九相図

赤城ハル

第1話

 知人から年代物の美味しいワインを手に入れたということで呼び出されて、平日の昼間からその知人の家でスモークチーズやジャーキーを食しつつワインを嗜んでいた。

 私達は近況や経済、女、旅行の話をした。そして、それらの会話の後で彼は思い出したかのように面白いものがあると言って私にプリントを見せてきた。

「試しに行ってみなよ」

 私は彼から手渡された一枚のプリントに目を配る。

「総合個展?」

 プリント上部には総合個展と書かれている。

 総合で個展って矛盾しているのではないか?

「なんだい、こりゃあ」

 プリントに怪しい視線を向けながら私は聞いた。

「色んな画家の個展だってよ」

「売れない画家だろう?」

 私は馬鹿馬鹿しく思い、プリントをテーブルに置いた。

「そうでもないらしいぞ。なんでも会場では画家名は伏せて絵と値段だけらしいぞ」

「そりゃあ、ますます胡散臭いじゃないか。きっと無名の画家の絵を高額で買わされるんだろ?」

「いや、一応事前に名前は挙げられているぞ。ほら」

 彼はプリントを捲り、裏側を見せる。そこには枠の中に画家の名前が五十音順に連なっていた。

「へえ」

 中には外国の名前がある。

「ほら、これとか」

 彼は外国人の名前を指差す。

「画家の名前なんて知らないって」

 私は手を振って笑った。

「じゃあ、これは?」

 次に彼が指差したのは日本人であった。

「美国宏? 知ら……知らないな。うん。……でも、どっかで……」

 記憶のどこかに引っ掛かっている。思い出そうとしても出てこず、かなりもやもやする。

「この前殺害された画家だよ」

「そうだ。確か兄の錬に殺されたんだっけ。で、その兄が自殺したんだっけかな?」

 私は少し自信なく言う。

 彼は大きく頷き、

「なんでも遺作らしいぞ」

「へえ」

 それでも興味は無かった。

「それとどうやら、この個展は知識と鑑定眼が問われているらいぞ。鑑定家への挑戦なんて言われているな」

 彼は面白そうに言った。そういえば彼は文化インテリを嫌っていたのを思い出した。彼からしたらそういう文化インテリに恥をかかせる興味深いイベントなのだろう。

「君は行くのかい?」

 てっきり行くものだと思っていたら、

「いいや。残念ながらその日はフランス出張さ。だから君、代わりに行ってみてくれたまへ。君も少しくらい部屋に芸術品を置いてみる気はないかい?」

 しかし、私には部屋に絵を飾るという気は湧いてでなかった。


 それから三日後、銀座で買い物をした私は帰りに総合個展の会場前を通った。

 ふと知人が言っていた総合個展だなと思い、足を止めて会場を見上げていたら、スタッフであろう女性に声を掛けられた。

「参加無料となっておりますのでどうぞ」

 そして女性はプリントを差し出してきた。私はついそれを反射のように受け取ってしまった。今さら結構ですと言えなく、まあ無料だから問題ないかと考えて会場内に入った。

 会場内は広く、そして客の方も意外と大勢いた。中はまるでプレハブで出来た迷路のようになっていて、その迷路の壁には絵と金額が記されたプレートが嵌められている。

 絵画は油絵から水彩画、西洋の宗教画から日本画の水墨画まで取り揃っている。

 正直、たかだか絵一枚でこれほどの値段で買うなんて馬鹿げている。絵なんかよりも写真を飾った方がましなのではないだろうかとつい考えてしまう。

 プリントには画家一覧がある。しかし、画家の名前を見てもどれも知らない画家ばかり。まあ例え知った画家がいても、絵画にも知識がないので画家と作品を一致させることはできないだろう。

 ふと飾られた絵画を眺めていると熱心に絵画を見つめている人がいた。

 和服姿の老人が目を細め、絵を見るというよりタッチを調べているようだ。手には知人の家で見たあのプリントが。画家名一覧の中、数名の画家を赤く丸を付けていた。

 その老人は目当ての画家の作品ではないと分かり別の絵を鑑定し始めた。

 そういった人物は所々にいた。きっと彼らは鑑定家なのだろう。そして目当ての画家の絵を探しているのだろう。時折雑誌の記者らしき人物が鑑定家にインタビューをしている。

 ある者は「邪魔だ」と一蹴、またある者はインテリぶった知識を語る。

 それ以外の客はというと、ただ展示会気分で物見遊山の者やデートとしてカップルで来ている者であった。彼らは買う気はさらさらないが、幾人かの着物や高級スーツの者が興味深そうに絵を見つめていた。

 私はある裸の西洋女性の油絵を見た。立体感のあるように綺麗に書かれていても別段劣情は湧いて出ない。だがあまりにもじっと見ていたら勘違いを受けそうなので隣の絵を見る。隣はピカソのような絵であった。キュビズムというやつだっただろうか。まるで子供が描いた絵のようだ。値段を見ると安かった。ということはピカソに傾倒した画家が描いたものであろう。

 それから道を進みながら絵を見続けているとある知ったような絵があった。それは人の顔をカラフルに塗り、ギョロリとした目を書いたもの。そのカラフルな人の顔が画面一面に幾つも書かれている。確かとある芸人の絵風だったはず。プリントの画家一覧にその芸人の名前が連なっている。

 こういう絵もあるのかと隣の絵へと視線を向けると夜の月の絵があった。いや、月の絵ではなかった。二匹の蛇か。いやそれも違う。よく目を凝らして窺うとそれは白い竜だ。黒を背景に白い竜が二匹丸まっていて月と見間違ったのか。

 今まで芸術性のある作品から急に幻想的な子供が好みそうなモンスターの絵が現れたので私は眉を潜める。

 しかし、この絵どこかで見たような。

 私はプリントから画家一覧に目を配る。知っている画家を探すも私は芸術に詳しくないのでほとんどが知らないな名であった。そんな中、画家一覧下の方で目が止まった。

 美国宏。

 そうだ。美国宏だ。ニュース番組でよく見た絵だ。確か美国宏はモンスターのイラストレーターでカードゲームのイラストをしていたと報道されていた。この絵の他にモンスターの絵はないので美国宏で間違いなさそうだ。

 その後、絵を見ていくもこれといって惹かれるものはなかった。次第に足も早くなる。だが奥に進むほど人の密も多くなる。

 どうしたものかと逡巡していると少し先の角にスペースを見つけた。私はゆっくりと前へ進み、そのスペースに辿り着いた。そしてどうしてここだけがスペースがあるのかも知った。それはここから窺える絵が目も背けるようなグロテスクで嫌悪感を抱かせるものであったからだ。

 それは日本画で死体の絵であった。潰れた顔、膨れ弾けた腹、そこからはみ出た腸。気持ち悪くて早くその場から避けたかったが人混みはなぜかいっこうに減ることがない。私は絵から目を背けるもなぜが気になって、ちらちらと窺ってしまう。そして分かったことだがどうやらその絵は女性の死体であるらしい。私の近くにとある鑑定家と記者が近づいてきた。鑑定家は記者にあれこれと絵画について蘊蓄を語っていた。聞き耳を立てたくはなかったが近くにいるので否応に聞こえてくる。

 そして鑑定家が女性死体の日本画に気付き、

「あれは駄目だな」

 と言った。

 記者も私もつい首を傾げた。

 日本画はここから少し遠い。さらに人の目線の高さではなく頭一つ分の高さに飾られている。それを一瞬で駄目だと告げたのだ。

「あのグロテスクの絵が何か?」

 記者が尋ねた。

「あれは九相図の一つだろう」

「九相図?」

「小野小町とかで有名だろう」

「小野小町は知っていますが、その九相図というのは知りません」

 記者は申し訳なく答えた。

 鑑定家はやれやれと首を振り、

「風葬は知っておるか?」

「えーと、骨を蒔くやつですか?」

「違う」

 鑑定家はどうしてそんなことも知らんのかという目で記者を睨む。そして溜め息交じりに話し始める。

「いいか。風葬というのは死後、土葬も火葬もせず遺体を道に置き、犬や鳥畜生に肉を食われ、残った骨は風化されなくなるようにする葬儀だ」

「はあ、そんな葬儀があるんですね」

「もちろん、今はなく昔のだがな。で、九相図は風葬を九段階で描いたものだ」

「なるほど。あれ? あそこのは一枚しかありませんね」

「だから駄目なのだ」

「どこかにあるのですかね?」

「いいや違うな。あれ一枚だけだろう。それにあれはつい最近書かれたものだろう」

「つい最近ですか? ここからよくお分かりで」

 と記者はどこか含みのあるいい方をする。鑑定家は反応して、

「綺麗すぎるんだよ」

「ほう、と言うことは本物はもっとひどいと?」

「紙の品質が違うだろ」

 私はその九相図と呼ばれる絵を見る。言われてみると確かに確かに紙の品質が違う気がする。古い日本画といえばすぐに破れそうな黄ばんだ紙をイメージする。しかし、あの九相図は角も直角で辺も真っ直ぐである。色の着いてない所は綺麗に白い。

「にしても全然前に進まんぞ」

「もしかしたら掘出し物でもあったのでしょうかね?」

 とそこではるか前方から驚嘆の波が伝播する。

 彼等が口にする単語に私も驚き、つい反芻する。

 もちろん前方からの言葉は鑑定家や記者にも伝わる。

「何、ブルーピカソだと! ど、どいてくれ」

 鑑定家は無理に前へと人を掻き分けて進もうとする。

 本当にピカソなのか?

 プリントの画家一覧にはピカソの名前はない。


「で、結局本物のピカソではなかったのか?」

 フランス出張から帰ってきた知人が土産を持ち、私の家に訪れてきた。そして私は先日の総合個展のことを語り、購入した絵を彼に見せた。

「ああ。後で贋作だって判明したらしい」

「というかピカソの名はなかっただろう?」

「ああ、だからあの時はかなり騒然としてたよ。幻のブルーピカソが発見ってね」

「で、その贋作は結局誰のだい?」

「贋作でもないよ。ちゃんと描いた人がいるんだから。名前はカルセ・デュなんたらだよ」

「でも周りからしたら紛らわしい贋作だな」

「それを言ったらピカソ以外のキュビズムは全部贋作だよ」

「それで君は絵を買ったんだろ?」

 その質問に私は苦笑した。

「芸人の絵を選んだつもりが間違えて隣の絵を買ってしまってね」

 私は肩を竦めて言った。

 別に絵に興味はない。ただフランス出張帰りの知人にびっくりさせたいというだけだった。値段も安かったし。私は数ある購入者から見事抽選に勝ち、手に入れた。だが私が購入したのは別の絵であった。まあ、その絵も彼を驚かすには充分であった。

「これがあの美国宏の絵か」

 彼は二匹の白い翼竜を見て、感心したように言った。

「少し子供っぽいだろ」

「だが美国宏の遺作だろ?」

「遺作かどうかは知らないよ。タイトルと画家が美国宏ということしか分からんよ。それ以外の説明は受けてない」

「随分いい加減な運営だな。タイトルは何て言うんだい?」

「月の白竜さ」

「ああ!? 月か!?」

 どうやら彼には月には見えていなかったらしい。


 一週間後、私の元にある妙齢な女性が訪れてきた。

 その女性は名を御堂奏といい、私に美国宏の遺作、月の白竜を買い取りたいと言ってきたのだ。その女性の服装は赤い着物であった。それは何かのパーティーがこの後にあるのだろうか。それにしても妙に着物姿がしっくりとしていた。もしかしたら普段から着物を着る職業なのかもしれない。

「いきなりのことで申し訳ありません。どうしても月の白竜を譲っていただきたく、伺いに参りました次第で御座います」

 とゆっくりとだが滑らかに言葉を放った後、頭を下げた。

 このような妙齢な女性があのようなモンスターイラストを求めるというのが不思議でならなかった。

「購入の3倍の値段をお出し致します」

「あの、本当にこの絵が欲しいのですか」

 まだリビングに飾っている美国宏の遺作、月の白竜を振り返って私は聞いた。

「はい」

 とても澄んだ声音で返事をする。

 正直3倍も出してくれるなら譲っても構わないと考えている。でも、もしかしたらこの絵は私が思っている以上の価値がある絵ではないかという考えが頭をぎる。

「誰かに頼まれてですか?」

「いえ、私個人がそれを欲しているだけです」

 欲しているという言葉に些か引っ掛かる所がある。

「あなたは美国宏のファンなのですか?」

「いいえ。ただ、その絵は私が彼に依頼した作品なのです」

「美国宏と知り合いだったと?」

「はい」

「証明できますか?」

「いいえ」

「……できないのですか?」

「はい」

 その返答にはさすがに困ったものだ。

「少し考えさせてもらっても宜しいですか?」

「分かりました。ではお返事はこちらの方に」

 御堂奏は名刺を一枚、私に差し出す。

 名刺には私家香道、御堂奏と書かれている。

「香道……ですか。確か香木のですよね」

 前に源氏香について体験したことがある。

「はい。京都の方でやらさせて頂いております。流派もなく個人のままに」

「なるほど」

 だから私家なのか。


 御堂奏が帰った後、私は美国宏の作品の値段を調べた。だが、私が思っていたより値段は低かった。さらに値段が張っているほとんどが絵ではなくカードゲームの方である。しかもカードイラストではなくカードの性能の方に価値があるらしい。ということは御堂奏に3倍で買い取ってもらえるというのが美味しい話だということである。

 私は翌日、御堂奏に連絡をした。

 すると御堂奏は昨日のうちに京都に帰ってしまっていた。彼女はすぐにでも伺うというので私は絵画は配送で金は銀行振込みでいいと伝えた。彼女もそれで構わないと納得してくれた。

 その後、彼女から返礼として香木が送られてきた。


 しばらくして仕事でたまたま京都に寄ったとき、ビアガーデンで彼女と出会った。

 彼女は一回しか会っていない私を覚えていて、私の方はというと着物の女性でかつ美人であったから顔を覚えていた。実は彼女が私に気付く前に私の方が彼女に気付いていた。しかし、向こうは私のことなんて覚えてないだろうと考えていたので声を掛けずにいた。

「今日はお旅行で?」

「いえ、仕事で立ち寄っただけですよ」

 着物だからお猪口とイメージがあるゆえ、袖をまくりビールジョッキを持つというのは新鮮味があった。彼女がビールを飲むときに首が伸び、どこか蠱惑的であった。口元をハンカチで隠す仕草にもつい目を奪われてしまった。

「明日はお暇ですか?」

 魔法が解けたように私は現実に引き戻され、

「えっ!? ああ! 明日ですか? はい、明日は暇ですね」

「それは良かった。私、一乗寺の方で香道をやっておりますの。どうかお立ち寄り下さいませ」

「ええ、それはもうぜひ」

 私は明日の昼に伺うことを約束した。


 翌日の昼、私は一乗寺駅に降り立ち、タクシーを捕まえて、運転手に昨日、新たに貰った名刺を頼りに彼女の住所を告げる。

 タクシーは市街地を抜けて、閑静な住宅街を通り過ぎる。そして山や川、田畑、所々に建つ日本家屋といったノスタルジーな風景が飛び込んでくる。

 そしてタクシーは坂の下で停まった。

「坂を上った先に住所宅がありますので」

 坂は舗装されていないとはいえ、車が通れないほど細いわけではない。

 運転手は私の疑問を読み取ったのか、

「Uターンが出来ないんですよ。すみませんがここからは歩いてもらえませんか?」

 仕方ないので私は料金を払い、タクシーを降りて坂を上った。

 右手は緩やかな小山で、左は竹藪であった。

 まあ、たまには歩くのも悪くないかなと感じ始めた。

 坂を越えると左の竹藪が次第に細い木々に代わり始め、そして木々から生け垣に代わり、古風な一階建ての日本家屋に辿り着いた。

 門扉にはチャイムもインターホンもなく、どうしたものかと思っていると、家屋の戸が音を立てて開いた。

「どうぞ」

 大きく発したわけでもないのに私の耳にハッキリと届いた。私は門扉をくぐり、

「こんにちは」

 と挨拶をすると、向こうも柔和な笑みで、

「こんにちは。さ、どうぞこちらへ。暑い中、大変だったでしょ」

「いえいえ、タクシーでそこの坂まで来たんですよ。あとは坂を上ったくらいですよ」

 玄関を越え、手土産を渡すと、

「そんなこっちがお呼びだししておいて、すみません」

「気にしないで下さい」

 彼女は私に香道を行う部屋へと案内をした。その時、廊下である一枚の絵を見つけた。それは私が譲った絵ではなく、

「九相図……ですか?」

 総合個展で見たものとは違い、着物、いや十二単だろうか女性が床で横たわっている絵だ。周りに家族らしき人物も描かれている。

「すごいです。よくお気付きで」

「いえ、偶々これと同じ様な絵を見たことがありまして」

「もしかしてこの前の総合個展でですか?」

「ええ。その時のものと似ていたので」

「実はあの絵、私が購入したのです」

「そうなのですか?」

 私は素直に驚いた。総合個展の九相図は目の前の絵に比べてグロテスクであった。

「九相図がお好きで?」

 彼女は小さく首を振り、

「いいえ。初めは九相図というのも知らなかったのです。この絵を手に入れたのも綺麗な日本画と思ってですよ。まさか九相図でこの女性は亡くなっているとは知りませんでした」

「確かにこの絵だと眠っているように見えますね」

「ただ九相図を知った後、この絵の彼女がどのように変貌するのか知りたくなって」

「なるほど」

「そしてやっとこの前の総合個展で全部手に入りました」

「全部ですか。残り八枚揃えるのは大変だったでしょ」

「いえ、そんなに大変ではありませんでしたよ。殆どはすぐに手に入りましたから。大変だったのは残り八枚と思ってたことですかね」

「八枚では?」

「実はこれを除いて九枚なんですよ。九相図には色々あって中には生前の絵と九枚絵を足したものなどがあるんです。しかもこれは現代に書かれた九相図なんですよ。だから本物とは言えませんね」

「そうなんですか。描いた人はだれなんですか?」

 私がそう問うと彼女は数回瞬きをした。何かおかしなことを聞いただろうか? もしかして著名な画家だったのか?

「美国宏ですよ」

「そうだったんですか!?」

 それは驚いた。あのモンスターの絵を描いた人がこのような日本画を描けるとは。

「しかもこの女性、モデルは私らしいのですよ」

 その言葉に私は息を飲んで驚いた。

 そして私は目の前の絵の女性をじっと観察した。

 似ているだろうか? いや、似ていない。顔が違う。

 服も絵の中では十二単で彼女は着物。似ているようで違う。外国人は騙せても日本人は騙されないだろう。

「本当にですか?」

「私もびっくりしましたよ。似てもいないので」

 と彼女は肩を竦めて、おかしそうに頬笑む。

「そうだ。香道の前にこちらへどうぞ」

 私は奥の部屋に連れていかれた。その部屋はアンティークの部屋であった。物置き部屋と違うのはスペースがあり、置くというよりアンティークを眺めるための部屋であった。部屋は広く、中には色々な芸術品があった。

 彼女は部屋の奥へ私を案内する。そして、

「これが九相図です」

 奥の壁には三段掛けで計九枚の九相図が掛けられている。

 その絵を見て私は精神的ショックで震えた。

 九相図は恐ろしくおぞましい絵であった。

 一枚目は腹が膨らみ、

 二枚目は肌が紫に変色、ハエが群がっている。

 三枚目は体の体液が滲み出て、

 四枚目は皮膚が破けて、

 五枚目は肉が爛れ、

 六枚目は犬、カラスが肉を啄み、

 七枚目は皮と骨だけに、

 八枚目は風化され一部の骨だけに、

 九枚目は何もない。

 私が総合個展で見た絵は五枚目のものらしい。一枚だけなら恐ろしさはなかったが並べられ全てを見るとなると恐怖が倍増する。

「どうですか?」

 彼女が私に感想を聞く。

 私は汗をかいていないが額の汗をかくようにハンカチで額をこする。

「一枚だけならまだしも全体で見ると得も知れね恐ろしいものが込み上げてきますね」

「そうでしょう。私もついこの前、全部揃えてここに飾ったとき、そのように感じましたわ」


 私達は部屋を出て香道を部屋に向かった。

 畳部屋で広さは十畳ほどで、真ん中に囲炉裏があり、入って奥に私が譲った月の白竜が飾っていた。

「そちらへどうぞ」

 と私は座布団の上に座るよう促される。

 彼女は囲炉裏を挟んで向かいに座り、囲炉裏の隣に置かれていな艶のある紫色の箱の蓋を開ける。中には砂の入った小さい皿、そして粉々の木片が。まるでお焼香のようだなと感じた。

「私の香道は普通のとは違うのです。確か香道には多少の心得が?」

「前に源氏香を」

「そうですか。では簡単に説明させもらいますと私の香道は香りを瞑想をするものです」

 聞くというのは香りを嗅ぐということだ。

 彼女は皿を囲炉裏の中央に置く。そしてその皿の中央に木片を置く。

「囲炉裏の上に木片を置けばと思われるかもしれませんが念のために砂の入った皿を置いているのです」

「念のためとは?」

 香道は煙が出ても火が燃え盛ることはないはず。

「私の香道ではよく眠ってしまうのですよ」

「まあ、瞑想してたらうとうとして眠ることってありますよね。私は大丈夫ですよ。座りながら眠ることはありませんから」

 それは本当である。私は昔から座りながら眠ることができない体質で学校では一度も居眠りをしたこともなければ、夜行バスでも眠気があっても眠ったことはない。

「そうですか」

 彼女はやんわり笑った。そして箸で大きめの香木の破片の隅にチャッカマンで燃やし、手を振って風で火を消す。香木は黒く焦げて煙が立つ。

「それだと火は消えませんか?」

 いや、すでに消えているように見えるのだが。

「大丈夫です。ちゃんと燃えていますよ」

 次第に部屋に甘い香りが充満する。

 私は目を瞑り、瞑想をする。

 香りは濃くなり、それと反比例して私の意思が薄くなる。いけないと思いつつも閉じた瞼を開けることができない。体も動かすことができない。そして体と心が分離されたように外の情報が香りを残して消えた。


 目を開けた時、世界が開いた。

 私は下着一枚で道端に倒れていた。いや、私ではない。私の体だ。幽体離脱で魂が抜けたように私は空から体を見ていた。

 体を動かせないが私には体の五感が伝わっていた。

 私の体は苦しんでいた。それが私に伝わる。お腹が苦しい。内から押されている。お腹が膨むと張り裂けそうな痛みが走る。

 体が腐り始め、鼻をひんむぎたいほどの激臭が鼻腔を刺激する。肌が紫色になる。ハエが湧き、卵を私の肌の下に埋める。そして卵は孵化してウジが湧き私の体を食す。それが痒くて痒くて肌を掻きむしりたいが体を動かせない私はただその痒みに耐えるしかなかった。

 しばらくして体から体液が流れる。気持ち悪くって拭きたい。

 次に皮膚が破れて腐った肉が剥き出しになる。それによって無数のウジが剥き出しになる。それは白い鱗のように。

 肉が腐り、爛れる。

 その肉の匂いに野良犬とカラスたちが群がる。犬は肉を噛み千切る。その度に私に激痛が伝わる。

 ──痛い! やめろ! どっか行け!

 犬は邪魔な骨を砕き、肉を千切り取る。

 カラスは鋭い爪を立てて、俺の額に立つ。そして嘴を目玉に突き刺した。

 目に激痛が走る。

 ──ヤメロ! ヤメロ! ヤメロ! やめてくれ!

 目玉はクワイのような形で取られた。丸い目玉に視神経がこびりついている。

 カラスは目玉をくわえた嘴を天へと伸ばし、嘴を大きく開き、目玉を口へ、喉へと嚥下する。カラスは骨にこびりついた肉をつまみ、食す。

 犬は腕や足から次に腹へと鼻を擦り付ける。そして舌舐めずりして大きく口を開き、俺の腹にかぶり付く。

 あまりの激痛に俺は叫んだ。正確には肉体は叫んではいない。肉体は何も発することなく畜生に貪られている。叫んだのは魂となった私だ。だがそれは犬、カラスには届いてはいない。やつらはこちらの気も知らずに飢えを満たすように腸を掻き分け貪る。長く飛び出した腸を二人の犬が左右に引っ張りあう千切る。肝臓をカラスたちがぐちゃぐちゃの肉片にして我先にと啄む。邪魔な胸骨を犬が前足で土を掘るかのように動かして骨を後ろへと飛ばす。そして目当ての心臓を貪る。

 犬は噛み、カラスは啄み、私の体から肉が次々と削ぎ落とされる。

 残されたのは骨。

 骨は風雨で少しずつ削られ、粉々になり風に舞う。

 そしてとうとう何も無くなった。


 目が覚めた時、私は部屋にいた。記憶を手繰り、ここが御堂奏の家であると理解した。

「大丈夫ですか?」

 美しい顔が私を伺う。

「あ、大丈夫です。どうやら眠っていたらしいですね」

 私は情けなく笑った。

「気にしないで下さい。ほとんどの方は香木が燃えきるまで眠り続けるのです」

 見ると香木は全部黒く燃え尽きていた。

「時間はどれくらい経ちました」

「一時間ほどでしょうか」

「一時間!?」

「ええ。そうですが」

「いえ、長い間眠っていたような気がしたもので」

「ふふふ、どうでしたか?」

「ええと眠っていたので甘い香りというのは分かりました」

「夢の方はどうでした?」

「変わった夢を見ましたよ」

「ほう、どのような?」

「えっと……忘れましたな。ハハハ」

 まさか九相図を体験したとは言えず、私は乾いた笑みで誤魔化した。

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