25th

 リビングのドアを開けても、私たちを出迎えてくれるカシュの姿はない。まだ数回しかこの家に来たことがない私でもこれほど寂しいのだから、松木さんの心情は計り知れない。


 松木さんはソファーに腰を下ろすと、大きな溜め息をひとつ吐き出した。よほど疲れていたのか、そのまま何を言うわけでもなく、ぼんやりと虚空を見つめている。私も自ら「お邪魔しますね」なんて言って家に上がったものの、衝動的な行動だったため特に目的があるわけでもない。何をするべきか分からず、松木さんの隣に座ることしかできなかった。


 私も松木さんも黙ったまま、ソファーに隣同士で座っている。


「......すみません。無理やりお邪魔してしまって」

「ううん、大丈夫。私こそ、いきなり電話しちゃってごめんね。パニックになって、気がついたら電話をかけていて......」

「大丈夫ですよ。頼りにして頂いて嬉しいです」


私がそう言うと、松木さんは私から視線を外して、少し俯きながら話し始めた。


「......私、頼れる人が誰もいなかったから。家族とは距離があるし、同僚とも仕事の付き合いだけで。昔の友達とも連絡が途絶えているし」


そう話す松木さんが、いつもより小さく見える。


「本当に、早川さんがいてくれてよかった」


私を見て松木さんは笑顔を浮かべた。いつも見せてくれる笑顔とは違って気力がなく、悲壮感すら漂う表情に胸が痛む。作られた表情であることは明らかで、無理をして普段通りを装っているのだろう。


 今にも消えてしまいそうなほど弱々しい笑顔。今にも崩れてしまいそうな脆い瞳。こんなに危うい表情を隠しきれていないのに、どうしてこの人はここまで無理をしているのだろうか。


 その理由も、今では容易に推測できる。


 きっと、私がいるからだ。


 私の前ではできるだけ普段通りに振る舞おうとしてくれているのだ。


 私がいるせいで松木さんに無理をさせてしまっているのなら、これほど本末転倒なことはない。


 松木さんから信頼を寄せられている私だからこそ、何かできることががあるはずだ。


 私にできること。


 私だからしてあげられること。


 

 ああ、こんなのは間違っている。


 頭に一瞬浮かんだ選択肢をかき消すけど、またすぐに同じ考えが顔を出す。


 だけど、このまま不安を抱え込ませたままだと、松木さんが壊れてしまうような気がした。


 それを防ぐための手段がこれだなんて。



 私は、松木さんを正面からそっと抱きしめた。


 

 「え?ちょっと......」と困惑する声が松木さんから漏れて、私の左耳に入り込む。私だって自分が引き起こした状況に困惑しているけど、だからと言って私まで取り乱していたら格好がつかないので、努めて冷静に振る舞う。


 お互いの身体が触れて、胸の辺りから松木さんの体温が伝わってくる。


 ここだけは衝動的にならないように、後悔しないように、慎重に言葉を選ぶ。


「松木さんは、いつも気丈に振る舞いますよね。仕事で大変な事があっても、それを私には明るく話してくれますし、友達がいないっていう事も笑い話にして聞かせてくれますけど。本当は辛いんじゃないですか?本当は不安でいっぱいなんじゃないですか?今も、私がいるから普段通りでいようとしてくれてるんですよね?でも、無理をしてるって分かりますよ。いつもの笑顔じゃないですから」


 下に降ろされたままだった松木さんの両手が、そっと私の背中に触れた。少し体を引き寄せられて、体同士がさらに密着する。


「前に約束しましたよね。二人でいるときは自然体でいましょうって。でも今日、気がつきました。松木さんはまだ私の前で、松木玲菜を演じています」


 背中に触れていた松木さんの両手が、私のシャツをぎゅっと掴むのを感じた。


「大丈夫ですよ。今さら、どんな松木さんを見てもがっかりしたりしませんから」


 私の腕の中に納まった身体が、小さく震え始めていることに気づく。


「私の前では本当の貴方でいてください。お願いですから」


 私のシャツを掴む力が強くなる。


 松木さんの顔が、私の左肩に沈む。


 感じる、不安定な呼吸。


 その奥に埋もれている、声にならない声。


 私の左肩に、湿った体温が積もっていく。


 松木さんが私の前で、こんなに自分を露わにしてくれている。


 その現実と向き合った途端、自分の胸の奥がじわりと温まるのを感じた。


 今まで感じたことのない感覚。


 松木さんの体温と、自分の中に生まれた温もり。


 不思議な心地よさに身を委ねながら、そっと目を閉じた。

 

 

 

......さん。


......早川さん。


......早川さん!朝だよ!」



 いつの間にか聞こえていた松木さんの声で気がついた。目を開けると、私が抱きしめていた松木さんは何処へやら、笑顔の松木さんがそこにいた。部屋の中には自然な明るさが広がっていて、やけに爽やかな空気の中に妙に香ばしい香りを感じる。重たい体を起こすと、私の体にはタオルケットがかけられていた。


 今にも閉じそうな瞼に抵抗しながらじっと松木さんを見つめていると、「おはよう」という言葉が返ってきた。そこでようやく自分がいつの間にか眠ってしまい、そのまま朝を迎えて松木さんに起こされたのだと理解した。


「朝食できるけど。食べる?」

「えっと......」


 私の寝起きの頭では処理に時間がかかる。


 ノーメイクで髪もセットしていないものの、普段の松木さんと様子は変わらないように見える。昨日の夜、このソファーの上で慰められていたのは私じゃないよね。まさか夢だったとか。そう思って部屋を見渡したところで、いつもカシュがいたケージが空であることに気づく。当然だけど、夢じゃなかった。


「どうする?それとも、先にシャワーでも浴びる?」

「......食べます」

「オッケー。準備するから待ってて」


そう言って松木さんはキッチンへ向かう松木さんは、初めて私がこの家に来た日と同じ部屋着を着ていた。もう一着は話の流れで私が譲り受け、意図せずお揃いとなってしまった例の部屋着。唯一違うところと言えば、私が貰ったものがロングパンツであるのに対して、松木さんが履いているのはショートパンツだという点。それによって、あの日と同じようにすらりと伸びた脚が露わになっている。その光景が目に飛び込んだ瞬間、何故だか一気に眠気が覚めたような気がした。


 原因不明の焦りに押されるようにソファーから降りて、そのままダイニングへ向かう。そのまま椅子に座って良いものか迷っていると、ワンプレート皿を両手に持ってキッチンから出てきた松木さんに「ほら、座って。飲み物は何がいい?」と訊かれた。


「何でも大丈夫です」

「アイスコーヒーでいい?」

「はい」


にこりと笑った松木さんはお皿を置いて再びキッチンの方へ戻って行く。椅子に座ったままでその姿を目で追っていると、カウンター越しに松木さんが冷蔵庫の前で立ち止まった。なんとなく冷蔵庫の中を覗くのはいけない事のように思え、慌てて視線を外して椅子に座ると、お皿に乗ったトーストの香ばしい匂いをさらに強く感じた。


 おしゃれな木皿の上にはトーストの他には、目玉焼きとベーコンやサラダが並んでいた。その横の透明な器にはヨーグルトが入っていて、赤いソースがかかっている。ほとんど自炊をせず、社会人になってからはまともに朝食を食べることが減った私にとって、こんなにおしゃれな朝食を目の当たりにするのは、大学生の頃に香織と一緒に入った喫茶店のモーニング以来だと思う。

 

「あの、大丈夫ですか?」


大きな紙パックのアイスコーヒーを手にキッチンから戻ってきた松木さんに、そう訊ねた。


「うん。早川さんのおかげで。ありがとう」

「いえ。私は何も......むしろ、すみませんでした。なんか偉そうなことを言ってしまって」

「全然。早川さんの言葉で、すごく楽になったの。いっぱいだった不安が全部消えちゃった。魔法みたいに」

「そ、そんな。私は......」


そう話しているうちに突然、昨夜の出来事がフラッシュバックした。またシャツの後ろを握られているような錯覚が起きて、何故か全身が熱くなる。


「......どうかした?」

「あ、いえ。お役に立てて何よりです」

「うん。ありがとうね。ほら、食べよう」


元気に「いただきます」と言ってトーストを齧る松木さんを見ていると、あの温もりが再び胸の中に広がり始めた。


正体不明の感覚に困惑しながら、私もトーストを齧った。



 それから私たちはただ、ゆったりと流れていく日曜日を過ごした。


 ソファーに並んで座ってテレビを観たり。ラフな格好のまま松木さんの家の近所を散歩したり。その道中で見つけたお店で買った昼食を食べながら、松木さんが気になっていたという映画を二本続けて見たり。動物病院からの連絡で、カシュの容態に問題がないことを知って安心したり。キッチンにふたり並んで、夕食を作る松木さんを手伝ったり。


 そんな時間の中でも何度か、例の感覚が顔を出した。それが起こるきっかけも、静める方法も分からないままだったけど、決して不快ではなかったから、そのまま身を任せることにした。おかげで、不思議といつもよりも充実した休日を過ごした気がした。


 夕食を終え、昼間と同じように二人でテレビを観ていると、番組の中で『まだ間に合う!夏のおすすめスポット』なる特集が組まれていて、偶然にも私たちがカシュと一緒に行ったあのドッグランが取り挙げられていた。カシュが元気に走り回っていたあの芝生の上を様々な種類の犬が元気に走り回っていて、中にはカシュに似たトイプードルも映っていた。


 あの日、帰りの車中で松木さんは、両親について話してくれた。松木さんにとっては、すごく勇気が必要なことだったと思う。そんな松木さんの勇気を私は、自分を偽ったまま受け止めた。松木玲菜と真月佑奈の関係を知らない自分を演じ続けた。それは今も変わらない。


 昨日の夜、私は松木さんに「本当の貴方でいてください」と言った。今になって思えば、私にそんな事を言う権利はない。自分を偽り続けているのは、他ならぬ私自身なのだから。


 これから私は、どうやって松木さんと向き合えばいいのか。何度も考え、何度も結論を出しては、またすぐに迷ってしまう。


 今の私が向き合うべきは、記憶の中で歌う今は亡きアーティストか。それとも、私の隣でテレビを観ながら飼い犬を想い不安な表情を浮かべている一人の女性か。その姿を見ると、私の心が騒ぎ出す。


 私を頼って欲しい。


 もう、不安な思いをしてほしくない。


 この人を傷つけたくない。


「また、一緒に行きましょうね」


寂しそうな横顔に声をかけると、松木さんは声を出さずに小さく頷いた。



 松木さんは、駅まで私を見送りに来てくれた。「コンビニに行きたいから、そのついでに」と言っていたけど、きっと一人になりたくなかったのだと思う。駅までの道中、普段は速く歩く松木さんがゆっくり歩いていて、逆に私が松木さんの歩幅に合わせていたから。


「すみませんでした。急にお邪魔して、そのまま泊まらせてもらって」

「こちらこそ、ごめんね。日曜日を邪魔しちゃった」


改札を前にして、私たちはそんな会話を交わした。それほど大きくはないこの駅で、わざわざ改札の前で立ち止まって話しているのは私たちくらいだ。


「じゃあ、また金曜日に。ご飯行こうね」

「はい。それでは、また。ありがとうございました」

「うん。じゃあね」


笑顔の松木さんに背を向けて、改札へ向かって歩き出す。少しの距離なのに、脚が重い。


 振り返ると、松木さんは笑顔のまま手を振ってくれた。


 私が改札を通れば、松木さんはマンションに帰って行く。そこにはカシュもいなければ、当然他の誰かがいるわけでもない。カシュが帰って来るまでの一週間、松木さんは不安を抱えたまま一人で過ごすのだ。その光景が脳裏に浮かび、なんだか胸が締めつけられるような感覚に陥った。


 いつまでも立ち止まったままの私をさすがに不思議に思ったようで、松木さんは私の方へ駆け寄ってきた。


「どうしたの?」

「いえ......」


なんでもないです。


そう言おうとした自分を制す。


自分に正直に。


これ以上、偽りを重ねるのはやめにしよう。


「......別に、金曜日じゃなくてもいいんですよ」


自分の気持ちに任せて、言葉を繋げる。


「寂しかったら、いつでも連絡してください」


眼鏡の奥、驚いた様子の丸い瞳をしっかり見つめる。


「なるべく、すぐに会いに行きますから」


駅の構内。青白い照明の下で、松木さんの頬が赤く染まるのがわかった。


「......ありがとう」


いつもより柔らかい笑顔が、また私の気持ちをかき乱す。


身体の周りで熱が渦巻いていく。夜とはいえ、八月の暑さを甘く見てはいけない。


「......電車来ちゃうよ」


松木さんの言葉で我に返る。背後から改札がICカードを読み取る音が聞こえてきて、自分たちの状況を思い出した。


「......そうですね。失礼します」


再び松木さんに背を向けて、駆け足で改札を通った。今度は振り返らず、そのままホームへ向かう。自分でもよく分からないけど、もう一度振り返ったらいけない気がした。


 ホームへ入って来た電車の音を聞いて、階段を降りる速度を上げる。近い乗車口になんとか駆け込み、周りの乗客からの冷たい視線を無視して呼吸を整える。


 動き出した電車の中で、運動不足の身体で急に走るのは良くなかったと反省する。


 こうやって無理をすると、動悸がなかなか治まってくれないのだ。

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