第2話 懐かしい記憶
すっかり、帰宅時間には日が暮れていた。
昼間は現場検証を行い、夜には、次の命を救うために、プライベートではいつでも現場に迎えるように準備していなければならない。
忙しい職場だが、僕には十分すぎる充足感を与えてくれていた。
そして、満身創痍の状態で自宅のドアに生体認証をさせて、自動ロックを外し、
ガチャっと音がしたかと思うと、いつもの笑顔がそこにはあった。
「おかえりなさい」
愛しい黒髪が揺れる。僕は吸い込まれるように、その空間に足を踏み入れた。
ーーーーーーーーーーーーーー
あれは、20歳の頃だった。
僕達はまだ、学生で。お互いが知り合ったばかりの頃だった。
彼女は、よく図書室の窓際で、一人で本を読んでいた。
本に熱中すると、彼女は何も喋らなくなる。
眉間にシワを寄せて、難しそうにいつも本を読んでいた。
その様子を遠くから、眺めていると
時々、耳に髪をかける仕草にドキッとしたことを覚えている。
その彼女が、今は隣で寝そべっている。無防備な表情をする彼女に今も助けられていると、つくづく感じる。
非現実的な現場の風景と、質感のある彼女の存在。
彼女の肌に指を添わせると、体温をかすかに感じ、自分とは異なる丸みのある感触に心をくすぐられる。
彼女がゴソゴソっと物音を立てる。
「また、思い詰めた顔してる。何かあった?」
彼女は、眠そうな目を擦り、僕に触れる。
僕は、彼女の手を握り落ち着かせる。
「いや、何でもないよ。心配しないで」
僕は、表情を緩ませて、彼女を見つめる。
「マサト君が亡くなった時だけだったね。あなたが私の前で泣いたの」
彼女が僕の手を握り返す。
「良いんだよ。君は何も気にしなくて」
彼女は不思議そうな顔をしている。
そう、君には、あの頃のままで、居てほしい。
何も知らなかった自分と楽しい日々を過ごしたときのままで。
この世界の空気に晒した瞬間、彼女がどうなってしまうのか。怖かった。
自分の知らない彼女になってしまうのではないかと。
あの現場の空気感が形作るこの切迫した世界に触れてほしくはなかった。
彼女はキョトンとした表情で、僕に語りかける。
「でも、知りたいよ。あなたの気持ち。あなたの感じている世界を」
そう言われた瞬間、すぐにあの光景がフラッシュバックする。
白いマンションの一室の鼻にツンとする鉄の匂い。
シャワーから水滴が滴る音と、真っ赤な浴槽。
「言葉にするのが。難しいな」
僕は、脳裏に浮かんだ光景から目を背ける。
そして、気を紛らわすように、彼女に口づけをする。
良いんだ。君は、ずっと夢に溢れた音楽やドラマの中で生きていれば。
夢や希望は、毒だ。
外の世界は、もっと厳しい世界だ。
絶望で空気が淀んで見えるほどに。
ドラマの主人公みたいに肩を賺して歩いてる奴なんていない。
僕の希望は、君だけなんだ。
こんな何もない世界でも、君さえいれば僕は生き続けられる。
彼女の吐息が漏れる。唇の柔らかい感触を感じる。
僕を必要とする彼女と彼女を必要とする僕。
このやり取りが唯一、世界と僕を繋いでくれる行為だった。
彼女の存在は僕を能動的衝動に駆り立てる。
世界にとっては、受動的な僕が唯一、能動的に切り替わる瞬間だ。
しかし、今日は、その手を止められた。
彼女は僕が伸ばす手の行き先を封じ、手を握り返すと、僕を押し倒した。
「今日は、あなたのことをずっと、見ていたい」
そして、僕の頬に優しく口づけをすると、静かに服を脱ぎ、体を密着させる。
特徴的な膨らみを体越しに感じ、しばらくすると、僕の体温と同調し、存在が薄れていく。
その儚さと共に、僕達二人の体温は上がっていく。
僕の意識はだんだんと、彼女と一体になる。
周りの環境音も蝸牛が勝手にフィルターをかけ、彼女の息遣いだけが聞こえるようになる。
いつでも、悪いニュースというのは、タイミングが悪い。
僕はとっさの連絡に反応し、耳の軟骨あたりに埋め込まれている通信デバイスに手を触れる。
「司令部から、連絡が入った。新しく、自殺をしていようとしている人がいる。お前の住んでいるところの近くだ。止めに行け」
上司の切迫した声が伝わる。
僕は、頭を切り替えて返事をする。
そして、彼女にごめんと声をかけ、すぐにスーツを着る。
「気をつけてね」
彼女の寂しそうな顔を尻目に感じながらも、僕は急いで、自宅のドアを開ける。
錆びた鉄の匂いはもう、嗅ぎたくない。
次は絶対に止めてみせる。
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