中編

 完子が基通の子を身籠ったのは、結婚から七年目のことだった。


 時間はかかったけれど、これまでに基通が他に子をもうけたことはなく、完子はまずまず大切にされてきた。


 相変わらず、姉のもとへ頻繁に参上していることは知っていたが、かならず近衛府の同僚たちを伴っているようだったし、なによりも完子自身が子を成したことで、ようやく上位に立てたような気がしていた。


(もう、姉上を気にしないことよ。これからは、この子を第一に考えなければいけないわ)


 妻の身体を気遣う基通は瑞々しいばかりの男ぶりで、直衣を着崩してくつろぐ様子はなまめかしく、見慣れたはずの完子ですらため息がもれた。


「女子がいいな」


 産み月も近づいたある日、基通が言った。


 摂関家の正嫡として男子は必要だったけれど、帝のもとへ入内させることができるような女子が欲しいのもまた、摂関家としては当然だった。


 もちろん完子にも、否やはない。


(基通さまを喜ばせて差しあげたい。どうか、どうか女子を──!)


 果たして、産まれたのは男児だった。しかも、誕生を喜ぶ間もなく早世した。


 あまりにもあっさりと新しい命が消えてしまったことに嘆く完子を、基通は熱心に慰めた。以前にも増して日を置かずに訪れ、自分の若い生命力を分け与えるかのように肌を合わせた。


 やがて、ふたたび懐妊した完子は、翌年の夏に女子を産んだ。


 母の悦びを代弁するかのように、力強く高らかな産声をあげる赤子に、完子はこれ以上ないほどの幸福を感じた。


 しかし、まだ目も開かないわが子を見た基通は、聞き覚えのある言葉を吐いた。


「……やっぱり、似てないか」


 だれに、とは思わなかった。


 表情をなくした完子に代わって、女房たちが耳の形が基通に似ているだの、肌の白さは完子ゆずりだのと、次々と言葉を並べたてる。


(ちがう、ちがう、ちがう! 基通さまが望んでおいでなのは、そうじゃないの!)


 完子は、夫が数年越しに求めつづけてきたものを知り、愕然とした。そして、それが手に入らないと知るや、あっさりと背を向けようとしている夫に失望もした。


「基通さま、この子を抱いてくださらないのですか」

「……抱き方が、わからないよ」


 素っ気なく言うと、基通はいっさいの興味を失ったようにその場から消えた。


 それきり、夫は以前のように完子のもとを訪れることもなくなり、年が明けると他の女とのあいだに男児が産まれたことを聞いた。


 完子はもう、なにも感じない。


 むしろ、姉ではないだれかへ心を向けてくれることをうれしいとすら思った。どんな相手でもいい、夫の中から姉の影を消し去ってくれるなら、だれでもよかった。


(おなじ姉妹なのに、なぜわたしではいけないの。いっそ、他人ならよかったのに)


 姉を疎み、自分を疎み、罪のない小さな娘まで疎ましく思ってしまう。娘を見るたびに惨めな気持ちになり、完子は乳母へ任せきりにした。


 そうして一年が過ぎるころ、牡丹の花が終わる季節に早すぎる姉の訃報が届いた。

二十四歳だった。


 一度も会うことのなかった姉の死を、どう受け止めるべきなのか完子にはわからなかった。なにも気づかずにいれば、いくらかは悲しみの混じった涙を流すこともできたかもしれない。


 けれどいまは、形ばかりの弔いの気持ちすら湧いてこなかった。


 言葉にならない感情をもてあます完子に代わって、宵越しの雨が涙を流すようにそぼ降る音が聞こえる。そのやわらかな嘆きの雨にまぎれて、喪に服しているはずの夫が人目を忍ぶように訪ねてきた。


 基通は突然の訪いに困惑する完子をもどかしげに引きよせると、無言のまま露わにした白い身体を、つま先から指の一本いっぽんまで念入りに、そして潤いに満ちたもっとも深い場所まで、時間をかけて愛撫しはじめた。


(わたしの中に、姉上を探していらっしゃる……。こんなときにしか、わたしを思い出してはくださらないのね)


 恋しい人の欠片を見つけようと執拗に完子を攻める基通は、その目に涙を浮かべたまま、ときおり嗚咽をもらしている。


 うっすらと湿り気を帯びた肌を薄紅色に染めて、完子は夫の頬へ手を伸ばした。


(──可哀そうな人。だれにも知られず、姉上に一生囚われつづけるおつもりなの?)


 夫の孤独を思えば気の毒なことだと同情はするけれど、それは完子もおなじことだった。けして自分を顧みることのない相手だとわかっているのに、恋しくてたまらない。ふり向いてほしくてたまらなかった。


 つかの間のまどろみのあと、基通は背を向けたまま言った。


「……すまなかった」


 その言葉に、完子は頭を殴られたような気がした。


 結婚した当初、基通は臆面もなく姉のことを話して聞かせていた。それが、いつの頃からか、ふっつりと口にしなくなった。もうずっと、姉の話は触れてはいけない話題として、互いに避けていたように思う。


 いま、基通の口から出た謝罪の言葉は、長年にわたる完子への裏切りを認めるようなものだった。自分の心は、ずっと姉のもとにあったのだと。


(どうして、いまさら──。ずっと知らぬ顔をしてくださればよかったのに)


 完子は感情をにじませた声を夫の背中へぶつけた。


「そのような言葉は、聞きたくありませんでした」

「すまない」

「もう、おやめになって!」


 声を荒らげた完子をふりかえることもなく、基通はもう一度「すまない」と言い残して帰っていった。


 その年の冬、基通は関白に任じられ、完子も北政所となった。翌年の春には完子の姉の中宮徳子が産んだ皇子が践祚し、基通は摂政となる。


 そして、姉の一周忌が済んだころ、基通は養女を迎え入れた。


 猶子となったその女子の出自を聞いた完子は、絶句したあとに声をあげて笑った。


「ほ、ほほほ……ああ、なんてこと。あの方は、そうまでして──」


 顔も知らない姉の影が、夫の背後からこちらを見ている。


(まさか、姉上と母を同じくする方の姫を引きとるなんて……。基通さまは、いつまで姉上の面影を追いかけるおつもりなの──!)


 夫が迎えたのは、数年前に亡くなった清盛の次女が生んだ女子だった。基通が求めてやまない姉とは同母の姉妹で、完子には異母姉にあたる。


 あの夜の謝罪は、もう姉への恋慕を隠すつもりはないという意思表示だったのではないか──。


 そう思い当たった完子は自嘲するように鼻で笑うと、庭先でいつまでも咲いている牡丹の花を忌々しげに睨みつけた。

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