EGGMAN

尾八原ジュージ

南へ

 おれの体がどんどん縮んで、とうとう顎の下から手足が出ているだけという状態になったとき、医者はようやく匙を投げた。沈痛な顔で、あなたを治すことができず残念だという旨を告げ、おれも納得してうなずいた。

 余命わずかだということはわかっていたが、恐ろしくはなかった。将来のことを不安に思うほど、おれの脳に余裕は残されていなかった。心臓も肺も胃も腸もあらゆる臓器がぎゅうぎゅうと圧縮されておれの頭蓋骨の中に納まっており、したがって脳みそもかなり縮んでいたのだ。とにかくもう検査も投薬もないのだということだけはわかったので、匙を投げられたことはむしろ嬉しかった。

 奇病中の奇病だという。体がどんどん縮んでいって、最後にはほぼ頭部だけになり死に至る。その姿がまるでハンプティ・ダンプティのようだから、この病は俗に「エッグマン病」と呼ばれているそうだ。「わたしが知る限り日本人で発症したのは、あなたが二人目です」と医師は言っていた。現時点では原因不明、治療法もない。発症した当時は恐ろしかったはずだが、その記憶もどんどん薄れてしまった。

 ただこの体では日々の生活が非常に困難なので、誰かに介助してもらう必要がある。それは困ったな、と思った。おれの両親はふたりともすでに亡くなっているし、妻や恋人、兄弟もいない。こんなとき頼れるような身内がまるでないのだ。どうしたものかと思っていたが、退院の日、なぜか病室までおれを迎えにきたやつがいた。

 モモだった。桃園陽一ももぞのよういちという名前だが、たまたま同じ学年にヨウイチが三人もいたので、おれは昔からモモと呼んでいた。プロテスタント系の幼稚園で弁当の前にお祈りを唱えていた頃から一緒の幼馴染だ。ひょろっと背が高く、真っ黒な髪を伸ばしてお団子にまとめている姿はどこか芸術家然としているが、実際は普通のサラリーマンである。ただ、何の仕事をしていたのかは忘れてしまった。脳が小さくなった今のおれは、そいつが幼馴染のモモだということだけわかれば上出来だと思った。

「えらいかわいくなっちゃったなぁ、りょうちゃん」

 首と手足だけになってしまったおれを、モモはそう評した。猫でも抱き上げるようにおれをひょいと持ち上げると、看護師がまとめておいてくれた荷物と一緒に病室を出た。

 モモが長い足ですたすたと風を切って歩くので、おれは少し怖くなって彼の服を掴んだ。それが少し恥ずかしく、おれは照れ隠しに、

「モモが来ると思わなかったよ。もう二、三年は会ってないはずだけど」

 と話しかけた。モモは何気ない様子で、「それでもまぁ、友達だからな」と答えた。

 それが介助の理由になるのかどうかわからなかったが、とにかくモモがそう言うので、おれは大人しく甘えていることにした。昔からモモはちょっと変わっていたし、それに珍しい生き物を見るのが好きだったから、おれのこともその延長線上で世話してくれるのかもしれない。たとえ珍獣扱いだとしても、今のおれはそれを不快に思う気持ちを持たなかった。

「そういえばお前、イグアナとか好きだったな」

 タクシーに乗せられながら、おれは頭の中で考えた前提をすっ飛ばしてそう呟いた。モモはすべてわかっているみたいな顔をして笑った。

「ひとまず僕んちに行くよ。それから何か、今のうちにやっておきたいことはない?」

 特にないと答えると、モモは「じゃあ旅に出よう」と言った。

「どうして旅に?」

「つまらんじゃないか。あとひと月くらいしか生きていられないのに、日がな一日マンションの狭い部屋でゴロゴロしてるなんて」

 マンションに到着すると、モモはでかいバックパックをロードバイクの荷台に積み込んだ。それからペット用のリュック型キャリーにおれを入れた。キャリーには丸い窓があって、そこから外を見ることができる。

「そういやモモ、おまえ、仕事は?」

 気になって尋ねると「事情を話したら特別休暇が出たよ」と言いながらおれを背負った。ずいぶんと寛大な会社だ。おれが勤めていたところならそうはいかなかっただろう――もっともとっくに馘になっているのだが――もう、どんな仕事をしていたのかも忘れてしまった。

 ともかく、おれはモモと旅に出ることになった。行先も道順もすべてモモに任せることにした。今更地図を読めと言われても無理な話だ。

 モモがペダルを漕ぎ出すと、世界の感覚が一気に変わった。最初はかなり揺れて気分が悪かったが、しばらくするとおれは残された手足を使って、クッションを敷いたキャリーの中で居心地のいい姿勢をとれるようになった。

 キャリーの窓から見る街並みは新鮮だった。おれの存在に気づいたひとはほぼ全員が驚いた顔をし、中には悲鳴を上げるひともいた。「ドッキリじゃない?」「作り物でしょ」という声も聞いた。それらを置き去りにして、ロードバイクは走る。建物と人通りの多い街から抜け出して広い道路に出ると、モモは速度を上げた。景色がどんどん流れて、ビル群が遠ざかっていく。「面白いなぁ」とおれは声をあげたが、ヘルメットを被ってペダルを漕ぐモモにはたぶん聞こえなかっただろう。

 胃袋が小さくなってしまったおれはもはやほとんど腹が減らず、排泄も一日に一回すれば十分だった。おれを連れてレストランや食堂に入ることができないので(できなくはないが説明が面倒だ)、モモはコンビニやスーパーで食品を買い、近くの公園で食事をとった。おれの口には氷砂糖を入れてくれた。

「一緒に飯食うの、ひさしぶりだなぁ」

 カツサンドを頬張りながらモモが言った。「そうだな」とおれも応えた。

「食事の前のお祈り、覚えてるか?」

 おれがふと尋ねると、モモはすぐに幼稚園のことを思い出したらしかった。「いやぁ、覚えてないや。たまたま家が近かったから通ってたけど、僕はクリスチャンじゃないから」

「おれも忘れちゃったな」

 いずれにせよ、おれはもう指を組むことすら難しいのだ。黙々と食事をするモモを、おれは氷砂糖を舐めながら眺めていた。目の前には大きな川があって、太陽の光を反射しながらのんびりと流れていた。気持ちのいい秋風が、おれたちの間を通った。


 ホテルや旅館を点々とし、ときには野宿をしながら、おれたちはどうやら北上しているらしかった。どこを目指しているのかと問うと、モモは「別に。いきあたりばったり」と答えた。おれもそれに異議を唱える気はなかった。

 野宿でない日は暖かいところで眠れるし、部屋につくとキャリーから出してもらえるのでうれしかった。風呂上がりのモモは長い洗い髪をしばらず垂らしておく。世俗離れした顔立ちも相まって、その姿がキリスト像のように尊いもののように見える瞬間があった。モモはベッドの上で、おれをいつも壁際に置いて眠った。だれかが横に寝ているというのはいいものだなと思いながら、おれも目を閉じるのだった。

 ただでさえ短くなっていたおれの手足はどんどん縮んでいった。てのひらの中ほどまでが完全に頭の中に埋まってしまい、ものを掴むことがむずかしくなった。あらゆる行動にモモの助けが必要だったが、モモはいやな顔ひとつせずにおれの面倒をみてくれた。

「亮ちゃんには世話になったからね」

 ある日、モモはおれが用を足したペットシーツを片付けながら話してくれた。

「ほら、僕の母って変わり者だったでしょ。あのひと、全然髪を切らせてくれなくって、僕、女みたいだっていじめられてたじゃない。あの頃、亮ちゃんだけが味方になってくれたんだよな」

「そんなことあったっけ」

 本当に思い出せなかった。モモは呆れたように笑って、おれの口に氷砂糖を入れた。「今、髪が長いままでもいいやって思えるのは、亮ちゃんのおかげだよ」

 モモに背負われて海を見た。潮の香りがキャリーの中に忍び込んできた。山道を走った。木々はもう紅葉し、葉を落とし始めている。名前を知らない鳥の群れが、空を渡っていくのを見た。公園のベンチで、モモはおれを膝に抱いて眠った。

 おれは時々モモの心配をした。本当におれなんかと旅をしていていいのだろうか。小さい頃味方になってやったというだけの理由で、会社をひと月も休んで、金と手間をかけて。でもしばらくすると、それを考えることすらむずかしくなった。おれの脳みそは日に日に圧縮されて小さくなっていくし、遠からず死んでしまうのだから、あれこれ気に病んでいることなんかできない。反対に、日に日にとてもおだやかな気持ちになっていった。

「海風が冷たいな。寒くない?」

 モモがウインドブレーカーの前を閉めながら言った。おれたちは海の見えるところにいた。

「大丈夫だ。キャリーの中だから」

「ここ、竜飛岬だよ。もうこんなところに来たんだな」

 北のはずれだよ、とモモが言った。

 とても高いところだった。下には海がずーっと広がっていた。文字を彫った石が置かれていて、こういうのは何といっただろうと考えたが、思い出せなかった。聞き覚えのある歌が流れていたが、それもなんという歌か、もうおれには思い出すことができなかった。

 おれの足はもうほとんど消え、指先だけがぎりぎり見えていた。手の指もほとんど頭に沈んでしまった。

 モモはおれを見てかなしそうな顔をするようになった。どうしてモモがかなしそうなのか、おれにはよくわからなかった。おれはとてもしあわせだった。


 その朝おきると、息がひどく吸いにくくなっていた。はあはあいっているおれを、モモはひざにのせて「そろそろかな」といった。

「今日はいちにち部屋にいようか。知らないうちに亮ちゃんが死んでたらかなしいから」

「じてんしゃがいいな」おれは言った。「たびをしたい」

 モモはしぶしぶうなずいた。

「じゃあこんどは南にいこう。熱海の海岸を見に行こうか。ハワイみたいでたのしいよ」

 おれをキャリーケースに入れ、とびらをしめるとき、モモはおれを長いことみつめていた。

「たのしかった? 亮ちゃん」

「たのしいよ、モモ」

 ほんとうにたのしかった。小さなこどもにもどったみたいに。モモはおれに笑いかけて、キャリーをしめた。それがモモの顔をみた最後になった。

 ロードバイクは北をどんどんおきざりにして、南へと走った。キャリーケースのそとで風がびゅうびゅう鳴っていた。よこになっているのでもう空しか見えないが、おれはとてもわくわくした。でもどんどん息があさくなって、そんなに南までいけないだろうなということもわかった。それでもよかった。だいじなのはモモと旅をしていることだから。

 辺りがだんだんくらくなってきた。とてもねむい。おれは目をとじたが、まぶたのうらに青空の青をもっていった。

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