風華恋

棗颯介

風華恋

 平日。いつもの昼下がり。何の変哲もない晴天。窓の外を見なくても、窓から差し込んでくる陽光だけでそう判断できる。

 今日も今日とて、私は自宅マンションの仕事部屋でパソコンに向かってキーボードを叩いていた。長らく携わってきたプロジェクトは佳境を迎え、いまやっている最終テストのクリアを待つばかり。テスト仕様書と睨み合いながら成果物のWebサイトの機能を一つ一つ確認していくというのは、この業界に入ってしばらくになる私であっても神経を使う作業だった。後になってクリティカルなバグが見つかった、などというのが考え得る限り最悪のケース。

 チェック項目がちょうど百を超えたところで、椅子に座ったまま大きく伸びをし、凝り固まった肩や手首を軽く鳴らした。フルリモートの会社だから満員電車に揺られて出勤する必要がないのは大きなメリットなのだが、運動不足だけが唯一の敵。私は一度椅子から立ち上がり、籠もった部屋の空気を入れ替えようと窓を開けた。

 強すぎず弱すぎない、窓の網戸が揺れない程度の優しい風が部屋に入ってくる。風が私の頬を撫でた。


 この風を覚えている。そう感じた。


▼▼▼


「じゃあ、今日でサヨナラか」

「うん。じゃあ、ね」


 高校の卒業式。他のクラスメイト達が新たな門出に胸膨らませ大勢の下級生や家族に祝福されていた中、私と彼だけはその渦中にあって後ろめたさと一抹の後悔に尾を引かれていた。

 いや、後悔していたのは私だけかもしれない。

 私と彼が出会ったのは、きっと運命。

 だから、私と彼が今日別れるのも、同じように運命で定められていたんだ。

 そう思わなければ、私は今にも折れそうな心を繋ぎとめることができなかった。本当は自分でも分かっていた。私がこの町を出ていこうとしなければ、私たちはこの先もずっと一緒にいられたってこと。


「大学でも、頑張れよ」


 目の前にいる彼がいつも通り陽気な笑みを浮かべてそんなエールを送ってくる。その笑顔が作りものだってことは、すぐに分かった。三年間の短い付き合いだったけど、そのくらいのことは分かる。

 本当はそんなこと、これっぽっちも思ってないくせに。

 確かに愛していたはずの彼の見え透いた欺瞞が、なんだか腹立たしく感じた。そして同時に、やり場のない思いを彼にぶつけている自分に辟易する。彼は何も悪くないんだと、必死に自分に言い聞かせた。

 悪いのは、私なのだから。


「うん、ありがとう。そっちも、仕事頑張ってね」

「おう、当たり前よ」


 人のことを言えない。私がやっとの思いで絞り出した言葉は、自分でも分かるくらい中身がなかった。


 私達は概ね、仲の良いカップルだったと思う。デートと言えば学校の帰り道でちょっと寄り道するのと、休日に二人で遊びに行くくらい。お互い多感な時期ではあったけど、とりあえず大きな間違いを犯すこともなく、人前で空気を読まずに自分たちの世界に浸るようなこともなく(周りからどう見えていたかはわからないけど)、至って健全なお付き合いをしてきた。

 私は彼のことを好いていたし、彼も私のことを好いていてくれたと思う。喧嘩だって一度もしたことがない。

 そんな私達が高校卒業と共に別れることになったのは、なんてことはない、二人の進路が離れるから。

 彼は地元のこの町で就職。私は、関東の大学に進学。

 私は彼のことを愛していたけど、生まれ育ったこの町は愛していなかった。田舎特有の気安さと平穏はあったが、他には何もない。テレビの向こう側に見える世界は常に進化を続けているのに、この町はそれに取り残されている。そう感じていた。


「東京の大学に進学したい」


 私の選択を、親や教師は特にこれと言って意見することもなく肯定してくれた。

 彼も含めて。

 本当は、彼に引き留めてもらいたかったのかもしれない。「ここにいてくれ」と一言でも言ってくれれば、それだけで私はこの場所に留まる決心がついたのかもしれない。

 いや、仮にもしそう言われたとして、私は素直に首を縦に振ったのだろうか。この町で彼と一緒に時代に取り残されていくことを、私は許容しただろうか。むしろ意地になって今とは全く別の形で私達は別れていたのかも。


 学校生活を共にしたクラスメイトと、そして彼と別れた卒業式の帰り道。慣れ親しんだ通学路において、私の両足は何も意識せずともまっすぐ家へと向かってくれる。私の頭にあったのは、彼のことだけだった。


 ———私は、本当に彼のことを好きだったの?

 ———結局、自分の人生を預けるほどの相手じゃなかった?

 ———彼はどうして私と付き合ってくれていたの。

 ———身体が目当てだった?

 ———違う、そんな人じゃない。

 ———私はどうして、この町を離れたいって思ったんだろう。

 ———どうして、私はどこかに定着することができないんだろう。

 ———私が悪いんだ。私が。

 ———私のせいで。


 私のせい。この町の、時代のせい。

 いろんな思いがない交ぜになって、私は歩きながら、ただ目の奥から溢れようとしているものを必死に堪えることしかできなかった。気を抜いてうっかり涙を零すところを誰かに見られないよう、私は歩くスピードを僅かに早める。

 一度だけ。本当に一度だけ、道の途中で立ち止まった。そして、僅かな期待を込めて来た道を振り返る。もしかしたら。もしかしたら、彼が追ってきてくれているかもしれないと思った。

 でも、それは期待外れで、私の後ろには誰もいなかった。

 代わりに、今の私の心境にはまったくもって似つかわしくない、どこか穏やかで暖かみを孕んだ風が頬を撫でた。髪が僅かに揺れる。


「———さようなら」


 それは誰が言った言葉だったろう。


▲▲▲


「———なにも変わってないなぁ」


 数年ぶりに、この町に戻ってきた。大学生の頃だって、夏休みや年末年始にも帰ろうと思えば帰れたのだけれど、どこか後ろ暗い気持ちがあってバイトだとか卒論を口実に使ってずっと帰っていなかった。帰ってしまったら、自分が退化してしまうなんて考えていたんだと思う。

 

「そんなこと、ないのにね」


 大人になった今なら、分かる。

 住む場所程度で人間は量れない。もちろん環境というのがその人の人生における重要なファクターであることは否定しないけれど。でも、意志と努力と切欠さえあれば人はどこでだって進化できる。現に今の私の仕事だって場所を選ばない。ネットさえ繋がっていれば世界のどこにいたって働ける。

 もし、今の私があの頃の私にそう諭したとしたら、当時の私は納得したのかな。

 いや、多分それでも私は納得しなかっただろう。

 結局、今の私がそう思うようになったのも、当時の私がこの町を離れるという選択をした結果なんだから。


 ———そう、あれは、誰のせいでもなかったんだよね。

 ———悪いことでも、間違いでもなかったんだよ。


 あの頃彼と一緒に歩いた通学路を、今の私は一人で歩いている。

 もう何年も前のことだというのに、その事実が一抹の寂しさを感じさせた。


 ———あぁ、でもやっぱり。

 ———できるなら、戻りたいって思っちゃうなぁ。


 ふと、大気が微かに揺れ、南の方角から懐かしさを感じる風が吹きつけてきた。それはまるで、プログラミングに一日悩んでようやく機能実装の筋道が立った時のような、決定的な何かを予感させた。

 私は、あの日の帰り道と同じように、後ろを振り返る。

 数秒後、きっと私はこう言うと思った。


「ただいま」

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風華恋 棗颯介 @rainaon

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