第4話 狂乱のあと
明け方、僕は、いつも通る路地を曲がり、自宅に向かった。
交通機関は、早朝の便が出て、既にもう明るくなっていた。
こんな気持ちで、自宅へ向かうのは初めてだ。
僕の手は、まだあの子の感触が残っている。
まだ、誰も路地を歩いている人はいないのに、ふと、自分の身なりが気になる。
駅前の公衆トイレに駆け込み、自分の姿に異常が無いか確かめたりもしたが、自分の冴えない顔は特に何も変化がなくそのままだった。
夜露で冷えた手すりを触りながら、アパートの階段を足音をたてないようにゆっくりと登る。
そして、自宅の前のドアまで着いて、一息、大きく深呼吸をする。
彼女はまだ、寝ているだろうか。
彼女と別れる前、彼女はどんな表情をしていただろうか。急いで出ていく僕の姿に動揺していなかっただろうか。
僕は不自然な仕草をしてはいなかっただろうか。
時間の経過が早く感じる。早く、何事もなかったように、ベッドに入らなければいけないのに。
また、あの子の感触を思い出す。
仕事帰り、遅くなってもいつも迎えてくれる彼女は、どんな笑顔を見せてくれていただろうか。
昨夜の光景が重なり、頭がくらくらする。
かろうじて、ドアノブに手を伸ばし、冷たい金属に触れる。
ドアを開けるだけなのに、様々な想いが胸を駆け巡り、僕の心拍数をあげる。
何事もなかったかのように、網膜認証を済ませ、無音で自動ロックが解除される。
僕はもう一度、ゆっくりとドアノブに触れて、ドアを開けた。
いつもは、もう起きている時間なのに。今日だけは、なぜだか部屋が暗かった。
僕は、先程の緊張とのギャップで思わず、ガッツポーズをして、忍び足で、玄関に入り、廊下を歩く。
そして、仕事用の荷物をおいたあとは、何もなかったかのように寝具に着替え、寝室のドアを開けた。
ゆっくり、ゆっくりと、おそるおそる。ドアを開ける。
寝室に彼女の姿はなかった。
一瞬、僕の体中に冷や汗が走り、寝室の周囲に視線を移す。
どうして、彼女はいないんだ。
僕は、一点だけ明るくなっている。寝室のベットサイドのランプに目を向ける。
そこには、いつもの生活では見慣れない紙とペンが置いてあった。
どうして、なんで。昼間の光景が僕の脳内を過ぎり、今まで以上に冷や汗が止まらない。
彼女の別れ際の表情が思い浮かぶ。
嘘だ。こんなことがあって言い訳がない。
所詮、遠い話だと思っていた。
嫌だ。こんなふうに別れたくない。
もう会えないだなんて。言わないでくれ。
昼間の特徴的な血の匂いが、僕の恐怖を煽る。
「でも、知りたいよ。あなたの気持ち。あなたの感じている世界を」
彼女が僕を知ろうとしてくれたこと。
「マサト君が亡くなった時だけだったね。あなたが私の前で泣いたの」
彼女が僕の様子の変化に気づいてくれたこと。
僕の息遣いはどんどん荒くなり、紙の中身を読まずに、シャワールームに駆け込んだ。
ポタポタ水の垂れる音が浴室に響き渡る。
昼間と同じ光景が広がり、目の前の現実感の無さに、僕は呆然と立ち尽くした。
「あ・・」
「う・・」
言葉も出なかった。
涙で前が見えなくなる。
僕の体は、僕の意識が反応するより早く、反射的に反応していた。
足が震え、手先が震える。
ゆっくりと、彼女の足元を眺めた。そして、しゃがみ込み、
彼女にトドメをさしたと思われる、鋭利な刃物を拾った。
刃先が真っ赤なそれは、黒く固まり、命を絶って数時間経っていることを物語っていた。
僕は、もう一度彼女の姿を見た。
この世界は、僕から何かを奪うばかりだ。
日常の街頭で流れる大広告付きのニュースが黒い文字で僕の頭を埋め尽くす。
交差点で、交わる他人の視点。
電車で交差し合う向かい側の席。
こんなに大勢いても、僕が必要な人はいない。
せっかく手に入れた大事なものでさえ、僕には何も知らせずに奪い去っていく。
大切な人と過ごした記憶は時間とともに薄れ、
大切な人と過ごしていたはずの時間は多忙な日常に吸収される。
世界の理は僕と彼女を無かったものにする。
刃物を起き、彼女の手を握りしめる。
失いたくなかった。
どうして、最後の時まで僕と一緒に過ごしてくれなかったんだ。
彼女の頬を触る。
冷たい。
あんなに暖かく、僕に接してくれた彼女は、もうすでに冷たかった。
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カクヨムの恋愛週間ランキング795位にランクインしました!!!
皆さんの応援のおかげです(*^^*)
頂いたコメントも読ませて頂いてます。
物語も折り返し地点です。
これからも引き続き、宜しくお願い致します!
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