第2話

 改札を出た場所で健司は待っていた。和子が手を振って合図をすると、彼は瞳を輝かせて照れくさげに微笑んだ。


「よく来たね」

「うん」


 二人は熱い視線をかわし、駅の外に向かって歩きだした。駅前の街並みは想像していたよりもずっと開けていて、周りをきょろきょろ見渡しながら彼女は内心ほっとしていた。どんな田舎だろうかと実は覚悟していたのだ。


「思っていたより、悪くないだろ」


 和子の旅行鞄を軽々と持ち、健司は彼女の心の中を見透かしたように言った。


「でも僕の家はここから車で二時間くらいの田舎だからね」

「二時間?けっこう遠いんだ」


 二人は話しながら駐車場まで歩き、車に乗り込んだ。そこから家までの道中は、やはり彼女にとって未知の風景ばかりだった。家々の軒からはつららが垂れ下がり、道路の両端にはこんもりと雪が積み上げられている。除雪車が毎日がんばっているのだろう。家の前で子供たちが雪だるまを作っている姿も微笑ましかった。

 市内を抜けると景色はだんだん寂びれてきて、古い家並みが連なる中に、これまた老朽化した商店がぽつんぽつんあるといった様子だ。健司の家はその一角にあった。


「東京さからよぐ来たなっす」

「ほんに遠いとっがら、まんず休みなっせ」

 玄関で深々と頭を下げる、はじめて出会った息子の婚約者に、彼の両親はねぎらいの言葉をかけた。健司と同じく素朴で善良そうな彼らに、和子は恐縮しながらも安堵した。古い木造二階建ての家屋には堀り炬燵や煙突付きの大きなストーブが置かれ、いかにも雪国の冬らしい。

 和子には年の離れた姉がおり、今は結婚して実家の近所に住んでいる。それにひきかえ健司は一人っ子だ。息子が地元で就職して、東京から嫁まで来てくれることに、彼の両親はしごく満足しているようだった。二人の結婚に反対する様子など微塵もない。ただ和子の都会的な雰囲気に、いささか圧倒されてはいたが。


「これ食べてけれ」


 と自家製の漬物やふかした芋を、炬燵で暖まっている彼女の前に次から次へと運んでもてなしてくれる。和子はその心遣いがありがたかった。

 その夜は健司たちのすすめで一番風呂に入り、それから四人できりたんぽ鍋を囲んで和やかに夕食をすませた。話が弾み、離れの和室に用意された床に身体を横たえたのは、柱時計がぼんぼんと十二時を報せた後である。旅疲れはいささかあったが、和子の心は充実していた。彼らとならきっとうまくやれる、そう思いつつ急速に深い眠りに落ちていった。

 翌朝は眩いばかりの快晴だった。心地よく目覚め、布団から起き上がり雨戸を開けると、朝日に照り映えた雪景色が目の前に広がっていた。澄みきった空気がなんとも清々しい。


「今頃はめったにない天気だよ」

「和子さんが遠ぐから来てけでなあ」

「気つかわねでけれ」


 と、彼らは口々に言う。明日東京に戻るということもあり、和子は昼食後健司に誘われ、近くのスキー場に出かけた。これまでも何度か二人で行ったことがあり、健司はもちろんのこと、彼女もスキーに多少は自信があった。

 ゲレンデは家族連れや若者であふれていた。雪化粧された遠くの山々は、うっとりと見惚れるほど美しい。自然が描いた壮大な絵が眼前にあった。

 和子はさっそく板や靴をレンタルでそろえた。それから二人はリフトで上まで登り、山裾に向かって滑りはじめた。健司の滑りはさすがに達者で、和子はそのあとを懸命に追いかけた。それを何度か繰り返し、真冬だというのに汗ばむほど二人は滑った。途中、彼女は隣にある上級者向けのリフトを指したが、健司は


「あっちは和子には無理だよ」


 と言い


「行っちゃだめだよ」


 と強い口調で付け加えた。夕方になると急に悪天候になり、どんよりした雲が空を覆い、いつのまにか吹雪いている。急いで帰り支度をするスキー客がめだつ。健司はゴーグルを上げ、辺りを見渡しながら、そろそろ帰ろうと告げた。和子はあと少しとねばった。


「トイレに行きたいから、僕は先に下で待ってるからな。なるべく早く来いよ」


 健司は板をかつぐと、食堂や休憩所がある建物の方向に降りていった。贅肉がなく、がっしりと頼もしい後ろ姿。その背中が視界から消え去るのを確認してから、和子は隣の上級者用のリフトに向かってスキー板を蹴って滑りだした。注意して滑れば大丈夫、好奇心が旺盛で楽天的な彼女は、その時そう考えた。自分の腕を過信し、吹雪を甘くみていた。

 リフトで登って景観を見下ろすと、山の傾斜はさっきと比べものにならないほど険しく、和子の両足はすくんだ。しかしここまで来たからには、自力で滑って下山するほかない。廻りにちらほら人はいるが皆すいすいと板を走らせ、たちまち彼女の視界から消えてしまう。リフトを利用する客が殆どいなかったことを思い出し、和子は健司の忠告を無視したことを後悔した。

 どうにでもなれ、大きく深呼吸をするとストックを握り締め、そのままジグザグの形に滑りだした。出だしは良かったものの、加速度的にスピードがつくと勢いに乗れず、もののみごとに後方にひっくり返ってしまった。彼女は仰向けに倒れたまま、しばらく動けないでいた。頭から背中にかけてしたたかに打ち、ずきんずきんと鈍痛が走る。ぞっとするような暗色の空が、真上にあった。

 和子はどうにかこうにか起き上がった。帽子はふっとび、おまけにスキー板が片方足からはずれている。それらは五メートルくらい下の所にあった。取りにいこうとして何度も転び、彼女はもう片方の板もはずした。吹雪はますます激しく荒れ、遠くの山々は不気味な紫色に霞み、廻りには自分以外誰もいない。突然言いしれぬ恐怖が和子を襲った。まさかこの場所で遭難するのだろうか。

 誰か助けて、健司さん、早く助けに来て・・

 板を投げ捨て、和子はストックを杖代わりに使って徒歩で下山することにした。スキーを操る自信が全くなかった。しかし今や獣が吠えるように吹き荒れる雪に、目の前は遮断され足元はとられっぱなしだ。状況は悪くなる一方だった。どこをどう進んでいるのかわからず、ついに限界を感じ、彼女はその場にしゃがみ込んだ。

 絶望に似た気持ちと自分に対する苛立ちが、胸の奥から込み上げてくる。涙が出てくるのに、それも顔面を容赦なく打ちつける雪にかき消され、泣いているのかどうかさえわからなくなってきた。

 びゅうびゅうと猛烈な風が地上をうねり、あらんかぎりの方向から凄まじい勢いで、全身に雪粒が打ちつけてくる。和子は這うようにして斜面を横に進み、手探りで綱につかまった。そこから崖下に向かって「助けて」と大声で叫んでみても、それは虚しい響きでしかなかった。彼女はそれでも何度も試みた。声が枯れるほど繰り返した。が、応答は全くなかった。疲れはて網に両手をかけたまま、崩れんばかりにうずくまった。目を伏せ、両膝の間に顔を埋めるようにして、その体勢でじっと動かずにいた。

 急に風が弱まり、吹雪がおさまってきた。和子は顔を上げ、廻りをゆっくりと見渡した。わずかだが視界は明るくなり、おぼろげながら周辺の景色に見当がつく。ほっとして立ち上がろうとした、その時、何やら奇妙な音がした。音?いや、それは人の声だった。透き通った女の笑い声だった。

 

 


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