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「またせたなセレン」
左腕の傷口を右手で庇いながら、セレンの下へ季人が歩み寄る。
彼女は季人がそばを離れたときと変わらない姿でそこにいた。
その顔に笑顔を湛えて、体を弛緩させて、まるで幸せな夢を見るかのように。
「……セレン?」
うたた寝をしている少女を静かに起こすくらいの声量で静かに声を掛ける。
しかし、呼吸荒げる事なく、切り取られた一枚絵のように微動だにしない。
「……」
再び声をかけようとした瞬間、天井の明かりがこれまで灯っていた非常用の黄色ランプから通常の白色へと戻り、周囲への視界がこれまで以上に利くようになった。
その明るさに照らされたセレンを見て、季人は言葉を失った。
きっと、今の自分は先ほどの死闘で感情が高ぶりすぎて、何処かおかしくなっている。 そうでなくては、自分は異常者となったか……。
――綺麗だ……。
彼女の姿に一瞬ではあったが、季人は正気を失った。
彫刻で象られた女神のようだった。 もしくは、切り取られた絵画の様だと思ってしまった。 黄金律をなぞったと言っても過言ではないと、本気でそう思ったのだ。
自分は決してネクロフィリア《死体愛好家》ではない。 それは自分をよく知るからこそ断言できる。 しかし、それならばどうしてそう思ったのか。
その答えに行き着くことに時間はかからなかった。
数日前、音楽ホールで聞いたセレンの音楽を調べている時に、その場面を描いた絵画も関連付けされていたから、良く覚えている。
美術の教科書にも、舞台のワンシーンにも出てくるあまりにも有名なその光景。
彼女のその姿は、戯曲ハムレットに出てくる少女を描いた絵画……。
父の死を悲しみ、眠るように川の中で息を引き取っていた悲劇の少女。
セレンの姿は、そのオフィーリアそのものだった。
「……?」
セレンの胸元が、天井の光を反射させた。
それは、セレンがいつも首から下げていたであろう、シルバーのホイッスルだった。
それを見た瞬間、季人は全てを理解した。
「……そうか。 お前が助けてくれたのか」
あの時、自分がどうして撃たれなかったのか。 なぜ那須が季人に向けていた銃口を上に逸らしたのか、その訳が分かった。
那須は季人の動きを探るために、耳に装着していた音響低減効果のある補聴器を外していた。 それはつまり、その時にはもうセレンの能力を防ぐ手段を失っていたという事だ。
加えて、異常なまでに良すぎる聴力が、騒音にかき消されてしまうほどの、恐らく吐息程度の力であっただろうホイッスルの音量も拾ってしまったのだろう。
単音しか鳴らない、音色も奏でられない、リズムさえ刻めたか分らない、掠れるようなその笛の音が、ほんの少し、聞いたものの腕を上に向けるくらいの小さな力の介入を許してしまった。
那須は最後の最後で、セレンの力に負けたのだ。
自分は、そんな彼女の最後の一押しを手助けをしたにすぎない。
「ありがとうな、セレン」
季人は笑顔のまま眠るセレンの体を抱え上げる。
――軽い。
血液と一緒に、その魂までもが、抜け落ちてしまったかのように。
「……お疲れさん。 今日は、疲れたな。 ゆっくり、休め……」
抱き上げたその小さな体はまるで、今まで流れる川の中にいたかのように、十一月に吹く夜風よりも、冷たかった。
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