後編
現代の医療ってすごいな、と思う。こんなに素直に何かに感謝したのは生まれて初めてかもしれない。
目が覚めるとなんだか温かくてとろりとした心地よい液体の中に浮かんでいて、息をしようとする努力も必要なくて、身体はただひたすら軽くて、何もかもが心地よくて、私は目覚めたことをなかったことにしようと決めた。けれど、さすがは現代の医療、医者や看護師がすっ飛んできて、私の狸寝入りは簡単に暴かれてしまった。母の胎内のような心地よい空間から引きずり出されると身体が重くて、余計なことするなあと思ったけれど、その場にいた全員が泣きそうな顔で良かった良かったと言っているのを見ると、仕方ないなという気持ちになる。肺を満たしていたナントカという便利な液体は、徐々に身体に吸収されていくらしい。それと引き換えに身体が呼吸の仕方を思い出してきた。でもさすがにすぐに歩くことはできなくて、車椅子に乗せられてぼんやりしていると、慌てふためいた霜月がやってきた。愛想はないけれどその代わりに感情をむき出しに怒ることもしないこの男にしては珍しいことだった。
霜月は何も言わず、車椅子に座ったままの私を抱きしめた。彼の匂いを嗅いで体温を感じると、「帰ってきたんだな」と感じる。動物的。心が幻想だというのは、今となってはほぼ確定したことがらで、感情は脳で起こる神経細胞の微かな発火にすぎない。だけど、それはそれとして、胸が詰まって涙が止まらないのはなぜなんだろう。床に膝をついて、私に縋りついて私の名前を呼びながら泣いているこの男がこんなに愛おしいというのはいったい、どういうことなんだろう。こうなるように脳の神経にある種の発火を起こさせる原因は、何なのだろう。
――人格は仮想なの。私とあなたに違いはないわ。ここでは特に。
祝祭の街の魔女はそう言っていた。私も認める。そして、全てが仮想だとして、世界から物質以外の全てを消し去ってもなお残るものがあるとすれば、それは「関係」だと思う。「力」や「場」と呼ぶ人もいるだろう。
「おかえり、萌黄」
霜月が顔を上げる。愛想とは無縁の、口数少ないこの男がこんなに感情をあらわにしているのを、私は初めて見た。だって、初めてキスした時もセックスした時も、この男はなんだかムスッとしていて、「本当は嫌だったのかな」と正真正銘若かった私を不安にさせたのに。
「ただいま」
久しぶりに発する声は、奇妙な感じだった。笑おうとして多分うまく笑えていなくて、私は代わりに彼の目尻の涙を親指の腹で拭った。鳶色の目が細められる。
「私のこと、探しにきてくれてありがとう」
「探したよ。随分探した。でも見つけられなくて、魔女の手を借りる羽目になった」
「うん」
「……でも、謝らなきゃならないこともある」
霜月はバツが悪そうに視線を彷徨わせた。
「なんだろ。魔女とヤっちゃったこと?」
「ヤってない」
霜月が食い気味に反論する。
「えっ、そうなの? 真面目だね。魔女かわいいし、おっぱいも大きいのにさ」
はーっ、と彼は呆れ返った様子で深々とため息をついた。
「きみは、紛れもなく、萌黄だな。……もしかしたら、きみの中身はあの魔女なんじゃないかって気がしてたんだ」
その突拍子もない考えに思わず吹き出してしまう。
「人間の脳は他のプログラムをインストールできるようにはできてないよ。それで、謝らなきゃならないことって?」
「きみが大切にしてた観葉植物、枯らしてしまった」
「全部?」
「全部」
「様子見て水あげるだけなのに?」
「俺はあいつらとは気が合わないらしい」
「そっか。なら仕方ないね。家に帰ったらまたいちから育てるよ」
大型犬にするように頭を撫でながら言うと、霜月ははっとした顔で私を見る。
「まだ帰れないのか?」
「リハビリしなきゃ」
「そうか」
平静を装っているけれど、完全にがっかりした顔をしている。かわいいな。可哀想でかわいい。
「意識がない間も筋力を落とさないようにトレーニングしてくれてたから、検査で異常がないことと、リハビリで日常生活に支障がないことが確認できればすぐに帰れるってお医者さん言ってたよ」
「大急ぎでリハビリしてくれ」
霜月は私の胸元に顔を戻す。
「リハビリに大急ぎとか、無理でしょ。1年も待っててくれてたんじゃない。それに比べたらちょっとだから。頑張って」
「……もう頑張れない」
「いい子だから。ね?」
私の胸元にぐりぐり押しつけられている前髪をかき上げて額にキスすると、霜月は首を伸ばして軽く唇同士を触れあわせた。久しぶりのその感触に、頭が幸福感でふわっとなる。
霜月はその後も帰りたくないと無言でごねていたけれど、検査があるからと看護師さんに優しく丁重に追い出されて、無言で渋々帰っていった。
最初は足繁く通っていたご家族もだんだん足が遠のいていくものなのに、毎日必ずいらしてたんですよ、と車椅子を押してくれている、年嵩の女性の看護師さんが言う。私はなんだかくすぐったくて、首をすくめて、えへへ、と下手くそに笑った。
正直に言って、霜月はある程度のところで私を諦めるのではないかと思っていた。その点では、私も彼に謝らなければならない。彼を信じきれなかったこと。
仮想世界に溶けこんでいって、自分の輪郭がだんだんあやふやになってきて、街と自分の違いがわからなくなって、時間の感覚も失われていった。こんな精巧な仮想世界がまだ残されていたという素晴らしい事実は、私に「これ以上は危ない」という身体からのサインを簡単に無視させた。霜月がいなければ、私はあの祝祭の世界に溶けこんでそのまま帰ってこない選択肢を取っていたんじゃないかと思う。だけど、私がいなくなった後でさえ、私と霜月の関係は残り続ける。とても残酷な形で。実体がないのに実在する不可思議な存在。真理なるものが実在するのかどうか、私は知らない。でも、関係は実在する。愛、と情緒的に言い換えてもいい。霜月がそれを私に証明してくれた。そしてそれは、私に最後の最後まで自分を手放すことをさせなかった。
――関係? なに、それ? あなたにそう言わせる霜月って、何者なの?
魔女は街の一部になってしまった私に言った。
私の連れあいだよ、と私は言葉にならない言葉でレスポンスする。
――ふうん。それはちょっと興味あるかも。
多分ここに来ると思う。探しにきってって言ったから。
――ええ、帰っちゃうの? ずっとここにいなよ、スプリンググリーン。私、あなたが好きだよ。渡したくないよ。
ふふ、嬉しいけど、ごめんね。
――あーもう。その霜月ってやつが来て、スプリンググリーンがどこにいるか尋ねられたら、私は嘘をついたり回答を拒否したりできない。そういう仕様になってる。
魔女は口をへの字に曲げた。その仕草も本当に人間らしくて、1日限りの祝祭のナビゲートのためだけに作られた仮想人格だとはとても思えなかった。かつては一瞬の娯楽のためだけにこれほど精巧な人工知性体を作る余力があったのだ。瓦礫の中から文明の残骸を掘り出して糊口を凌いでいる現代からは考えられない。
魔女、あなたが「こっち」にこない? 私、人工知性体の研究者なんだ。あなたたちを通じて、人間の心や意識を研究してる。身体は、精巧な義体を作る知り合いに頼むよ。今の姿そのままに作ってくれると思う。
――心や意識なんて、仮想でしょ? 人間は脳で起こる神経細胞の発火が全て。それが結論じゃないの?
うん、そうなんだけど、それでもなお「何か」が残るといいな、っていう、私の希望というか願いというか、祈りというか。
――変なの。じゃあさ、霜月、ノヴェンバーだね、そいつが私からスプリンググリーンを取り戻せたら、私が「そっち」に行くっていうのはどう? や、簡単すぎるかな。自分で決めるんだから、もっと有利なルールの方が……。
十分ハードルが高いと思う。霜月は、なんでも自力で解決しようとしがちな男だから、簡単に私の居場所を尋ねたりしないと思うんだよね。多分難航する。
――じゃあ、ちょうどいい? それにまあ、どっちにしたって私はスプリンググリーンと一緒にいられるし、いっか。
そして案の定難航したらしいけれど、結局私は戻ってきた。ここに。実体の世界に。
魔女を迎えに行かなくちゃ。
またあの街に行くと言ったら霜月は嫌がるだろうか。
検査で異常がないことが確認された私は、リハビリ専門病院に転院し、日常生活のひと通りの動きを自力で行えるようになって、退院した。退院の日も、霜月は何だかムスッとした顔で迎えに来て、見送りに来てくれた看護師さんたちを戸惑わせていた。
「帰ろうか」
私が言うと、霜月は無言で頷いて私の手を取った。
「お世話になりました」
手を繋がれたまま看護師長さんに頭を下げる。
「身体が動くからといって、無理しないようにしてくださいね。1年も療養装置に入っていたんだから。こちらも、あそこから来た方は初めてで、今後の見通しが立ちにくいのが本音のところです。身体に異変を感じたら、すぐ来てください」
壮年男性の看護師長さんが、人懐こい笑顔で言う。
「わかりました。ありがとうございました」
1年ぶりに帰った我が家は、随分殺風景になっていた。部屋を半分占領していた観葉植物は姿を消して、物のなさが際立っていた。それでも、そこは確かに我が家だった。
「ああ、帰ってきた。やっぱり我が家は最高だね」
お気に入りのソファに座ると霜月の腕が伸びてきて、その中に囚われる。抱き寄せられて、唇が重なる。舌が絡まる。私は、五感で彼を知覚した。
祝祭の街の調査を続けたいと言った時、霜月は少し心配そうな嫌そうな顔をしたけれど、やめろとは言わなかった。安心させようとして、大丈夫、街に取り込まれかけたけど、あの端末以外からもアクセスできるポートを構築できたからリモートワークができる、と言うと頭を抱えていた。
義体を製作している知人に連絡を取ると、彼は私が連絡をよこしたことにまず驚いていた。人工知性体の研究者で、仮想世界にのめり込みすぎて帰ってこられなくなる者は多いのだ。霜月が探し続けてくれたおかげで帰ってこられたのだと説明すると、「あの朴念仁、結構やるじゃん」と感心していた。「うちの朴念仁はかわいいんだよ」と言うと「お前の好みはわからない。けど、この魔女っ子は久しぶりに意欲が湧くオーダーだ」と張り切っていた。可愛く作ってくれるだろう。
満を持して、祝祭の街にダイブする。
降り立った先は、あの巨大交差点ではない。かつて私だった観葉植物の店だ。ポートはちゃんと機能していた。
「スプリンググリーン!」
魔女が抱きついてくる。
「久しぶりだね」
「帰ってきてくれた! 会いたかった!」
「なかなか来られなくて、ごめんね」
私は魔女の薄い背中を撫でる。ヒールの分だけ私より背が高い魔女は、私の肩に顔をうずめる。とんがり帽子が床に落ちた。
「スプリンググリーン、ずっと一緒にいたい。離れたくない」
「そのために来たんだよ」
そう言うと、魔女は顔を上げて私を見た。
「言ったでしょ? 義体ができあがったの。だから迎えに来た。行こう。『あっち』で私の研究を手伝ってよ」
魔女が同期した義体が目を開いた時、なぜか感動と畏怖がないまぜになった感情がこみ上げてきた。
人間と人工知性体を区別するものは何だろう。それはもう、有機物か無機物かの違いでしかないのかもしれない。仮想と現実を行き来することができる。環境から独立した身体を持ち、自律して活動することができる。環境を様々なセンサーでもって、認識することができる。そして多分、高度な人工知性体たちは、それぞれを構成する情報を提供しあって、新たな、別個独立した個体を作ることさえできるだろう。最後には死ぬことも。私は何を作ろうとしているのだろう。もしかしたら、人類の次に地球の支配者となるのは、彼らなのかもしれない。
「魔女っ子ちゃん、立てるかな?」
「もう少しで制御プログラムの解析と同期が終わる……完了」
魔女は答えてまず上半身を起こし、寝かされていたクレードルから出た。その身のこなしはスムーズで、義体としての完成度の高さと相まって、ぱっと見では普通の人間と区別がつかない。
「……すごい。何もかも」
私はその出来栄えに呆然とする。
「魔女っ子ちゃん、俺んちにおいでよ。一緒に住もう?」
変態義体製作者が鼻の下を伸ばしながら言う。
「やめてよ」
こいつのこういうところがな、と思いながら私は抗議の言葉を発しかける。しかし彼の言葉は魔女の容赦ない一言で砕かれた。
「嫌。私は」魔女は横から私に抱きついて、本当に人工皮膚なのかと言いたくなるような柔らかな腕を私の首に回してくる。もちろん、力が入りすぎて首が絞まったりへし折れたりもしない。完璧だ。「萌黄と一緒にいるために来たんだから」
「……そういうことなんで」
「……萌黄、お前、どっちもイケるタイプなの?」
「は? 何のことよ。じゃ、行こっか。また定期保守に来るから」
「ちょっと待てよ。朴念仁が可哀想だろ」
「意味わかんないこと言わないで」
よほど魔女が気に入ったのか、なんやかんや言ってくる腕のいい変態義体製作者を後に残してさっさと去る。
仕事から帰ってきた朴念仁こと霜月は、エプロンをして私と料理をしていた魔女を見ると、額に手を当てた。
「体調が悪いみたいだ。あの魔女が見える」
「霜月、大丈夫?」
魔女が霜月の顔を覗きこむ。
「ああ、ちょっと疲れてるみたいだ……って、現実なのか?」
「そうだよ」
「なんでこの魔女がよりにもよってうちにいるんだ?」
霜月は魔女の顔をじっと見ながら言う。その精巧さに驚いているのだろう。
「私もう『魔女』じゃないよ」
「じゃあ、なんなんだ」
霜月の問いには私が代わりに答える。
「『かんな』だよ。神無月の祝祭から生まれた魔女だから、かんな」
「よろしくね」
魔女ことかんなが私に抱きつきながら言う。霜月は深々とため息をついた。
「仮想と現実の境界線を飛び越えてまで追いかけてくるなんて。悪い魔女め」
「境界線を飛び越えて追いかけてきたのはそっちも同じでしょ」
私は、かんなと名づけた人ならざる元魔女にぎゅうぎゅう抱きつかれながら、なんか、思ってたのと違うなあ……?と、遠い目でぼんやり考えていた。
人間の街、悪い魔女 有馬 礼 @arimarei
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