第3話 交差する二人

「学生さんは、将棋をやったりする?」

 間中さんは、いきなり話題を変えてきた。


 しかし僕はそれどころではなかった。


 間中さんはメーターを上げる、と言ったのにそのままにして走り続けていたからだ。料金は既に四千円を超えていた。


「あの、さっきメーターを上げるって」


「ああ、メーターを本当にあげちゃうと、事故があった時保険降りないから賃走状態じゃないとダメなのよ」


「え、そうなんですか? じゃあ……」


「差額は私が負担するわ。楽しく話させてもらっちゃったし、気にしないで」


「そんな訳には……」

 僕はそう強く訴えたけど、間中さんは聞く耳を持たなかった。


 僕はあきらめて、

「将棋はやりますよ。むしろ好きな方です。そんなに強くはないですけどね」


「よく、『大手は日野の万願寺』って言わない?」


「あ、確かに何度か聞いたことが」

 間中さんによれば、武蔵野台地から甲州へ向かう最初の難所がこの多摩川。


 江戸の慶安年間に設けられた甲州街道の関所がここ万願寺で、ここが江戸防衛のための最終ラインだと云う事で、将棋では王手を掛ける符丁のように使うのだという。


 そうこうしているうちに、国分寺駅に到着した。


「本当に、こんなに良くしてもらって、申し訳ありません」


「『申し訳ありません』じゃなくて、『ありがとう』、って言ってくれた方がうれしいな」


「そうですね。本当にありがとうございました」

 僕がそう言うと間中さんは何事もなかったかの如く走り去った――。



 あれから六年経っていた。

 間中さん、今もタクシー運転手をやっているのだろうか。


 僕は、根拠がない淡い期待をもってタクシーの順番を待っていた。


 残念ながら僕の順番で回ってきたタクシーの色はあのオレンジ色の車ではなく、黒いタクシーだった。


 自動ドアが開いたので車内に乗り込むと、僕は目を疑った。


 なんと、あの間中さんが運転席にいたからだ。


「国分寺駅まで。三千五百円で行けるところまでお願いできますか?」

 僕のその言葉を聞いて驚いた間中さんは改めて振り向いた。


「あ、あの時の学生さん?」


「はい。偶然にもほどがありますよ。僕、また寝過ごしちゃって」


「またですか(笑)」


「今日は、ちゃんと国分寺までの料金、払いますから」

 僕がそう言うとクスっと笑って間中さんは車を発車させた。


「もう何年経つかしら? 実はね、私、新学期から修士課程に進むことになってね」


「えっ? ついにお金、貯まったんですね」


「うん。実は今日が最終乗車日なんだ。前の会社では随分とピンハネされてて。国分寺までたぶん五千三百円。目標額に丁度届くのよ!」


「『王手は日野の万願寺』ですね」

 こんな巡り合わせがあるなんて。


 僕は間中さんの嬉しそうな横顔を見ながら、アカデミアの最も暗い闇に埋もれた自分のことを言えずにいた。

 

 複雑な感情を乗せたタクシーは、甲州街道にテールランプを曳航させて走って行った。




 

 


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絶望と渇望の交差点 Tohna @wako_tohna

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