一章 事故
片思い
春だった。
どうしようもなく、春だった。
街路樹の桜並木は、生徒たちを歓迎するかのように咲き誇り、生徒たちもまた、話に花を咲かせている。速足で校門に一人で向かう者もあれば、だらだらとおしゃべりしながら、道いっぱいに広がって歩く少女たちの一団もある。黙々と歩いていたかと思えば、後ろから茶化すように追い越され、それに追従する者もある。まだ入学間もない私たちは、これからの高校生活に胸を膨らませていた。そんな中を、私の親友がゆったりと歩いていた。何人かが親友を振り返る。そして、ひそひそと話をするのだ。その密やかな会話の内容は、私でなくても想像ができる。
その背中は、ただひたすらに無防備で、まるで消えてしまいそうに儚かった。桜の花びらが舞う春のうららかな日。同じ中学から同じ高校に入学し、クラスまで一緒になった自慢の親友が、登校してくる生徒たちと桜を眺めていた。自分もその中の一部だと言うことを、忘れているようだった。色素が薄いため、栗毛に空色の瞳をしている少女。顔は小さく背が高いが、その四肢は細い。よく帰国子女やハーフと間違えられた。長い栗毛を、温かな風がすいていく。白い肌は透ける様で、声は鈴を鳴らすようだった。私は確信する。春と言う季節が彼女に似合うのではない。彼女のために、春と言う季節が作られたのだと。だから彼女が穏やかなように、春と言う季節は穏やかなのだ。複雑な家庭環境であるにもかかわらず、そんな様子は全く見せない。それは春がそうであるように、彼女が皆に愛されているし、歓迎され、満たされているからだ。桜を眺めていた親友の頭上を、雀が二羽、戯れるように飛び去った。それを親友は微笑をたたえて見送った。そこから親友は校舎の方に視線を移した。変わり映えのしない生徒たちの日常の始まりの風景が、そこにはあった。挨拶を交わしたり、肩を叩いたり、おどけたりしながら、面白いくらい何の抵抗もなく、昇降口に吸い込まれていく。まるで小川の流れのようだ。皆、様々な髪形をしていて、顔は一つ一つ個性があるのだろうが、まだ見分けがつかない。声も、特徴的だったり、強弱があったりするはずなのに、がやがやとした音の渦にのまれていた。きっと親友も私と同じことを感じ、思ったことだろう。そして私は、あの中に親友が混じっていたら、きっと目立つだろうなと思う。
例えば渋谷のスクランブル交差点に、突如大きな看板を持った人が現れたら、それはもう非日常的で、メッセージ性を帯びてくる。人間の群集だけならば、日常の風景にしか過ぎなかったのに、たった一つのメッセージが入り込むことで、全てが日常性を剥奪される。親友は、その看板に似ている。本人にはその自覚がないだろうが、明らかに存在が異質なのだ。特に、髪の毛は一様に黒で、同じ制服を着た生徒の中にあって、誰もがその異質さに気付くはずだ。明るい栗毛は、黒い髪の毛の集団から、浮いて見えるだろう。そのせいか、高校入学時に生徒指導の先生から、親友は明らかに間違った指導を受けた。髪を黒く染めろと言われただけでなく、黒いカラーコンタクトをするように言われたのだ。髪を染める行為自体が禁止され、カラーコンタクトをすること自体も禁止されている中で、その指導はまるででたらめだった。親友も、もちろんそのように応えた。しかし、それが反抗心からだと勘違いした生活指導の教師は、黒髪にするスプレーを親友に押し付けて、トイレで黒髪に直すように再度怒鳴った。それを見ていた私は、我慢が出来なくなって、生活指導の先生に、校長先生から許可が出ていますと、嘘をついた。効果は抜群だった。生徒指導の先生は、不服そうに親友と私をにらんで、職員室に戻ったのだ。進学校だからという理由や、世間の手本となるべきだからと言う理由は、やはりどこかずれている。時代的にも論理的にも、あの生徒指導の教師の行為は、齟齬があると言っていい。
「ああ、おはよう。レンちゃん」
親友は、おっとりとした口調で私の名前をあだ名で呼んだ。その仕草は、親友でなければ虚構じみているだろう。ふと、立ち止まって斜め後ろを振り返る。ただそれだけの行動が、並みの人間には難しい。きっと、他の人がこれをやったら、舞台じみていると笑われるに違いない。
「おはよう、
私は完ぺきな微笑を前にして、ため息を禁じえなかった。私の自慢の親友こと空には、何をやってもかなわない。私の挨拶がため息交じりだったのは、そのためだ。今、私の存在に気が付いたと言わんばかりに、空は私を見た。ガラス玉みたいな澄み切った空色の瞳に、私が映っている。私の名前は
「空はいいよね。その名前で」
「また、名前で何かあったの?」
空が眉をひそめて、私の隣に立つ。同じくらいの身長。同じくらいの細身。私だって、そんなに悪い顔立ちではない。肌は健康的だし、黒い大きな瞳も持っている。髪の毛は少し癖が強いが、さらさらしていて、つやもある。それでも空の隣にいると、私は引き立て役にしかならない。長身の私と空が一緒に登校すると、嫌でも他人の目を引く。ひそめた声が、あからさまに湿り気を帯びる。誰かが、隣の男子生徒を肘で突くのが目に入った。それが先輩なのか同級生なのか確認するまでの興味は、私にはない。下駄箱の前で靴を内履きに取り換えて、教室に向かう。そうすると不思議なことに、時間が止まったかのような光景が見られた。誰もが、足を止めて声を失って、空に見とれているのだ。そのおかげで、随分と楽に教室まで行くことが出来る。教室の自分の机に教科書を入れ、バッグを片付けると、私と空はベランダに出るのが日課だった。
「この季節になると、どうしてもね」
私は眉を漢字の八の字にして、笑って見せる。なるべく明るく振る舞い、元気を装う。春は出会いと別れの季節だというが、私にとってはその出会いが憂鬱でならない。初対面の人が多く、顔と名前を一致させるのに必死な季節だからだ。私は名前も顔も、すぐに覚えてもらえる。しかしそれと同時に、すぐに笑われたり陰口を叩かれたりすることも多い。キラキラネーム全盛の時代において、その中でも異彩を放つ名前で、いつも空と一緒にいるからだ。だから大体、多くの人は私の名前を覚えてすぐに、いつも隣のいる子は誰? と訊かれるのだ。私なら気軽に声をかけられるのに、空は近寄りづらいと言うわけだ。その時点で、女も男も、空とお近づきになることを諦めるべきだ。私の心はいつもこの季節にはささくれ立つ。自分の名前を呪い、空に嫉妬せざるを得ない。しかしそれと同時に、空を独占したくもある。私は美しい物が好きなのだ。
「レンちゃんの名前、私はかわいいから好きだけど」
笑顔はさらに空の美しさを倍増させる。声も一度聴いたらクセになる質だ。そして、空の長所であり短所なのは、正直すぎて嘘がつけないことだ。だから今の言葉も、空の本心なのだ。空は、あまり人を褒めたり、謙遜したりしない。それは空が常に自分も他人も俯瞰していて、適切な評価をするからだ。このことで一時は空気が読めない冷たい人だと言われたり、はなにかけていると言われたりしたこともある。しかしそんな人々でさえ、空の客観的な意見に、同意する人が増えていった。
「あ~あ、私、空になりたかった」
「え? 何それ?」
くすくすと控えめに笑う空は、ちゃんと口を手で覆っている。私たちみたいに、大口を開けて笑ったり、大声で笑ったりすることはしない。一言で言えば、品がある。友達同士で楽しく笑い合いたい人にとっては、不満がある反応だろう。しかしそれは空を弾いてしまえばいいのだ。空が他人に合わせてその優雅な表情を変える必要はない。それは協調性がないと言うよりは、芯がしっかりしているのだ。制服は短くしたりしないし、メイクもしたりしない。空にはそれらをする必要もない。
「そのまんまの意味だよ」
私は再び溜息をもらす。美しい容姿に、芯のある性格。誰からも愛されて、祝福された少女。男子だけではなく、女子からも人気がある空は、まるでフィクションから出てきたかのように現実味を欠く。しかし少女漫画の主人公にも、空は向いていない。あまりに完璧すぎるがゆえに、共感を覚えにくいはずだ。どちらかと言えば、主人公が憧れている先輩キャラといったところだろう。
「私はレンちゃんになりたいよ」
「は? 何で?」
思いも寄らなかった空の告白に、私はたじろいだ。空の引き立て役でしかない私になりたいという空は、一体私のことをどう思っているのだろう。いつの間にか友達になって、いつの間にか二人でいる事が多くなって、周りから親友という目で見られるようになった私と空。空は嘘がつけない。ならば、空が私になりたいという言葉にも、嘘はないはずだ。空は溜息を一つ吐き出して、頬を赤く染めた。ただそれだけで、私はあることに気が付いた。いつも美しい空だが、最近はいつにもまして甘く香っているように見えた。それは青春なんて言う安っぽいものではなく、もっと尊いものから香たっている。
「私、好きな人が出来たの」
桜の花びらが、チラチラと舞っている。風が空の髪やスカートをひらりと翻させる。私は目を見開いたまま、絶句した。ついにこの時が来たのかと、息をのんで立ち尽くす。いつかは空にも春が来ることが分かっていた。私も空が好きだし、空もきっと私のことを好きでいてくれる。でも、今、空が言った「好き」と言う感情は、友情とは違うのだ。自分で告白するよりも、親友の私に告白するのは、いかにも空らしかった。それがたまらなく嬉しいと思う一方で、私よりも大事な人が空の心に住みついたことを、ひどく残念に思った。もう、私だけの空ではなくなってしまったのだ。空に手垢が付くことは、許せなかった。男女問わず、空を少女から女に変える存在を、私は今まで排除してきたはずだ。それなのに、空はいつの間にか相手を見つけてしまった。私の知らない所で、空は女に変わっていた。私の喉はひりついて、言葉が喉に詰まって、言葉が出て来なかった。窒息する寸前で、心にもない言葉が口から出た。まるで、乾いた咳に似た感覚だった。
「おめでとう」
私は嘘つきだ。狼少年にも勝る狼少女だ。私から空が離れて行ってしまうのに、祝福なんてできるはずがない。それなのに、こんな言葉が出るなんて、きっとこれは呪いに違いない。私は言葉に毒を盛ったのだ。心の中で、空がまた少女に戻ることや、ずっとこのまま少女であり続けることを願っていた。だから、次の言葉はすんなりと口から出すことができたのだ。
「相手は、誰なの?」
私から空を奪っていこうとしている男は誰なのか。私は優しい表情を顔に貼りつけながら、裏では冷淡な恐ろしい顔をしていたに違いない。詰め寄るようにならないように、言葉も口調も加減して、囁くように言葉を紡ぐのだ。空に警戒心を持たせないように、慎重に、空の中に芽吹いた花を摘み取るように。それはまるで、桜の花びらの蜜を吸う鳥に似ていた。花弁など気にも留めず、ただ花の奥にある蜜を吸っては他の花に飛び移る。空は唇を綻ばせ、大切な言葉をそっと告げた。
「
その呼び方に、私の時のような慣れた様子も、気軽な感覚もなかった。二人はまだ、二人で向き合っての面識がないのだろう。そうなれば、空の恋はまだ相手に知られていないということになる。ただそれだけで安心している自分に、嫌気がさした。井瀬行人。聞いたことがある名前だと思ったら、高校の有名人だった。隣のクラスに知人がいるから、その人気ぶりは聞いていた。高校に入学してから、空が有名になったように、行人もまた、有名になった。二人は同じタイプの人間なのだろう。行人も、美しい青年だと噂になった人物だ。長身痩躯で怜悧。しかし話せば穏やかで、文武両道。先輩たちの間でも人気があるらしいが、けして媚びたり軽くあしらったりしない。その態度は、さらに彼の人気に拍車をかけている。確かに、空と行人ならばお似合いの二人だ。きっと高校一の組み合わせだ。私は行人と空が並んで歩いているところを想像してみる。空のビー玉みたいな青い色の瞳に、行人だけが映っている。他はもはや背景に過ぎない。二人は手をつなぐだろう。幼い私と空がよくつないでいたものとは違う形で、互いの細い指を絡ませる。少し緊張して汗ばんで、鼓動を共有し、呼吸と歩調を合わせて、毎日学校に通うだろう。近寄りがたい、二人だけの世界。少女漫画の世界から抜け出してきた恋人。その他大勢は、嫉妬すら忘れて、その二人を賛美するだろう。そして自分もあんな恋愛がしてみたいと、羨望の眼差しを送るはずだ。私は一人で置いて行かれる。私だけの清潔な少女は、行人の手垢にまみれた女になった。少女たちだけの檻のような世界から抜け出して、違った世界に馴染んでいく。私は立ち尽くすことしかできない。私は空と一緒にいる事で、檻から免除されていた。それが突然一人になったからと言って、檻の中に私の座るべき椅子が生まれるわけではない。檻の中の席は、いつも少女たちが自分の分を必死で守っている。だから、私に用意されるのは、檻の外にあるパシリ的な席しかない。仲間に入れてほしかったら、言うことをきけと、無言の圧力がかかるだろう。もし、その圧力からも逃れたいなら、一人になるしかない。私の居場所は完全に失われるのだ。しかし、私は残酷な刃を持っていた。一人で飛び立つ空を、許しはしない。誰かのものにさせはしない。私は春の朝のすがすがしい空気を吸い込んで、ゆっくりと吐きだした。声が震え、裏返りそうになる。それでも私は、この刃を空の首元に突きつけるのだ。
「あのさ、空」
物が歯に挟まったような言いにくさを演じながら、刃の持ち手に力をこめる。空が不思議そうな顔をして、私の言葉を待っている。
「その人、もう付き合っている人がいるんだよ」
空の目がこぼれそうなくらい見開かれる。私は空を言葉の刃で傷つけた。でも、大丈夫。その傷は、私が必死で治してあげるから。しかし、空はどこまでもしたたかだった。儚く笑って、目から綺麗な朝露のような雫を流して、空は言った。
「知ってる。だから、これは、私の片思いなの」
私は溜息をつきたくなる。これほどまでに美しい少女の恋が叶わないなら、他の誰かの恋はまがいものではないのか。そして空が毎朝早くに教室に来て、ベランダに出て他の生徒が登校してくるのを見ていたのは、少しでも恋した彼を見つめていたかったからなのだ。一度も面識がなくても、彼かもしれない誰かを目で追うことで、自分をいさめていたのかもしれない。教室から他のクラスの生徒を見ていれば、きっと近づきたくなる。体育は隣のクラスと合同だから、その時には苦しんでいただろう。井瀬行人の隣には、いつも彼の彼女がいるのだから。だから、きっとこの遠い距離が、空にとってはちょうどよい距離だったのだ。近すぎず、遠すぎない。誰が誰を見ているかも分からない。ベランダを見上げなければ、目が合うこともない。目が合ってしまっても、ただの風景を眺めているように振る舞うことができる。井瀬行人の隣に彼女がいても、ここからなら許せる。嫉妬せずにすむ。空の中に嫉妬というものがあるのかは分からないが、自分の好きな人が、誰かと楽しくしている姿に、何も感じないはずはない。私は、今まさに井瀬行人に嫉妬していた。空の心を奪って、苦しめている男に、嫉妬しながら怒りを覚えている。ハンカチで涙を拭いた空の手を、私はそっと握りしめた。親友として、空の恋を応援できない私に、空を慰める資格はないのかもしれない。でも、それでも私は空の手を取りたかった。その痛みや苦しみを、分かち合いたかった。そうするふりだけでも、させてほしかった。けして叶わない恋をしてしまった親友。それを一番に打ち明けてくれたのが私だったから、私に出来る全てをしてあげたかった。
「空なら、きっと、いい人がまた見つかるよ。だから、大丈夫だよ」
高校入学から間もなく失恋した親友に、この言葉が適切かどうかは分からなかった。ただ、私は本当のことを言ったのだ。空の外見は人目を引く。そしてその美しさに、誰もが惹かれるだろう。特に傷心している今は、狙い時と考える者も多いに違いない。しかし私は空の秘密を知っている。誰にも言わないという約束で、中学校に入ってすぐに空から耳打ちされた。その時は驚いた。空には、許婚がいるのだ。それは、元国会議員であり、厳格な空の曽祖父が決めた許婚だった。空の曽祖父の政治的地盤をいずれは継ぐことになる金持ちの青年。この高校に、彼もまた進学してきている。歳も同じだ。まさか今のご時世に、許婚がいるということは信じられなかった。許婚の制度自体、大昔の話しだと思っていた。それなのに、一番身近な友人に許婚がいるとは、誰が予想できただろう。自由恋愛が隆盛のこの時代から見れば、時代錯誤だし、不自由で家族の身勝手な事だと思うのが普通だろう。空だって、許婚のことは頭の片隅にあったはずだ。だから、井瀬行人に恋をしてしまった自分の感情を、どうしたらいいのか分からなかっただろう。空の曽祖父は何にでも厳しい人だという。そんな曽祖父に、空が刃向うのは到底無理があると思えた。だから私の心中は穏やかではない。空の幸せを願っているのは本当だが、何が空の本当の幸せなのかが分からなかった。傷ついても好きな人と一緒にいるべきなのか。このまま許婚と結婚すべきなのか。だから、私は空が傷つくと知りながら、問わずにはいられなかった。
「空は、やっぱり
空の曽祖父が空の許婚に選んだのは、
「私は行人君が、好きなの。だから、そんな気持ちのまま金井君と付き合うことはできないよ。それって、金井君にとても失礼だと思う」
空の真っ直ぐな想いは、行人に向いている。二又も不倫も珍しくない世の中で、空の心の純度は何者にも犯されない清水ようだ。文武両道の男子二人。井瀬行人と金井悟はお互いを意識していないようだが、女子たちはそれぞれの派閥に別れている。井瀬派か金井派か。しかし空にとってそれは無関係の世界だ。ただ、行人に想いを寄せる一人の少女なのだ。空が抱く痛いほどの想いは、自分がどちらとも付き合えないと分かってもなお、派閥なんて俗っぽいものとは無関係なのだ。散る桜が、空の色に溶けていく。それは空が散らした桜のようにも見えた。私の心は複雑だ。私は心の中で、空が誰のものにもなれないことを喜んでしまった自分への罪悪感と、優越感の間で揺らめいていた。許婚と言えども、空を私から奪う存在ではない。今のところ行人も、私の脅威ではありえない。空には私がいる。それで十分だ。しかし私は密かに、金井が空と付き合ってくれれば気楽だとも思ったのだ。行人は空を女に変えてしまうが、拒絶しながら付き合う相手にならば、空は女の顔を見せないだろうと思ったからだ。だから私は結果として、空に幸せな恋愛よりも、不幸な疑似恋愛をしてほしいと願ってしまった。私の罪はこの上なく重い。
「分かった。行人が別れたら、空に教えてあげる」
私は悪戯に笑った。そこに毒を仕込むことは忘れない。
「でも、それって、好きな人が失恋するのを楽しみに待つってことだよ? それでも、いいの?」
私は意地悪だ。優しい空は、誰かが傷付くことを絶対に良しとしないことは分かり切っているのに、私はあえてそこを刺激する。それも、自分が幸せを望む相手の不幸を待つという陰湿な行為が、空とかけ離れていることも、私は承知の上だった。思った通り、空は戸惑ったように逡巡した。しかし、空は拳を握りしめ、唇の端を強く結んでから言った。
「それでも、私は行人君が好き。だから、今日、告白しようと思うの」
風が強く吹いて、桜並木がざわめいた。しかしそれ以上にざわめいたのは、私の心だった。よく考えれば、想定された答えだった。そうだ。空は「好きな人が失恋するのを楽しみに待つ」なんて卑怯な自分は許せない。ならば、自分が傷つくと分かった上で、真正面から相手に想いを伝えるだろう。私は焦っていた。私は親友が傷つくところなんて、見たくない。それなのにどうして、空は自ら告白することを選ぶのだろう。そんなものは、自傷行為以外の何ものでもないではないか。私は傷ついた空を慰めることができるだろう。親友として、最大限の優しさを空に見せるだろう。しかしそれは自傷行為の舐め合いなどではなかったはずだ。私は穏便に済ませようとして、金井のことをささやかに提案したのに、空は見向きもしない。私は頭の中で繰り返した。どうして、どうして、どうして。どうして、上手くいかないのだろう。いつから齟齬が出てきたのだろう。空は私ではない。一人の個性と感情を持った別人だ。だから空の全てを親友だからと言って、掌握することはできない。束縛することもできない。それではDVと何ら変わらない。そんなことは、分かっているはずだ。
「傷つくことは、怖くないの?」
「怖くない」
即答だった。告白しても、叶わない恋と分かっているのに、空は誰かを傷つけるよりも、自分が傷つくことを選ぶのだ。それが誰のためにもならず、何の得にもならないことを知りながら、あえて茨の道を選ぶ。その芯の強さに、さすがは空だと合点がいく。この強さがなければ、私は空のことをここまで友人として好きにはならなかっただろう。自分が傷つくのは怖くないが、他人が傷つくことは怖いのだ。きっとそれを言うだけなら簡単だが、実行できる人間はそう多くないのだろう。しかし、その近くの未来を考えて、私は恐れをなす。もしも、空が告白したことによって、行人の心が空に奪われてしまったら、私は耐えられるだろうか。行人とその恋人の関係がどこまで深いものかは知らない。他人の心の中など、知る手立てはない。しかし、今の恋人よりも空の方が魅力的であることぐらい、誰だって分かる。だって、相手は私の自慢の親友の空だから。もしかしたら、順番が逆だっただけなのかもしれない。行人が最初に出会ったのが今の恋人ではなく、空だったら、今頃空は私の隣にはいない。ただクラスが分かれて、空と行人が別々の教室にいる事になっただけかもしれない。それはこれから習う数学的な確率の問題だけで、神様の意地悪な采配によって、偶然にも出会うはずだった二人が引き裂かれたのかもしれない。運命の悪戯という言葉がある。そんなものがあるならば、きっと空と行人は運命の二人なのだろう。私は、お門違いにも行人の恋人のことを考えた。どうして、他の女が入り込んで自分の恋人に告白する隙を与えるのだろう。もっと強く行人をつなぎとめておく必要があるのに、どうしてそれを怠るのだろう。私は黙って目を閉じて、深く溜息を吐いた。焦るな、と自分に言い聞かせる。そして、親友ならばどうすることが空にとって一番なのかを考える。それは私のためにもなるのかと問いかける。私と空に恋愛関係なんてないのに、こんなにも苦しい。まるで息ができない陸の上の魚のようだ。私は精一杯笑顔を作る。
「空がその覚悟なら、私も覚悟を決めないとね」
精一杯の強がりと、全力の悪意を込めて、本心とはかけ離れた言葉を発する。
「私に任せて。放課後の体育館裏に呼び出してあげる」
「え? いいの? 本当に?」
「喜んでどうするの? ふられに行くんでしょ?」
飽きれたようにそう言った私は、冷や汗をかいていた。
「ああ、そうね。でも、こんなバカけたことに付き合ってくれる人なんて、レンちゃんだけだよ。本当にありがとう」
空は頬を赤く染めながら、髪の毛を耳にかける。その寂しげな笑顔に、私の心は疼く。このやり取りは、空には私しかいないことを確認する作業だ。私のただの自己満足で、誰にも知られてはいけない行為だ。そして空は私にとどめの一言を発する。
「レンちゃんと友達で、本当に良かった」
空が私の両手を取り、極上の笑顔を見せる。誰もが魅了され、心をとかされるような顔だ。私の手を握った空の手は、すっかり冷たくなっていた。私は赤面していたと思う。こんな顔で手を取って、こんなセリフを吐くなんて、反則だ。私が男だったら、完全に空に恋をしている。空は芯は強いが、人との距離感が上手くつかめていないような時がある。それでも、自然に私の手を取ってくれたことを、嬉しく思ってしまう。空が発する友達と言う言葉に、感動してしまう。こんなに倒錯した私のことを、友達で良かったと言ってくれる。もしも私の心の中が、空に悟られたら、空はどうするだろう。やはり私から離れていくだろう。こんなちっぽけな考えで、狭い世界のぬるま湯に浸かって、独占欲にまみれた私の手を、空が取ることはないだろう。
以前に読んだ物語に、サトリという妖怪が出てくるものがあった。サトリは人間の本心が分かってしまう故に、孤独に身を晒さなければならないという宿命を背負っていた。その物語の中では、サトリは人間の少女の純粋な心に惹かれ、自分が妖怪であることを隠してその少女に近づき、恋仲となる。しかし、少女はサトリと結婚してから自分の心を見透かすようなサトリに不信感を抱き、他の男と心を通わせてしまう。それを知ったサトリは、妻となった少女を殺し、その罪に耐えられず自刃した。そして村人に死体を発見され、妖怪であったことがばれてしまう。そして妖怪と人間の婚姻は不幸しか招かないことが示されるが、妻のお腹にサトリの子供がいたことから話しは急展開する。その子供は、サトリと人間の子供であったために村から追い出され、放浪する。子供は不思議なことに、サトリとは反対に、自分の心が全て他人に聞こえてしまう体質だった。そのため、初めは忌避していた周囲が、その子供の純粋な心に気付き、人間の共同体の中に受け入れられ、幸せになるという、ハッピーエンドだった。よくある異類婚譚に、作者の想像力が入り込んだその物語に、以前の私は素直に喜んでいた。素敵な物語と出会ったことが嬉しかった。その物語は小説だったか漫画だったかもう忘れてしまったが、当時人気があり、ドラマ化されたと記憶している。
今の私は、この物語を恐れている。誰かがサトリだったら、その誰かには私の心も丸見えなのだ。そして私がサトリの子どもと同じ体質だったら、皆に私の胸の内が全て晒されてしまう。空に比べてサバサバしている強気な少女。誰にでも対等に話すクラスの人気者。明るくて、スタイルもいいから、空よりも近づきやすい人。周りにはそんな風に見えているはずだ。私はそう見えるように振る舞ってきたし、これからも、そうしてクラスの中に存在するつもりだ。こんな根暗で欲が強くて、本当は空を贔屓している女だと分かれば、私には誰も寄りつかなくなるだろう。そうしたら、私はただの空の引き立て役になってしまう。空の隣にいる事さえ、許されなくなるかもしれない。
私が再度空に告白について、本当にそれでいいのかと問おうとした時、チャイムの音が鳴り響いた。憂鬱な一日の始まりを告げる、間の抜けた高い音。私と空はベランダから教室に入り、それぞれの席に着く。担任教師が間もなく教室に来て、出席番号順に名前を呼びあげる。そして生徒側は、それを何の疑いもなく受け止め、自分の名前が呼ばれれば返事をする。番号で管理されるなんて、飼育されている牛や豚のようだ。そして可視化されたテストの点数は、この進学校ではそのまま個人のランクになる。空も私も、金井も井瀬も、ランクが高い。教師たちもそのランクに基づいて、人格を推し量っている。これはつまり、テストの点数が高ければ高いほど、出来た人間であるという共同幻想なのだ。教師たちはこれで、いちいち個人を観察せずにすみ、楽に評価ができる。評価の高い人間には、何らかの役を押し付ければ間違いのない人選ができると思っている。受験を経験してきた生徒たちも、自分がテストの点数で見られていることを、了承している。テストの点数が自分の評価そのものに置き換わっても、仕方がないと思い、自分よりランクが上の人間には従おうとする。結局、管理する教師側も、管理される生徒側も、それが一番楽だと知っているのだ。もちろん、そんな幻想的な制度から自由になりたいと思う人もいれば、その制度から外れようともがく人もいるだろう。しかしそんな人々は、教師たちに言わせれば不良で、人格形成が失敗しているのだ。今の時代は自分の好きな事さえやればいいとか、勉強よりも人間性やコミュニケーションを評価するとかいう大学や企業もある。しかし人格とテストの点がイコールであるこの高校では、人間性やコミュニケーション力でさえ、点数ではじき出されているのだ。「好きな事さえ」と言う考えは、まずテストの結果を得てからでないと語ることはできない雰囲気がある。例えば考古学が好きでも、それには日本史を学ぶ必要があり、世界的に位置づけるには、世界史を学ばなければならない。それらの文献を読むには国語の読解力も、古典のセンスも必要だ。さらに、英語文献があるため、英文の読解力も必要になる。測量などには数学が得意な方が良いし、今の時代、パソコンだって必需品だ。また、科学的分析も考古学には欠かせない。こうしてみると、「自分が好きなことさえ」という考えは、何とも無謀な事なのだ。
この高校の授業は一コマ一時間だ。当然のように進むのが早いし、中身も深いところまでやる。そのため、授業内容を毎日復習してこなければならないような人間は、授業にはついてこられない。予習をしてくるとしても、単語を拾うくらいだ。授業は授業中の一時間できっちり理解することが求められる。この高校で塾や家庭教師をつけるような人間は、そもそも受験の時に落とされている。たまたま受かってしまって、授業の予習や復習をやらなければならず、テスト前には猛勉強しなければならないという人が、年に一人くらいいると言うが、そういった人は一つランクの低い進学校に転校していく。日々の勉強にもテスト前にも圧倒されず、マイペースでついてこられるようでなければ、この高校にはいられない。もちろん、誰もが難関大学を目指すので、受験勉強はするだろう。三年生の先輩は皆がライバルだった。恋愛なんてものは、この日常で余裕がある勝者のためのものでしかない。
淡々と授業は進み、当てられた人間が黒板に筆記したり、英文や古文をさらさらと読んだりして、幻想に満ちた日常が過ぎていく。生徒も教師も慣れた様子で、教科書やノートをめくる。ペンが走る音が、沈黙を埋めていく。自分で考えることが推奨されてから、自分でまとめてきた考えを発表する機会も増えたが、生徒は皆、教師が認める答えを知っている。その場が荒れることはなく、発表の後には拍手が起きて終わる。あまり充実感とか青春感とかがない。無味乾燥な日常だった。
こうして午前の授業が終わり、昼食の時間となる。空と私の席は離れていたが、思い思いに皆が移動するので、私も空の席の隣に移動する。購買やコンビニのパンや弁当の人がいれば、私と空のように弁当の人もいる。空はいつも手作り弁当を持ってくる。私は母の手作り弁当だ。空も冷凍食品を使うが、私の母よりは手抜きがなくて、偉いなと思う。手作り弁当を持ってくる女子を、男子ならどう見るのか。女子力が高くて家庭的と見るのか、それともただの重い女と見るのか。空の手料理は美味しいから、結婚したなら確実に胃袋を満たす良妻賢母になれるのに、後者の男子は本当にバカだ。でも、完璧な妻を持つ夫が、全て幸せになれるかと言うと、そうでもないような気がする。たまにはジャンクフードを食べたい時もある。美人は三日であきると言う都市伝説めいた言葉があるように、空もいつかあきられるのだろうか。私はいつもより早く食事を終える。今日は隣のクラスに行って、空のために告白のおぜん立てをする必要がある。ふと、井瀬はどこで昼食を食べ、誰と一緒なのかを考えた。やはり、彼女とどこか教室以外の場所だろうか。ただでさえ目立つ井瀬のことだ。あえて友人たちと昼食を囲んでいてもおかしくない。付き合うなら、さりげなく付き合うというタイプに思えた。そして、もし空に彼氏が出来たら、もうこうして二人で昼食を共にすることもないのだと気付く。それは足を水に浸したような気分にさせられる。
「ちょっと井瀬のこと探してくる」
私は椅子を引いて、立ち上がる。弁当をバッグにしまって、ロッカーに入れる。空は申し訳なさそうに眉を歪めて、私を拝むように手を合わせた。
「ごめんね、レンちゃん。ありがとう」
「ううん。気にしないで」
私の心と言葉は裏腹だ。本当は気にしてほしい。私の苦労を知って、同じ立場で考えてみてほしい。親友が親友よりも大事な人を見つけるということを、もっと真剣に考えて欲しい。でも、今の空には井瀬しか見えていない。それがたまらなく悔しい。
私は隣の教室に行く。いたらいたで緊張するかもしれない。いないならいないで、困る。私は隣のクラスにも顔が利く。隣の教室に踏み込んだとしても、自分の教室のように振る舞うことができた。何人かから気軽に声をかけられる。私は自他共に認める「女子受けがいい女子」だった。おっとりとした空とは反対で、さばさばとしていて、はっきりと物おじせずに言うところが、女子に人気だったのかもしれない。つまり女々しさがなくて、男っぽいところだ。さらに言えば、恋敵にはならない立ち位置に、私はいるのだ。
「レン、どうしたの?」
珍しいものを見たとでも言いたげに、隣のクラスの女子が言う。
「ねえ、井瀬は?」
クラスの中を見渡しても、目を引くような男子はいなかった。少しだけ安堵している自分がいた。隣のクラスの女子は、にやにやしながら私の脇腹を突く。
「さては、レンもついに井瀬信者になるのかな?」
「バーカ、違うよ。友達が井瀬に興味があるらしくてさ」
「でも、知ってるよね? 井瀬には
そうだった。井瀬の彼女の名前は、
「当たり前じゃん。でも、友達が一度でいいから話したいんだって」
「へー。変わってるね。もしかして、レンの友達ってあの帰国子女っぽい人?」
「まあね」
「えー、やっぱり? 岩渕ピンチじゃん!」
やはり空のことはもう知れ渡っているらしい。ただ、まだ話したことがないせいか、帰国子女と勘違いされている。ここで、どこに井瀬を呼び出すかは秘密にしておかなくてはならない。場所によって、誰が誰を何の目的で呼び出すのかが分かってしまうからだ。例えば一階女子トイレなら、先輩たちからの苛めのスタートを意味していたし、体育館裏は恋愛絡みの告白をするところと相場が決まっていた。
「なんか、レンとあの子って仲が悪いのかと思ってた」
パンをかじりながら、隣のクラスの友人は言った。私はその言葉に瞠目した。空と私の仲をそんなふうに見る人がいるとは、思っていなかった。反射的に、疑問が口をついて出る。
「どうして?」
「だって、タイプは違うけど、二人ともあか抜けてるっていうか、美人だから」
何て退屈で突飛で、幼稚な論理なのだろう。美人同士だからお互いを意識してライバル関係になるなんて、少女マンガの読み過ぎではないか。タイプが違えばお互いを知りたくなる。そうやって話すようになって、親しくなる。似すぎている事は危険なことかもしれないが、私と空に限って似すぎていることはない。同族嫌悪など入り込む余地もないほど、私と空はかけ離れた存在だ。だいたい、美人という尺度は人それぞれで、恣意的な物差しでしかない。一体その物差しはどこの時代の何製なのかと、思わず聞いてみたくなる。きっと随分古い日本製に違いない。西洋のものさえ模倣していれば、万事がいいことなのだろう。
「うちら、幼稚園からずっと仲がいいよ」
私は嘘をついた。空と出会ったのは中学の時であり、幼い頃の空を、私は知らない。それは私のプライドに傷をつける行為だったが、そんなちっぽけなプライドなんてあっても仕方がない。
「え、マジ? ケンカとかしないの?」
隣のクラスの友人は、あっさりと私の嘘を信じた。その間の抜けた質問に、私は笑う。
「したことない」
「それって、友達なの?」
その問いには明らかに批判めいたものがあって、私は敵意むき出しで言いかえしそうになる。わずかな沈黙があり、それが気まずい空気だと思った友人は、無理に声を立てて笑った。
「冗談だよ、レン。冗談」
笑いながら許してくれと言わんばかりの友人に、私もにっこりと微笑む。こういうちょっとした間の悪さに、女子は敏感だ。これが長く続いたり、うまく処理できないと、空気が読めないとしてつまはじきにあう。
「分かってるよ。今のは、わざと」
ケンカをして、イジメにまで発展した光景は見飽きるほどに見てきた。よく「雨降って地固まる」と言うが、一度雨が降ったら地面はぬかるんで、どろどろになって、二度ともとには戻らない。意見の相違はあるだろう。だが、そこで話し合いではなくケンカになるのは、ナンセンスだ。特に平和主義者の空と、さばさばした私の組み合わせだから、言い合いにすらならない。ケンカなんて、品性を落とすだけの醜い争いだ。一言でいえば、ダサいのだ。
「で、井瀬は?」
「ベランダじゃない? 岩渕と一緒だと思うけど?」
私は心の中で、舌打ちする。堂々と彼女と食事とは、自分の立場を分かっていない。いや、分かっているからこその行動だろうか。井瀬と付き合うということは、多くの女子を敵に回すということだ。敵とまではいかなくても、嫉妬や反発を招いていることは火を見るよりも明らかだ。もしかしたら、岩渕を利用して、井瀬に近づこうとする輩もいるかもしれない。そんな女子たちから、井瀬は岩渕と言う自分の彼女を守っているつもりでいるのだろう。
「ありがと。またね」
私は笑顔で手を振って、友人から離れ、隣の教室のベランダに歩を進める。ベランダに出ると、桜吹雪が私を包んだ。思わず制服のスカートを抑え、目をかばった。目を開けた私の視界に映ったのは、一組の睦まじい男女だった。ベランダには数人の男女がいたが、男女の組み合わせはこの一組だけだった。そうでなくても、どの男子が井瀬なのかはすぐに分かった。黒髪に黒い瞳。白い肌に長い手足。そして、その井瀬に寄り添っていたのは、美しいと言うよりも、可愛らしいという言葉が似合う女子だった。それが岩渕という少女だった。井瀬同様に、黒髪に黒い瞳。白い肌に細い手足。まるで神様がこの二人を対で作ったかのような、納まりの良さが滲んでいた。まるで双子の兄妹のようだ。岩渕は私を見るなり怯えた表情を見せ、井瀬は何事もなかったかのように、私を見上げた。私が二人に見とれて棒立ちになっているのを見て、井瀬の方から声をかけられた。
「何か用ですか? 一組の海鳥さん」
井瀬は凛とした低い声をしていた。口の中で反響しているような、耳触りのいい声だった。思えば、噂はかねがね耳にしていたものの、こうして直接話をするのは初めてだ。外見も声も、非の打ちどころがない。これが井瀬行人。空が好きになったという相手だ。外見だけは合格としてしまいそうになり、焦って言葉がついて出た。
「何で、私の名前知ってんの?」
「一組の海鳥さんと言えば、有名人だったから。気分を害したなら、ごめん」
「有名人? あなたの方が有名だと思うけど?」
「モデルみたいな人だと聞いていたし、男女ともに人気だから、見た瞬間に分かったよ」
井瀬はけして私を褒めていない。ただただ、客観的に情報と実物の整合性を取って、私が一組の鳥海という女子生徒であると言ったまでだ。こんなふうに観察されるのは、小学校の時の朝顔くらいではないだろうか。私も井瀬や岩渕のことを見ていたから、井瀬を批判できないが、いい気分ではない。そして、不快さをにじませずに、もう一度井瀬は私を見上げて問うのだった。
「何か、用?」
「今日の放課後、体育館の裏に来てくれない?」
岩渕の目が見ひらかれるのが分かった。自分と言う存在を知りながら、それを完全に無視して井瀬を体育館裏に呼び出すというのが、信じられないのだろう。そして、もしも自分の彼氏がそれを受けたら、と心配するのだ。私にはその心配と不安が、手に取るように分かった。私だって、空が井瀬と会うのは反対なのだ。
「何を言ってるか、分かってるの」
井瀬と岩渕は、私が告白しようとしていると勘違いしている。女子が男子に体育館裏に来てほしいと言うことは、もはや告白しているのと同義なのだから、それも仕方ない。切れ長の目をさらに細めた井瀬は、まるで眩しいものを見ているような顔つきだが、その言葉からはわずかな怒りが感じられた。自分の彼女がいるにもかかわらず、告白するのは不躾だと言いたそうな声だ。岩渕は今から殺されるのではないかというほど、怯えて震えていた。井瀬はそんな彼女を守るように、堂々とした態度を崩さなかった。私は井瀬という人間が、感情が表情に出ない人間だと感じた。表情は穏やかなのに、声だけで相手を牽制している。
「私じゃないの。私の親友なのよ。あなたと話してみたいんだって」
「それは、海鳥さんの顔を立てるために、俺がそこに行かなくちゃいけないってこと?」
また、声だけで牽制された。しかも今回は言葉に不快感をあらわにしている。それも、計算された不快さだ。たったそれだけで、この青年の狡猾さが見えた気がした。いや。きっと多くの人はこの「好青年」に向かって、そんな下品な言葉は選ばない。おそらくはそんな評価をする前に、自分に向けられた不快感に、傷ついて逃げ出すだろう。
「俺は、行かないよ。友達にも、そう伝えて」
私は空と井瀬が、似た者同士なのだと思った。他人を傷つけるくらいなら、自分を犠牲にするタイプの人間だ。それは単なる自己犠牲ではなく、芯の強さがある。井瀬は今の彼女である岩渕を守るために、空が傷つくことを選んだ。空が望みがないと分かっていながら告白するという行為を、井瀬は良しとしなかったのだ。しかし、それでは空の気持ちはどうなるのだろう。ただ会って、自分が傷つくことを選んだ空の気持ちは、そんなにも悪いことなのだろうか。井瀬は空にあって、正々堂々とふればよかったのだ。そうすれば私の顔は立つし、空の願いも叶う。誰も傷つかずに済んだ。だからこそ空はこの道を選んだというのに、これでは空が悪者みたいで、私は腹が立った。何より腹が立ったのは、岩渕の態度だった。確かに愛らしく守ってあげたくなるような外見はしているが、井瀬に頼り過ぎてはいないだろうか。守ってもらうことを、当然のことのように享受するその姿は、高飛車で陰湿だ。この女のどこが気に入っているのだろう。岩渕は唇をかみしめたまま、俯いて、私の方を見ようともしなかった。どこか白けた雰囲気になり、私もやる気をそがれた。溜息を吐く。井瀬が空と同じタイプの人間ならば、もう梃子でも動かない。芯の強さは、悪く言えば頑固者なのだ。もったいないな、と思う。岩渕に井瀬はもったいない。それと同時に、空に井瀬はもったいない。
「分かった。でも、後悔しないでよ。相手はあの空だったんだから」
「それは、残念だ」
井瀬は、岩渕の肩を抱き寄せながら、薄く笑んでそう言った。きっと井瀬はあくまでも、自分の彼女を守っているのだ。私も苦笑しながらベランダを出て、隣の教室に戻る。先ほどの女子たちは、にやにやとした締まりのない顔で、私を見た。
「どうだった?」
「あれは手強いね。完全に彼女を守ってる感じ」
私が顔を大袈裟にしかめると、女子たちはこらえきれなくなったように笑う。そして声をひそめて、悪意を口にする。
「岩渕のどこが良いんだろうね。レンの方が全然いいじゃん」
「だから、私じゃないって」
思わずいら立って、笑顔が引きつる。
「分かってる。レンの友達でしょ? あの子の方が岩渕なんかより綺麗なのにね」
「ねえ、何で井瀬と岩渕って付き合ってんの?」
「境遇が似てるからじゃない?」
「境遇って何?」
「二人とも母子家庭らしいし、井瀬は妹が亡くなってて、岩渕は兄を亡くしてるらしい」
「そういえば、井瀬ってちいさい頃に交通事故にあったんだって」
「事故?」
「頭を打って、一時は意識不明だったらしいよ」
らしいの連発に、私は正直辟易していた。しかし、兄妹をそれぞれが想っていて、それで互いに面影を見ているのなら、先ほどの私の二人の第一印象はあながち間違っていなかったことになる。それに母子家庭だからといって、一括りには出来ない。母子家庭には母子家庭それぞれの現状と事情、そして環境があるだろう。両親がいてもそれがどれも等しく幸せではないように、母子家庭が全て厳しい生活をしているとは限らない。一言目に発せられた悪意は、言葉を重ねるごとに膨張して、蔓延していく。その根源には、岩渕への根深い嫉妬があることは、容易に理解できた。しかし、私はその輪の中には入らない。何故なら私はサバサバしているから男女ともに好感を得ているという設定の人間だからだ。
「兄妹愛って言えば聞こえはいいけど、気持ち悪いよね」
「井瀬も、本当は困ってるんじゃないかな?」
「あり得る。だって、岩渕ってぶりっこぽいし」
「きっと、いつかは重くて捨てられるんじゃない?」
「だからさ、レンの友達もきっとその内、チャンスがあるって」
「そうそう。時間の問題だよ」
本人たちはこの醜いサバトのような昼食の時間に、気付いていないのだろうか。他人の悪口は人間を醜く見せる。だから私は心の中を他人に悟られないように生きている。大体、他人の悪口を言って、何の生産性があるのだろう。何が楽しいのだろう。誰が得をするのだろう。
「ありがと。じゃあね」
私はその場から逃げるように隣の教室から立ち去った。
私は自分の教室に入る前に、深く溜息をついた。井瀬から貰った辛辣な言葉の数々を、一体どうやって私は空に伝えればいいのだろう。バカ正直に話す必要がないことは分かっているが、オブラートに包み過ぎてもいけない。嘘はすぐにばれ、よりいっそう空を傷つけるだろう。どう言うにしても、井瀬が体育館裏に来ないということは伝えなければならないのだ。私ははたと立ち止まる。廊下の喧騒が遠ざかる。もしも、私が岩渕のいない所で、空の誘いを切り出したら、結果は違っていたのではないのか。どんなに立派な男でも、空からの誘いを無下には出来ないのではないか。わずかでも、井瀬の心に隙があったなら、空の名前だけでゆさぶりをかけられたのではないか。何故なら、井瀬は私のことも知っていた。つまり、空のことも知っていると見て間違いないだろう。いくら井瀬だと言っても、隣のクラスの女子のことは耳にして、記憶しているということだ。そこに何の感情もないと言えるだろうか。記憶は、感情を伴うほどに強固になるという話しを聞いたことがある。井瀬はもしかしたら、自分の心の隙間を勘付かれたくなくて、空と会うことを避けたのではないか。自分の彼女への誠実さが揺らぎそうになるのが怖くて、空にあえて会わないことにしてのだ。私はその可能性に賭けてみることにした。
「レンちゃん、どうだった?」
限りなく澄んだ声で、空は小首を傾げながら私に問いかけた。心なしか、空のそのビー玉の瞳が濡れているように感じたのは、たぶん私の見間違いではない。分かり切った結果。変わらない結末。それはあらかじめ用意されていた事象のようだった。もしくは、これを天啓と呼ぶのだろうか。私は目を伏せて、ゆるゆると首を大きく左右に振った。私は何度も空に謝罪をして、自己嫌悪した。こんなことは最初から茶番だったのに、付き合わせてごめん。私の自尊心の為に、空の初恋を利用してごめん。許しなんて求めてはいなかった。いっそのこと、断罪が欲しかった。この、親友の失恋によって、自分がこんなにも満足するなんて、思ってもみなかった。
「レンちゃん」
空の細くてきれいな、それでいて小さな両手が、私の両手を包み込んだ。乾いてるのに、温かかった。私は瞠目した。そして、安心感に包まれていた。何だ。私はただ、空にこうしてほしかったのだ。
「ごめんね、嫌な役を押し付けて。でも、ありがとう」
私の胸は意外にも押しつぶされそうで、不覚にも涙がこぼれた。空に与えられた大役は、けして嫌な役なんかじゃなかった。謝る方は、私だった。感謝なんて、されるべき立場に私はいなかった。それなのに、空はいつもまっさらで、どこまでも真っ白だ。空は自分が傷ついてもいいのに、それを見せなかった。それどころか、私を気遣うなんて、バカなんじゃないだろうか。
「レンちゃん、泣かないで。ごめんね」
空が差し出したのは、薄紅色で無地のシルクのハンカチだった。どこまでも優しくて、いつまでも品のある少女なのだ。こんな時、私ならハンカチなんて使わない。ティッシュを乱暴に引き抜いて、迷わずに洟をかむ。ついでに涙も拭いてしまうだろう。私は空が差し出したハンカチを受け取り、目尻を拭いた。このハンカチに似合う動作をしなくては、と思った。私がいつも持ち歩いているような、変なイラストが印刷された布ではないのだ。ほんのり香る、柔らかな絹の布なのだから。
「ありがとう。洗って返すね」
「いいよ。レンちゃんの涙なら、大歓迎」
「変態」
私の辛辣な冗談に、空がやっと笑った。ふふっと、目を細めながら小さく。まるで蕾がほころぶように。私もつられて笑い、二人で笑った。空に冗談を言える人は、私以外にいないだろう。クラスの皆は、空を薄いガラスのように扱う。少しでも力を加えると、一瞬にしてばらばらに壊れてしまうと勘違いしているようだ。そして一度ばらばらになったガラスの欠片は、二度と元には戻らないと考えている。同じクラスでもこのように思われているのだから、「いわんや他のクラス、学年をや」というところだろう。
「私って、やっぱり変態かな?」
頬を赤く染めて、空は首をかしげて私を見る。
「だって、どうせ行くんでしょ?」
体育館裏に、とは、あえて言わなかった。
「え? どうして分かったの?」
空はただでさえ大きい目を、さらに大きく見開く。空とは長い付き合いだ。そして空を一番見ている人間は、私しかいない。図星は当然だった。
「空は頑固者だから」
こんなところが曽祖父に似たのかもしれない。そう言えば空が本当に怒ると分かっていたから、言わないことにした。何がガラスだ、と心の中で吐き捨てる。空は薄いガラスのような儚さを持っているのではない。それは空の外見しか知らない人間の、的外れな比喩だ。それとも、皮肉のつもりだろうか。空は自分の世界を持っている。それはある意味自立しているのだと思う。自分の世界を構築するものを、空は求めている。ただそれだけだ。例えば私という親友。例えば空の外見を公認してくれた先生方。例えば、自分の恋人。その求心力は鋼のごとく強い。それを知っているから、私では駄目なのかと思ってしまう。生涯におけるパートナーは、何も異性でなくてもいいじゃないか。私がいるじゃないかと。私も空も、恋人に求める性は、男性だけだ。世にいうガールズラブとか、ユリなんてものではない。そんな手垢まみれの言葉で、私と空を括らないでほしい。
放課後、空は一人で体育館裏に出向いた。来ないと分かっている相手を、待ち続けた。彼女と一緒に学校から帰路についた男を、ひたすら待った。私は教室で、空を慰めるためだけに、時間を潰していた。井瀬は、バスケットボール部に所属していたはずだ。私が待ちきれずに体育館に行ってみると、もうバスケ部は片付けをしていた。その中に井瀬があった。同じ新入生と共に、ボールを磨いたり、床をモップで拭いたりしている。体育館の隅には、もう井瀬の彼女が待っていた。痩せ型で身長は私や空よりも低く、皮膚は血管が浮き出るくらいに白い。それなのに、唇は紅を引いたように赤かった。まるで日本人形のような少女で、さぞ着物がよく似合うだろうと思った。片付けと軽いミーティングが終わったところで、井瀬は岩渕に駆け寄って、二人で親し気に話していた。不意に、岩渕の顔が青くなり、表情が凍った。まるで幽霊でも見たかのような反応に、私は苛立ちを覚えた。岩渕が視界の端に捉えたのが、私だったからだ。井瀬はそんな岩渕の視線を辿って、私を見つけ、納得したようだ。井瀬は私を無視して、荷物を背負い、岩渕に声をかける。「気にするな」とか「帰ろう」とか、そんな言葉だろう。岩渕も私を無視して、ぎこちない笑顔を見せる。私は体育館の入り口の廊下で、並んで近づいてくる二人を見ていた。空がこの場面に居合わせなくて良かったと安堵するのと同時に、居合わせたら気持ちの整理がついたのにとも思った。さりげなく、井瀬が岩渕の肩を抱いて、自分に引き寄せ、私の横を通り過ぎようとした。昼の休憩時間と同じ構図だった。岩渕は怖がってばかりの臆病者で、私との対峙を避けていた。そしてそれを井瀬がすかさず庇う。人気者の井瀬に選ばれたという意識や、自分が井瀬の恋人なのだという自信を、岩渕は持っていないように見える。そんなことで、よく他の女に井瀬を取られないものだと、あきれてしまう。
「あんたが、ちゃんと引き留めてくれないと迷惑なのよ」
私がぼそりと岩渕に向かって言うと、岩渕は肩をかすかに震わせた。井瀬が何か言おうと口を開いた瞬間に、私は廊下を蹴っていた。走りながら、片手で自分の口を押さえた。自分でも何故あんな言葉を口にしたのか分からなかった。これではまるで、私の本性が口をついて出てしまったかのようではないか。なんてヒドイことを言ってしまったのだろう。息が苦しい。それでも私は、息を切らしながら教室まで走った。
私が教室に戻ると、そこには空の姿があった。しまった、と思った。空は私に貸してくれたハンカチで、涙を拭いていた。勝算がなかった勝負に負けた。結果が分かっていたことだったが、それでも悔しいし、悲しいだろう。私は息を切らしたまま、立ったままで泣く空を呆然と見つめることしかできなかった。空はショルダーバッグを肩に引っ掛けた。その無言の行動が、多弁に語る。「今日は一人にして」とか、「泣き顔を見られたくない」とか、それ以上のものさえも、全部。空は身をひるがえして、教室から走り去った。逃げるように廊下を走り、流れるように階段を駆け下り、姿が見えなくなる。
「空、待って! 空!」
私は空を追いかけて、再び走ることになった。教室に置きっぱなしになった自分の荷物は、もうどうでも良かった。下駄箱で追いつけると思ったのに、一拍の迷いが仇となった。もう少しで追いつけるのに、なかなか距離が縮まらない。
空が点滅する青信号の横断歩道を渡る。私が横断歩道に着いた時には、もう赤信号になっていた。徐々に空の背中が、無防備な背中が遠ざかる。私は地団駄を踏んで、信号無視をしようと、車列が途切れるタイミングを見計らっていた。そんな時、一台の軽トラックが、前の車を勢いよく押し出した。玉突き事故だ。その弾みで、軽トラックの前の車が、車線を大きくはみ出して、歩道に進路を変えた。鳴り響くクラクションの中、私は叫んでいた。
「空‼」
私は咄嗟に駆け出し、軽トラックに押し出された車と、空の間に割って入った。私の意識は真っ赤に染まって途切れた。耳障りなクラクションの中で、空が私の名前を呼んでいた。
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