第3話

 ほほほほほ・・・ははははは・・・風の音にまぎれ、その声は低くなったり高くなったりしながら、どこからか流れてくる。耳をすませて首を傾けると、今度は全く逆の方から聞こえてくる。

 和子は呆然とした。聞き違い、或いは幻聴だろうか。それとも誰かが近くにいるのだろうか。と、薄闇の向こうに青白い光がとつぜん浮かび上がった。陽炎さながら、ゆらりゆらり揺れ動いている。いつのまにか笑い声はやみ、辺りはしんと静まり返っていた。

 救援隊かもしれない、そう信じて


「ここにいます」


 と大声を張り上げるが何の応答もない。彼女は光が宙高く浮いていることに気付いた。そして、その奇妙なモノは自分の方におもむろに近づいてくるのだ。彼女の身体は凍り付いたように硬直し、わなわなと震えているが、どうする術もなかった。

 きっと悪い夢を見ているのだ。原野一面の雪、謎の光、そしてそれを見ている自分。すべてが芝居めいていて幻としか思えない。気が遠くなりながら、なぜか目を伏せようともせず、和子は光を凝視していた。

 一瞬、空間のそこだけ明るくきらめいた。金色や銀色の紙吹雪がくるくる風に舞い落ちて、妖しい光線が四方に放たれる。闇にたなびく長い黒髪・・雪よりも白いはだしの足・・血の色した唇・・が現われては消え、何重にも像がだぶって網膜に映る。まるで映画のフラッシュバックを見ているようだった。

 和子は立ち尽くしたまま、あっと、雪女を思い出した。伝説か作り話だと信じていたのに・・逃げなくてはいけない、息を吹きかけられ凍らされてしまう。彼女は背を向けて走りだそうとした。だが足がもつれて、身体はまるで他人のそれのようだ。懸命に走ろうとする彼女の背後で笑い声がして、執拗にあとを追いかけてくる。


「誰か助けて」


 和子は声にならない声で叫んだ。狂ったように、めちゃくちゃに走ろうとしてつまずき、斜面を雪まみれで転がり落ちていった。前方から「おーい」と複数の男の声が聞こえ、灯が点滅しながら急速にこちらに進んでくる。幾人かのシルエットが顕わになって、懐中電灯に照らされた健司の姿を見るなり、彼女の意識は遠のいていき、それから先はわからなくなった。

 病院で目を覚ましたのは、その翌朝だった。健司と彼の両親が心配そうに和子を見守っていた。彼らのとっさの判断と機転で、彼女は助けだされたのだ。

 猛吹雪の中、健司と係員たちは必死で和子を捜したが、なかなか見つからなかった。その途中で急に吹雪がおさまり、やっとの思いで彼女の姿を発見したという。


「早く帰して、ここは私のいる場所じゃない」


 声を限りに、和子はベッドの上で叫んだ。病院の窓越しに見える降り続く雪が恐かった。これほど積もっているというのに、まだ飽き足らぬというのか。


「お願い、東京に帰りたいのよ。ここにいたくない。早く帰して、帰してよ」


 半ば錯乱しているかのような彼女の姿に、健司と両親はおろおろとうろたえ言葉が見つからなかった。和子はすぐに退院したい旨を主張し、病院側もやむなくそれを許可した。本人が今おかしいのは精神状態だった。そこにいたくないと訴える者を無理強いすることはできなかった。

 健司に家から荷物を取ってきてもらい、彼女は病院からそのまま駅に送ってもらった。運転する健司も、助手席にいる和子も、見送りに来てくれた彼の両親も、誰ひとり一言も喋らなかった。二日前来た時は、こんな事態になるとは想像もしなかった。

 新幹線に乗り込み、座席に着いて、ようやく和子は冷静さを取り戻した。窓の外で健司たちが心配そうに覗き込んでいる。彼女は申し訳なさで胸が一杯になった。

 あなた達は何も悪くはない、ただ私がこの街に住む自信がなくなっただけなのです。動きだした新幹線の中で小さく会釈を返し、和子は心の中で彼らに詫びていた。豆粒みたいになるまで、健司たちはいつまでも手を大きく振っていた。それを見て和子は泣いた。大粒の涙が、拭っても拭っても頬をこぼれ落ちた。


 ゆるやかに月日は流れていった。

 あれから十年の歳月が経ち、和子は結婚して一児の母となり、穏やかな幸福につつまれて暮らしている。雪のめったに積もらぬ住み慣れた東京で。

 プラットホームでの別れを境に、やはり健司との仲は自然に消滅してしまった。何度も何度も彼についていこうと思ったけれど、どうしても無理だった。なのに時を追うにつれ雪国がなつかしく、恋しくさえ想うのはなぜなのだろう。

 彼女は今でも、時折あの夜の出来事を思い出す。

 とても恐くて・・不思議な・・現実とはとても信じがたい記憶。あれは夢だったのか、それとも雪が見せたひとときの幻だったのだろうか。

 窓辺にもたれ、遠く北の空を眺めるとせつない気持ちになる。そうして雪山のあの場所にもう一度行きたいと、そんな思いにかられたりする。

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レジェンド・オブ・スノウ 現代編 オダ 暁 @odaakatuki

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