後編
平家が壇ノ浦に沈んだとき、完子の姿もその場にあった。
ひと月後には、姉の建礼門院徳子たちと共に都へ移送されたが、いよいよ上洛というそのときに、都に残っていた夫の噂が届いた。
平家の都落ちに同行しなかった基通は、新帝(後鳥羽)の摂政として、そして法皇の寵愛も深い側近として、いまも変わらず宮中にいる。
その基通が、数日前に行われた賀茂祭に際して、その前日に慣行として賀茂詣を行ったというのだ。
賀茂詣と言えば、その行列を見ようと見物人も出るほどに盛大な行事で、摂関家の権威を象徴する神祇儀礼でもある。
しかし、平家が滅亡してまだ間もないこの時に、一門の恩顧を永く蒙ってきたはずの彼が美しく着飾り、行列の主となって都大路を往く姿には、さすがに眉をひそめる者が多くいたという。
けれど、完子はいっさいの感情を見せることなく、静かにその話を聞いた。
そもそも、完子が都落ちに同行することになったのは、夫である基通が幼帝(安徳)を補佐する摂政として、平家と行動を共にするはずだったからだ。
それなのに、基通は落ち延びてゆく一行から抜け出し、再三の説得も聞き入れずにゆかりの寺へ籠った。
正妻である完子にはなにも言わず、たったひとりで。
夫の姿がないことに気づいた完子は、顔色をなくす女房たちを横目に、じわじわとこみ上げる笑いを隠すために両手で顔を覆った。
(あの方は、とうとう平家をお見捨てになったのね。わたしにはひと言もなく、ご自分だけ逃げておしまいになったわ)
周囲の動揺に反して、完子は夫の翻意を歓迎していた。
基通が平家を見捨てたということは、姉への気持ちよりも、自らの保身を優先したということだ。かねてから、法皇とは男色の噂があることも知っている。
(基通さまは、姉上のこともお見捨てになったのよ。やっと姉上からお目覚めになったのね。──ああ、なんて気分がいいのかしら)
笑いをこらえて肩を震わせる完子の姿は、夫の裏切りに泣く気の毒な妻に見えたことだろう。
けれどあの日、一行に悲壮な空気がただよう中で、彼女だけが喝采をあげていた。
そしていま、基通が平然と賀茂詣を行ったという事実も、完子にとっては平家への不義理ではなく、姉への再度の裏切りとしか感じなかった。
(やはり、あの方にとって姉上は、もうその程度の存在なのよ)
完子は口もとに添えた袖の陰で笑みをもらした。
いまさら、基通が自分を顧みてくれるとは思っていない。すでに完子以外の三人の女から、それぞれに男子が誕生している。しかしそのことすら、姉が過去の人となった証拠とばかりに、完子はよろこんだ。
それに、完子と基通は離婚したわけではない。完子は依然として基通の正室であり、都入りのあとは夫が所有する邸のひとつへ落ちついた。
翌日には夫の代理と称して、冷泉局という女房が挨拶にやってきた。聞けば、もともとは姉に仕えていた女房だという。彼女は大仰に目もとを押さえながら言った。
「こうして北政所さまとお話をさせていただいておりますと、白河殿が思い出されて涙がこぼれてまいります。きっと、よく似ておいでなのでしょうね」
姉は生前、その住まいから「白河殿」と呼ばれていた。その名は知っていても、一度も会ったことがないのだから、似ているかどうかなど知らない。
もっとも、夫からは「ぜんぜん、似てない」とのお墨付きをもらっているし、この女房にしてもそれくらいは知っていて、わざと言っているのではないかと思った。
(──なんだか、感じの悪い人ね)
完子はきわめて短い言葉で、淡々と返答を続けた。
けれど、完子がいくら素っ気なく対応しようとも、彼女の言葉を伝える女房が無難にやり取りをしてしまう。冷泉局はいつまでも帰る気配を見せず、宮中や都の様子を完子に話して聞かせた。
「賀茂祭での大殿のお姿は、いかにも艶やかで、お見事でしたよ。法皇さまも、桟敷から直々にご覧になったようでございます。わたくしも、大殿を法皇さまへお繋ぎした甲斐がございました」
「……あなたが?」
冷泉局の姉妹には、二代の后として有名な皇后多子や、法皇の中宮忻子がいる。その伝手を使ったのか、平家寄りだった基通を、反平家の頭目とも言える法皇と引き合わせるために奔走し、首尾よくそれは実現した。
「ええ、ええ。法皇さまは、大殿をひと目でお気に召されたようです」
「どうして、そんなことを──」
いったい、この女房になんの利益があるというのだろう。仮に基通が平家と命運を共にしていたところで、彼女は勤め先を変えてしまえば済んだことだ。
御簾のむこう側に座る冷泉局は、完子の問いが意外だったのかわずかに目を見ひらいた。そして、納得したようにゆっくりと笑顔をつくって答えた。
「近衛家がつつがなく続いてゆくことは、白河殿のご遺志でしたから」
「……」
「晩年は、お二人のあいだではそのようなお話ばかりでございました。よくよく近衛家をお守りするようにと、白河殿は口が酸っぱくおなりになるほど、大殿へくりかえしておいででした」
懐かしむように、しみじみと冷泉局は言った。
当時、ふたりの会話を取り次いでいたのは彼女なのだろう。そのやわらかな表情を見れば、夫と姉のあいだに流れていた空気も手に取るようにわかる。
呆然とする完子の背中を、ひやりとしたものが撫でつけた。
(基通さまは、姉上との約束を守るために──平家を、わたしを……あっさりとお見捨てになったというの?)
思ってもいなかった事実に、完子は視線を落ちつかなくさせた。ひどい耳鳴りがして、頭の中を引っ掻くようにかき回す。冷たくなった指先は、小さく震えていた。
(そんな、そんなこと……うそよ)
それからの会話はまったく記憶になく、冷泉局が退出したことにも気づかなかった。
やがて日が傾くと、完子は庭先で薄闇の中に咲く牡丹の花へ目を留めた。
(手折った花は、枯れてゆくだけ──でも、触れることのできない花ならば、いつまでもそこにありつづける……)
そうして、いまも夫の心には姉が生きつづけているのだ。触れることが叶わないまま、これまでも、これからも、ずっと。
(あの方にとって、わたしは
平家が摂関家との繋がりを保つために、また、その莫大な財産を管理するために、清盛は娘たちを嫁がせた。完子の人生も、そのようにして定められたということだ。
(わたしは……何ために生きているの?)
ぽとりと、完子の手に涙が落ちた。それは花びらがこぼれるようにすべり落ち、乾く間もなく新たな雫がはらはらと落ちてくる。
ひとひら、ふたひら──
西国の海へひとり、またひとりと沈んでいった光景がよみがえる。
彼女たちはなにを思いながら波間に消えたのだろう。どうして自分は生かされたのだろう。
ただひとつの恋さえも手に入らず、なにひとつ思うままにならない人生で、このさきも与えられた生を全うすることに意味はあるのか。
(わからない……生まれてきた意味も、死んでいく理由も。わたしには、なにもわからない──!)
握った手の甲に、震える袖口に、いくつもの花が降りしきる。
すべての感情という感情を涙の花びらに変えて流し尽くすと、完子は真っすぐに牡丹の花を見据え、空っぽになった心へ明りを灯すようにつぶやいた。
「それでもわたしは、生きてきた。そして、これからも生きていく。それだけよ」
◇ ◇ ◇
都入りから数日後、建礼門院徳子が出家した。完子もおそらく出家したものと思われるが、都へ戻ってからの動向については、没年も含めて明らかではない。
了
挿頭花(かざしばな) 小枝芙苑 @Earth_Chant
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