第5話 そしてまた現実へ
しばらくの間、僕は彼女の手を握り、動くことができなかった。
そこから立ち直ることができたのは、寝室の明かりの差す場所。
机の上においてある。遺書の存在だった。
彼女は、何を思って、こんなことをしたのだろう。
その好奇心だけが、抜け殻になった僕の体を動かした。
彼女の遺書の書き始めはこう書かれていた。
「人には役割があると思うの。
あなたと過ごした学生時代から今の時まで、数年間、私はとても楽しい時間を過ごすことができた。学生時代、一緒に帰った帰り道でさえ、今はとても愛おしく思う。
私に変化が訪れたのは、就活に失敗した時だった。やっと受かった会社では、働き方は過酷で、何度か転職を繰り返した。
でも。気づいたことには心身が疲れ果てて、私は半分、あなたに縋るように一緒になった。
だから、私の分も働かないといけなくなった、あなたに私は後ろめたい気持ちを隠すことができなかった。あなたは、何事もないかのように私に接してくれたけど、仕事に邁進して、背中しか見せてくれないあなたとの距離は開いてしまったように感じる。
何か助けになるように、内職もチャレンジしてみたけど、続かなかった。
最近は、一人ぼっちの時間が多いような気がして、自分の半生を振り返る機会が多かった。
あなたとの過ごした時間は幸せだった。間違いなく、楽しかった。
それは、嘘じゃない。本当の気持ち。
だけど、このまま、私がここに居続けるのは、あなたの邪魔にしかならないと、思った。
忙しいあなたと、意味のない私の存在。
あなたに幸せな時間を与えた私の役割は終わった。
これからは、私のことは忘れて、あなたの人生を送ってほしい。
私は、先にこの世界から距離を置くことにしたわ。
あなたの幸せを願っています。
先に、脱落しちゃってごめんなさい。さようなら」
何度も、何度も、何度も、何度も、彼女の書いた最後の字を読み返す。
”僕の幸せを願っている”という字と”さようなら”の文字。
そんな、簡単に別れを告げるなよ。
”忙しい僕”と”意味のない彼女”の存在。
”意味がない”なんて、言うなよ。
いつも帰ってくれると、笑顔で僕に「おかえり」と言ってくれる彼女の姿が思い浮かぶ。
あの言葉や、彼女の仕草にどれだけ、救われたか。
僕は一方的に救われていただけで、彼女を救うことはできなかったのか。
確かに、最近は忙しい日々に重い責務に、翻弄されていた。
時間は、あっという間に過ぎていき、彼女の悩みや表情の機微に注意を向けることができなかった。
おそらく、僕が忙しさに感けている間に、彼女の悩みの種は、栄養をつけ、みるみる成長していったのだろう。
彼女に巻き付いたツルのような植物は、彼女の身動きをどんどん封じていったのだろう。
思い返せば、気づけば、彼女は、しばらく家から出ないことが多くなっていたし、僕も、うすうす感づいてはいた。
家に帰っても、ドラマやテレビも同じ映像を見ていることが多くなった。
確かに、人の好みはあるものだし、創作物においては、食べ物と同じで好き嫌いは別れるものだ。
しかし、食べ物も好き嫌いをしすぎると、栄養が偏るのと同じで、彼女の精神を司る感情も、彼女にとって偏りを生じさせ、正負のバランスを崩すこととなった。
こんな腐った世界でも、自宅から一歩出れば、正負の感情に好みをつけずに、僕達は波に飲まれることになる。
良いこともあれば、悪いこともある。
そのバランスの中で、僕達は生きていたことを実感した。
僕にとって、仕事は負。彼女は正だった。
人の死を目の当たりにする職場と、彼女が生きていると実感する空間。
この2つがあることで、僕の世界は、なんとか二本足で立ち上がっていたと言えよう。
だから、意味がない。そんな瞬間はありえない。そんな人生はありえない。
確かに、社会からは意味がない存在かもしれない。
それは、あくまで一つの方向から見た側面に過ぎない。
僕から見た彼女は、まちがいなく、光り輝く生の象徴だった。
人は、往々にして自分という存在の偉大さを過小評価する。
僕が身を呈して、昨夜の彼女を救ったように、誰かを救える器になり得る。
社会の歯車になることで、誰かを救っているはずなのだ。
様々な思いが僕の脳内を駆け巡る中、耳についた情報端末から連絡が来た。
「昨日の自殺未遂者、ビニールハウスに入っているところが、目撃された。最近、本部が狙いをつけている場所だ。すぐに、向かってくれ」
了解しました。と僕は、すぐに返事をし、急ぎ部屋を出て、現場に向かった。
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