会いと別れを繰り返す。朝に再開し、放課後には別れる。一体私はあと何度、空に再開できるだろう。私と空は、今日もこうして別れ、また明日には、違った形で出会うのだ。


 私は空と別れ、いつもとは違う通りを歩いていた。長く伸びた影がひっそりと、そしてピタリと私の後をついてくる。そうして少し歩くと、広い庭と、大きな屋敷が見えてくる。一際大きな庭の中心には、大きな松がうねり、昇天する龍のごとくである。その松の下には池があり、大きくてきれいな模様の鯉が何匹もいて、悠々と泳いでいる。松の他には庭師によって切りそろえられた木々が生垣となり、ナナカマドや椿の木が繁茂していた。その奥には、瓦屋根の立派な二階建ての日本家屋があった。これだけの規模の個人宅は、この一帯では珍しい。一瞥しただけならば、観光施設か旅館と勘違いする人もいそうだ。


 門の前に立って、インターホンを鳴らす。防犯設備は最新なのに、「湖上こがみ」という表札が掲げられている。不審者がこの表札を見て、入るのをためらうのか不思議だった。インターホンの横のカメラが起動したのだろう。老齢な、それでいてかくしゃくとした男性の声が聞こえてきた。


『お前か』


その一言が聞こえたかと思うと、門の鍵がカシャンという金属音と共に外れた。


――二度と裏切るなよ。


その声と同じ声の主は、何の警戒もなく、私を迎え入れたのだ。懐かしさが耳朶に蘇る。そして、抗いがたい火照りに襲われる。玄関ドアの前には、防犯カメラがついていた。その黒いカメラをのぞき込むと、今度は軽いカチャリという音がして、玄関ドアの鍵が開く。私はそろりと玄関に身を滑り込ませる。そこには、巨躯が岩にも見える老人が立っていた。広い家の中で、その老人だけが生き物の様だった。広い部屋には観葉植物はなく、豪華な調度品が空間を、ひいては老人の孤独を埋めている。それなのに、清掃が行き届いていて、埃一つ見当たらない。フローリングの床の中央に、大きなペルシャ絨毯が敷いてあり、その上に対面式のソファーと、木製の机がある。天井にはシャンデリアがあって、夜にはまばゆくも温かい光を落とすのだろう。老人の一人暮らしで、こんなに清潔で、ここまできれいに保たれているのは、おそらく金銭的に余裕があるからだろう。馴染みの清掃業者や浮世離れしないメイドなどが雇われていると推測できた。


「老父様」


媚態な声が漏れた。


「何の因果か。お前が事故に遭ったというから、予想はしていたが、お前も目覚めたのだな」


「はい。私も覚醒者の仲間入りです」


重々しい声に、私の艶やかな声が付き従う。前世の私は、この人に恋をしていた。前世の私が「老父様」と呼ぶこの老人こそ、空の曽祖父だった。応接間に通され、柔らかなソファーに座ると、もう欲望が抑えきれなかった。紅潮した頬に、うるんだ目。体が熱く、微熱を持っているようだった。息は乱れ、思わずセーラー服の胸元のホックを外した。


「しかし、何故お前は開いている? これでは他の覚醒者に漏れてしまうぞ?」


開いているのは、私の体ではないか。しかし老父は何も私の体について言及したのではない。もっと精神的で、感覚的なことだ。


「それではお前が覚醒者だと、他の覚醒者に知れ渡ってしまうぞ?」

「それは、どういう意味ですか?」


自制心を呼び起こし、私は空の曽祖父である龍蔵りゅうぞうに質した。


「お前は知らないのだな。覚醒者はopenの状態だと、他の覚醒者に自分の前世を知られてしまう。しかしcloseの状態では、覚醒者だと気付かれることもない」


私はサトリの物語を思い出し、自分を恥じた。私は知らないうちに、他の覚醒者に自分の前世を喧伝していたのだ。これは自分の思考を相手に読まれるサトリと、変わらず、危険な行為だと言うことは分かる。もしも悪意のある覚醒者がいたとしたら、私の前世を知って何かに利用したり、脅したりできるからだ。それは自分の裸を見せているに等しい。例えば、私がこうして親友が嫌っている親友の曽祖父に、密かにつながっているということを利用すれば、相手は易々と私をただの手駒にできるだろう。


「でも、どうやってcloseにできるのですか?」


「簡単なことだ。瞳を閉じ、神経を集中させ、扉に鍵をかけるイメージを作るだけでいい。そして日常の中で、その鍵が外れないように、心掛けることだ」


「分かりました。でも、今はそんな必要はありませんね。老父様」


「お前は、敵か、味方か?」


セーラー服を脱ぎ捨てる私に、龍蔵は厳しい眼差しで問う。私はにっこりと微笑んで、龍蔵のソファーに移動して、龍蔵の隣に腰掛ける。そして龍蔵の耳元で、息を吹きかけるように密やかな声で言った。


「もちろん、味方です」


龍蔵は立ち上がって、私を見下ろした。


「その言葉に、嘘偽りはないな?」

「はい。大丈夫です。空はきっと金井を好きになりますわ」


龍蔵は私をソファーの上で組み伏した。そして、私の顎を太い指先でなぞり、念を押した。


「他の覚醒者には邪魔をさせるな。今の言葉を、完遂しろ。分かったな?」

「はい」


私の上に覆いかぶさった龍蔵と私は、ある意味における誓いの口づけを行った。もつれあうように、互いが互いの服をはぎ取り、裸で愛撫しあう。脳までもが痺れていた。まるで体中を電流が流れているようだった。龍蔵は冷静な顔だった。私はこの人に抱かれる喜びを知った。前世でも、愛していた。だからこそ、寂しくて切なかった。勝手に涙が出た。私の中の冷静な部分が首をもたげたのは、切なさを感じた時だった。前世では空の為にこの人を裏切った。今度はこの人のために、空を裏切るのだと思うと、涙が止まらなかった。どうして、私は覚醒者となってしまったのだろう。どうして、前世でも今回も、空はこの人と血縁者なのだろう。何の因果か。運命の悪戯という陳腐な言葉では、こんな残酷な因果を説明することはできないだろう。


 私は豪邸のシャワーを借り、水に撃たれながら精神を統一し、自分をcloseの状態位にした。すると、あれだけあった龍蔵への性欲も自然に収まった。どうやら前世の自分をcloseの状態にすることで、前世の感情や衝動も閉じられた状態になるようだ。汗の臭いが残るセーラー服に着替えるのは、抵抗があったが、これしか持っていないので仕方なく袖を通す。ドライヤーで髪を乾かしている内に、私はすっかり現生の自分に戻っていた。


「ありがとうございました。近況は常にお知らせに参ります」


応接間に戻って、私が頭を下げると、龍蔵は「ふむ」という具合にうなずいた。龍蔵もしっかり身なりを整えていた。私はソファーの上のバッグを肩に掛け、龍蔵に一礼して湖上家の邸宅をあとにした。そして、近況報告のたびに、前世をopenにして、私と龍蔵は秘密の関係を何度も結んだ。まるでそれが、約束履行の確認作業であるかのように。私は空をという親友を、そのたびに裏切っている。しかし前世の私にとっては、その背徳感も甘美だった。


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